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読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

【読了本メモ的レビュー】『千夜千冊エディション 面影日本』で、日本の「面影」という「あてど」への旅を

2020-04-26 00:10:00 | 「本」についての本


『千夜千冊エディション 面影日本』
松岡正剛著、KADOKAWA(角川ソフィア文庫)、2018年


現在の日本において、掛け値なしに〝知の巨人〟と呼べる存在といっていい松岡正剛さんが、森羅万象の書物を該博な知識で読み解き、書物の世界を自在に遊ぶブックナビゲーションサイト「千夜千冊」。2020年4月現在、1739回にもおよぶ「千夜千冊」から、テーマごとにピックアップして再編集する文庫版シリーズ「千夜千冊エディション」の一冊である本書は、日本と日本文化を深く知り、味わうための書物の数々を取り上げています。
〝面影〟というキーワードのもとにピックアップされたのは27冊。谷川健一『常世論』や山折哲雄『神と翁の民俗学』、丸山眞男『忠誠と反逆』、清少納言『枕草子』、和泉式部『和泉式部日記』、鴨長明『方丈記』、吉田兼好『徒然草』、三浦佑之『浦島太郎の文学史』、石田英一郎『桃太郎の母』、ドナルド・キーン『百代の過客』、渡辺京二『逝きし世の面影』、李御寧『「縮み」志向の日本人』など。

萩原秀三郎『稲と鳥と太陽の道』を取り上げた回では、日本におけるコメ文化や正月儀礼のルーツが、中国南部の民族「ミャオ族」(苗族)にあるという興味深い説が紹介されます。また、『枕草子』の回では、一見すると自分の好みを勝手気ままに羅列しているように思える記述でありながら、そこには清少納言による絶妙な「編集」感覚が働いていることが喝破されていて、目からウロコでありました。
驚かされたのは、四、五人から十数人の参加者が集まって、五七五と七七の歌を百句に達するまで交互に挟んでいくという〝連歌〟を取り上げた伊地知鐵男『連歌の世界』の紹介です。それによれば、連歌は一句ずつに主題が移り、どんな趣向にも滞らないというのが基本であるのみならず、中には句の頭に「い・ろ・は・に…」を順に折り込んでいく「冠字連歌」や、連なっていく歌がすべて回文になっているという「賦回文連歌」などという超絶技巧まであるのだとか。連歌というものが、かくも高度な技巧で織り成される知的遊戯だったとは!

松岡さんならではの切れ味がギラリと光る記述は、「千夜千冊」の醍醐味の一つです。
たとえば、伝統文化からポップカルチャーまで、あらゆる日本の文化に通暁するエッセイストで劇作家のロジャー・パルバース『もし、日本という国がなかったら』を取り上げた回。この本の中でパルバースが、「日本人はオリジナリティが乏しい」という批評を当の日本人が受け入れすぎていることに呆れているのを受けて、松岡さんはこう述べます。

「なぜ日本人はオリジナリティが乏しいなどと思いすぎたのか。明治以降、外国の文化を外国人が誇り高く自慢したり強調したりすることに、うっかり跪きすぎたのだ。敗戦後の民主主義日本では、もっとそうなった。
江戸時代まではそんな卑屈なことをしていなかった。各自がみんな「分」(ぶん)をもっていた。身分の違いも本分の違いも、気分の違いも平気だったのだ。それがうっかり卑屈になったのは、海外の列強が日本をコケにしたからなのではない。日本が勝手に卑屈になったのである」

幕末の日本を訪れた外国人の記録をもとに、今では失われた日本の〝面影〟を追っていく、渡辺京二『逝きし世の面影』の回でも、日本を見捨て、日本を見殺しにしたのは欧米列強ではなく日本人自身であったのだ、と述べています。日本の民族性と文化を一概に「遅れたもの」とみなし、その特性を熟考することもなく否定する一方で、海外の思想や文化を「進歩」したものとして受け入れることで、日本が持っていたはずの良い面すら捨て去っていった、わたしたち日本人のあり方に対する痛烈な批判は、胸に響きました。
その一方で、日本と日本文化を「神聖不可侵」なもののように捉える偏狭さとも、松岡さんは無縁です。先に挙げた『稲と鳥と太陽の道』の回で、一見日本独特なもののように思われている稲作や正月の儀礼、それに信仰をアジアとの関わりから探ろうとする姿勢も、その現れでしょう。また、日韓の比較文化論である李御寧『「縮み」志向の日本人』については、一部の見方に異論を加えつつも、日本文化の特色にしっかりと分け入ったその内容自体は高く評価しておられます。

書物を読むことの愉悦を、卓抜な言い回しで語る文章に触れることができるのも、「千夜千冊」の醍醐味でしょう。
吉田兼好『徒然草』の回では、冒頭で「本を噛む」という話を綴ります。「読み耽るわけでもなく、口に入れたまま読める」のが「本を噛むということ」であり、「その言葉をチューインガムにしたまま、散歩に出たり、車窓の外を眺められるのが『徒然草』なのだ」と。なるほど。カチカチな姿勢で背筋伸ばして読むのではなく、肩の力を抜いてチューインガムを噛むようにしながら読むことで、『徒然草』はより一層味わい深くなるのかもしれませんねえ。
ドナルド・キーン『百代の過客』の回の冒頭の一文も、すごく素敵です。これはそのまま引くことにいたしましょう。

「どんな本との出会いも、自分で行く先を決めて買った切符に従って、どこかの「あてど」へ踏み出していく旅立ちである。言葉と画像でできた車窓の風景が次々に変じ、著者やら登場人物やら見知らぬ多くの人物と乗りあわせ、たいていは章や節の通過駅があって、本から本への乗り換えもあり、こちらも疲れたり気分が変わったりするから途中下車もあり、宿泊や逗留も待っている。読書とは一身百代の過客になることだ」

わたしも、『面影日本』を頼れるガイドブックにしながら、自分が知らなかった、あるいは見失ってしまっていた、日本の「面影」という「あてど」を目指す旅へ出てみようかなあ・・・と思っております。
まずは手始めに『徒然草』と『もし、日本という国がなかったら』、それに長らく積読のまんまになっていた『逝きし世の面影』を読むとするかな。あと、目下のコロナパニックの状況の中で読むとまた違った味わいで読めそうな『方丈記』も、久しぶりに再読してみるといたしましょうかね。

『文庫本は何冊積んだら倒れるか』 役には立たないけど無性に愉快な、遊び心で本を愉しむための一冊

2020-03-29 23:00:00 | 「本」についての本




『文庫本は何冊積んだら倒れるか ホリイのゆるーく調査』
堀井憲一郎著、本の雑誌社、2019年


森永のチョコボールを1000個以上買って金と銀のエンゼルがいくつずつ出るか調べたり、在京6局のテレビ局のアナウンサーが画面に出ている時間を1週間にわたって調べ上げたり、エロメールによく使われる女性の名前をランキングにしたり・・・。疑問には思っていても誰も本気で調べようとしない(もしくは、そもそも調べようとすら思わない)ようなテーマを取り上げてはとことん調べまくった、『週刊文春』の伝説の連載「ホリイのずんずん調査」で知られるコラムニスト・堀井憲一郎さんが、本にまつわるあれやこれやを調査した一冊であります。
副題どおり、調査の内容はあくまで「ゆるーく」、とりたてて役に立たないものではありますが、それでいて本好きのツボをどこか絶妙にくすぐるようなテーマばかり。堀井さん独特の、これまたゆるーい文体とも相まってやたらに楽しくて、読んでいると1ページに最低2回(多いときには5〜6回)は笑いの発作に襲われました。

書名にもなっている「文庫本は何冊積んだら倒れるか」は、文庫本を出版社別に積み上げていき、倒れる直前の冊数と高さを測るというものです。
岩波うんこ、もとい、岩波文庫を(岩波現代文庫と合わせて)積み上げたら、夏目漱石『坑夫』までは耐えたものの、チョムスキー『統辞構造論』をのっけたら倒れてしまったとか。それで、「漱石とチョムスキーはあまり反りが合わないのかもしれない」と言っちゃったりしていて、思わず爆笑させられました。そりゃこれで「反りが合わない」などと言われた日には、漱石もチョムスキーも立つ瀬がないでしょうけど。
同じ文庫本でありながら、高さに差があるハヤカワ文庫と講談社文庫を並べて、そこに生じる「身長差」の空間に入るスリムな文庫本を調べる、という調査も愉快でした。
文庫本には出版社ごとに微妙な「身長差」があることは知ってはいましたが、そこにスリムな文庫本を「住まわせる」という発想はさすがにありませんでしたねえ。これには思わず脱毛、もとい、脱帽でした。
大きな書店の文庫売り場で、各社の文庫が置いてある棚の幅を歩幅で測る、というのもあります。これによれば、新潮文庫が「17歩」で一番広いスペースを誇っていて、以下講談社文庫、文春文庫および角川文庫と続いて、けっこう多かったのが「5歩」のグループ(集英社文庫や光文社文庫など)だったとか。
まあ、意味がないといってしまえばハイそれまでよ、なのですが(笑)、書店の規模の大小はあっても、どこもおおむね新潮文庫がもっとも多かったりするので、これはちょっと納得でありました。

「小説をめちゃ速読してみる」という項目は、いろんな名作文学の最初の一文と最後の一文だけを読んで小説を味わう、という趣向。たとえば、芥川龍之介の『羅生門』は、
「ある日の暮方の事である。下人の行方は、誰も知らない」
漱石の『坊っちゃん』は、
「親譲りの無鉄砲で、小日向の養源寺にある」
志賀直哉の『城の崎にて』は、
「仙吉は、擱筆することにした」
・・・などといった感じ。まあ、これも他愛ないといっちゃ他愛ないのですが、なんかミョーに楽しかったりいたします。いろいろな名作小説で試してみたら、けっこう面白いかもですな。
名作を音読してみて、読み間違えたところをチェックするという項目も、他愛ないけど面白いお遊びであります。プルーストの『失われた時を求めて』は、集英社文庫版では冒頭からの12行目で詰まり、光文社古典新訳文庫版では23行目でダウン。レイモンド・チャンドラー『かわいい女』の創元推理文庫版(清水俊二訳)では5行目で行き詰まり、ハヤカワ文庫版(村上春樹訳)では11行目で挫折・・・。
確かに堀井さんも書いているように、音読するというのはかなり疲れることではあるでしょうが、名作に親しむという意味ではこれもけっこう、面白い方法かもしれません。・・・人が見ているところでやると怪しまれそうだけど。

そう。本書には、一見敷居の高い名作文学をナナメから楽しむことで、名作が身近に思えるような項目がけっこう多くあったりするのです。ヴィクトル・ユゴー『レ・ミゼラブル』の新潮文庫版全5巻を通読して、主人公であるはずのジャンバルジャンがいかに「出てこない」かを検証した項目も、実に面白く読みました。
それによれば、第1巻の冒頭から1549行、89ページになってようやくジャンバルジャンが登場。それ以降も別の人物が主役となったり、ワーテルローの戦いや修道院などに関する作者ユゴーの〝うだつき〟(脱線)などでジャンバルジャンが出てこない章が多くあり、第3巻に至ってはまったくジャンバルジャンが登場しない(!)んだとか。
ううむ、『レ・ミゼラブル』はこれほどまでに、ジャンバルジャンが「出てこない」お話だったとは。わたしが知っている『レ・ミゼラブル』って、ほんとごくごく一部でしかなかったんだなあ、ということを認識した次第であります。

本書には面白おかしい項目ばかりではなく、文庫本を通して時代の流れが窺えるような項目もあったりいたします。
「新潮文庫15年の作家の違いを眺める」は、2000年と2015年の新潮文庫解説目録を比較して、消えていった海外文学の作家や作品をチェックするというもの。それによれば、2000年にはまだ10作品あったアガサ・クリスティの著作が、2015年版ではすべて消えてしまっていたといいます。また。パスカルの『パンセ』やロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』、テネシー・ウイリアムズ『やけたトタン屋根の猫』、さらには最近ハリソン・フォード主演の映画版が公開されたジャック・ロンドンの『野性の呼び声』も消えてしまったのだとか。けっこう、名作が残っていると思っていた新潮文庫ですら、思っていた以上に名作ものが消えてしまっていたとは。
また、「岩波文庫〔緑〕の欠番を調べてみる」では、岩波文庫の〔緑〕帯(現代日本文学)の中で、2016年の次点で品切れとなっている作家を調べています。ここでも、葛西善蔵や山本有三、岡本かの子、室生犀星、野間宏、草野心平、野上弥生子などなどの面々が、品切れの憂き目にあっていることがわかります。岩波文庫の場合はときおり品切れ本でも重版がかかるので、またいつか復活のチャンスもあるかもしれませんが、それでも岩波文庫ですら、意外な大物の面々が品切れになっていることには、ちょっと驚かされました。
新潮文庫版『ボヴァリー夫人』の1965年版と2015年版を比較して、そこで使われている訳語の違いを追った項目も面白いものでした。「羽根つき」が「バトミントン」になっていたり、「柴を折って」が「たきつけ用に小枝を折って」となっていたりしていて、時代が変われば言葉の使い方も変わっていくということがよーくわかります。

本好きにとっては「あるある」と膝を打ちながら、思わず苦笑してしまうような話題もございます。読もうと思って買っておきながらも、読まないままに積んでおいた本には、「未読の悪魔」が取り憑いて「腐って」いくということをテーマにした項目は、積読本を山のように、どころか山脈のごとく抱えているわたしにとっては、よくわかり過ぎるくらいわかるお話でありました。
また、「人は1年に何冊本を読むのか」という項目では、1年間に何冊の本を読んだかを記録していたら、本を読みたいというよりも「読んだ本の記録数を伸ばしたくて読む」という気持ちが出てきたので、記録することをやめた・・・という、若いときの経験を語っています。その上で、こう記します。

「数字を数えだすと、数字のほうが大事になって、本体はどうでもよくなってしまう。つまり読んだ冊数が大事で、読んだ本はどうでもよくなってしまう」

ああ、数字を気にするようになると、そういう本末転倒なことになりうるよなあ・・・。自分自身にも身に覚えのあることなので、これは気をつけなきゃいけないなあ、と思ったことでありました。

ここのところ、どこを向いても新型コロナがらみのニュースばかりで気が滅入る昨今。たいして役には立たないかもしれないけれど、なんだか楽しい本のお話を、ゆるーいジョークやギャグを散りばめた文章で綴った本書は、無性に愉快な気持ちにさせてくれました。
書物に格調高い教養やら、社会に対するスルドイ問題意識やらを求める「正統派」読書人にはあまり向かないかもしれませんが、遊び心とともに本を愉しみたいという方には、大いにオススメしたい一冊です。

【読了本メモ的レビュー】『千夜千冊エディション 情報生命』

2019-10-27 19:32:00 | 「本」についての本


『千夜千冊エディション 情報生命』
松岡正剛著、KADOKAWA(角川ソフィア文庫)、2018年


まさしく「知の巨人」というフレーズがふさわしい方である松岡正剛さんが、2000年から続けているブックナビゲーションサイト「千夜千冊」。それをテーマごとにピックアップし、再編集した文庫版シリーズの第4巻です(昨年5月に刊行が始まり現在続刊中。今月10月には12冊目が刊行されています)。

第4巻となる本書には、情報と生命との関わりについての探究と考察がなされている、29冊の書物が取り上げられています。いわゆる「ガイア理論」を提唱したジェームズ・ラヴロック『ガイアの時代』から、遺伝子生物学の古典であるエルヴィン・シュレーディンガー『生命とは何か』やリチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』、複雑系の科学を主題とした蔵本由紀『非線形科学』や清水博『生命を捉えなおす』などなど。
科学書だけでなく、アーサー・C・クラーク『地球幼年期の終わり』や、J・G・バラード『時の声』、ブライアン・W・オールディス『地球の長い午後』、フィリップ・K・ディック『ヴァリス』、ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』といったSF小説がたくさんピックアップされているのも面白いところです。なかでも、ディック晩年の傑作にして問題作といえそうな『ヴァリス』をめぐる考察は、興味深いものがありました。
「ゆらぎ」「相転移」「カオス」といった、複雑系の科学を扱った書物5冊を取り上げた第3章は、貧弱なわたしのアタマではちょっと追いつかず、ただただボーゼンとしながら読み進めざるを得ませんでしたが・・・。ですが、圧倒的な「知の奔流」のなすがままに揉まれるというのも、どことなく妙に心地良く感じられたり。

本書で印象に残ったのは、はっきりとした因果関係などないはずの現象が、まるで同期的にはたらいているかのように同時におこる・・・という「シンクロニシティ」を主題にした、F・デイヴィッド・ピートのそのものズバリの書名『シンクロニシティ』を取り上げた回の一節でした。松岡さんは、シンクロニシティなる考え方の当否には留保をつけつつも、このように語ります。

「ぼくはシンクロニシティという言葉で、自分の思索を育てようとはしていない。しかしハナっからシンクロニシティのシの字も認めないという連中の仕事から何かを得たというおぼえもない。そういう連中には縁がない。ぼくはやっぱり縁側つづきでコレとアレとを考えたい」

貪欲にして柔軟な、松岡さん流の「知の作法」が現れているかのようで、なかなかシビれるお言葉だなあ・・・と思いました。

『ベストセラー全史【近代篇】』 近代のベストセラーから見えてくる、変わっていったことと変わらないもの

2019-08-25 12:52:26 | 「本」についての本

『ベストセラー全史【近代篇】』
澤村修治著、筑摩書房(筑摩選書)、2019年


時代から生まれ、時代をつくったベストセラーを網羅的に取り上げながら、それらが生まれた経緯や、ベストセラーになるに至った背景をエピソードとともに紐解いていく出版文化の通史『ベストセラー全史』。昭和戦後期から平成の終わりまでを扱った【現代篇】に続いて刊行された【近代篇】では時代を遡り、明治から昭和戦中期までを対象としています。
明治維新に日清・日露戦争、大正デモクラシー、関東大震災、長きにわたった戦争の時代、そして敗戦・・・。歴史が動き、社会も大きく変わっていった近代は、出版の世界も、現在につながる大きな質的変化を遂げていった時期でした。
出版社ー取次ー小売という流通システムの確立、返品ができず割引きで売りさばいていた買切り制から、返品可能で定価販売する現在の委託制へと移行していったのは、まさにこの時期のこと。その中から、出版の歴史に残るベストセラーの数々が生み出されていきました。

近代に入って最初に登場するベストセラーは、あの福澤(福沢)諭吉の著作です。明治維新の直前に刊行された『西洋事情』を皮切りにして、『学問のすゝめ』『文明論之概略』『福翁自伝』と、その著作はどれもベストセラーとなって多くの人びとに読まれました。
福澤の著作がベストセラーとなって多くの人びとに読まれた理由について、『ベストセラー全史』の著者・澤村修治さんは、〈平易にして読み易き〉を常に心がけた福澤の執筆態度にあることを指摘します。蘭学の師であった緒方洪庵から、翻訳にあたっては難しい言葉は禁物という教えを受けた福澤は、自著の執筆にあたっても同じ姿勢で、わかりやすい文章を書くことに徹しました。ときには、「文字に乏しき家の婦人子供等」に草稿を読ませては、分からぬと指摘された箇所は改めたりもしたのだとか。
わかりやすい記述で多くの読者を得る一方で、福澤は『学問のすゝめ』が売れたことによって身辺に危険を覚えるほどの非難攻撃にも晒されたといいます。それも、〈文章の一字一句を見て全面の文意を玩味せず〉になされる筋違いの論難だったとか。「ベストセラー界の洗礼をたっぷり受けたわけで、その点でも福澤は『先駆者』だといえよう」と澤村さんは記します。多くの人に受け入れられるわかりやすさに徹した執筆姿勢、そして文意をちゃんと理解しない筋違いな論難の洗礼・・・。福澤諭吉はいろんな意味で、まさしくベストセラー作者の「先駆者」だったんですねえ。
福澤諭吉というベストセラー作者の先駆者を生んだ明治時代ですが、映画化・ドラマ化のヒットによる相乗効果で本の人気が高まる、という現象の先駆をなした書物も登場しています。それは尾崎紅葉の代表作『金色夜叉』。新聞連載中から高い人気を集めた同作は、新派劇として上演されるやそちらも大当たり。さらに後年には映画化されたり流行歌の題材になったりして、本の人気をさらに押し上げることになりました。
近代的な出版システムが確立したばかりの明治時代という時期に、早くも現代と同様のベストセラー界の現象が立ち現れていたという事実は、まことに興味深いものがありました。

出版システムが確立していく中で、創意とヤマっ気、そして野心を持った出版人たちが現れて出版社を立ち上げ、ヒット作を生み出していきます。その代表格が、出版のみならず取次、洋紙店、印刷所、通信社を次々に創立して、明治における「出版王国」を築き上げた博文館であり、その創業者である大橋佐平・新太郎父子です。
故郷である越後長岡から52歳で上京し、博文館を立ち上げた大橋佐平は、事業を考えつけば「幾夜も眠らずして熟考すること常なり」というくらい、行動力と起業家精神にあふれていた人物。一方、父の佐平から請われて事業に加わった新太郎のほうは、企画力に加えて数値に明るい理財的な才を持った経営者型の人物だったとか。「挑戦者精神を失わない佐平と、背後を緻密に整える醒めた理財家新太郎」という、タイプの違う「父子二つの精神性の融合」が、ベストセラーを生み出す上で重要な役割を果たし、博文館を「出版王国」へと躍進させたことを澤村さんは指摘します。が、そんな博文館もやがて、次々に登場してくる新興の出版社に押され、勢いに陰りが出てきます。
博文館に代わって台頭してきた出版社のひとつが、講談社(創立当初の社名は「大日本雄弁会」)。講談社が飛躍して「新・出版王国」へとのし上がる契機となったのが、関東大震災の被災状況を取材してまとめた『大正大震災大火災』の大ヒットでした。震災により出版社や取次などが壊滅的な被害を受け、雑誌の多くが休刊を余儀なくされる中、休刊中の雑誌編集者を含めた社員を総動員し、不眠不休で取材して編集製作した『大正大震災大火災』は、震災から1ヶ月後というきわめて早い時期に刊行され、増刷分とあわせて40万部を売り切るベストセラーとなりました。このことは結果的に、復旧未だ遠しとの印象が広がっていた出版業界の信頼回復に大きな役割を果たすことにもなったとか。そんな出版社の栄枯盛衰をめぐるエピソードも、本書【近代篇】の読みどころです。

昭和に入ると、単行本が1冊2円ほどだった時代に、その4〜5冊分の内容が1冊1円で読めるという、大量生産による全集企画「円本」が大ヒットします。そのヒットは類似企画の濫発により、競合する出版社の泥仕合や粗製乱造を引き起こした一方で、大量生産により書物が低廉化し、「知の大衆化」がなされるという効果をもたらすことになりました。
「円本」ブームで盛り上がった出版界も、その後の軍国主義国家化による出版統制により沈滞を余儀なくされます。しかしそんな時期にも戦時色とは程遠い書物がベストセラーとなっていたことも、本書はしっかりとすくい取っています。
たとえば、島崎藤村の名作『夜明け前』の第一部が刊行されたのは、五・一五事件のおこった昭和7年のこと。3年後、完結篇となる第二部が刊行され、多くの読者から支持されました。また、パール・バック『大地』や、マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』が翻訳刊行されてベストセラーとなったのは、日中戦争勃発後のことでした。そして、太平洋戦争が開戦し、出版統制がさらに厳しさを増していた時期にも、4人の男女の恋愛模様を軸に物語が展開され、戦争の影がさほど伝わってこないような小説『新雪』(藤澤桓夫・著)が新聞に連載され、単行本化してベストセラーになっていたのです。
澤村さんは次のように述べます。

「読者大衆は、厳しいチェックを経て出版された本に対しても、基本的には、必要と考え、面白いと思えるものでなければ、金銭を出して購入とはならなかったはずである。戦時の出版統制の問題を、そういった一般読者の存在という観点を除いて、統制当局と、それに抵抗あるいは順応(消極・積極などさまざまだろうが)する版元、著者の物語のみに焦点を当てると、少なくとも出版史理解の点では、大事なところが抜け落ちるおそれがあり得る。」

昭和の戦前・戦中期については「政府による弾圧、それによる良心的退場、そして読者の時代への迎合」といった単純な理解になりがちなところがあります(実のところ、わたし自身もそのような理解に傾いておりました)。たしかに、出版に対して一定の制限が加えられていたことも事実なのですが、昭和の出版事情も読者の志向も、そのような単眼的な見方では片づけられないものがあることを、本書は複眼的な視点で教えてくれます。
読者大衆といえば、本書には反権威的な書物と権威ある書物、真面目な書物と扇情的な書物が、「振り子の行き来」のように受け入れられ、ヒットするという現象も繰り返し取り上げられています。「読者」「大衆」とよばれる存在も、好みや志向のありようは多彩なのであって、十把一からげに扱うべきではない、ということも、ベストセラー史に限らず必要な視点ではないかと思った次第です。

【現代篇】と同様に【近代篇】もまた、このほかにもベストセラーの裏表をめぐる話題がてんこ盛りとなっています。小説『地上』のベストセラーで彗星のように現れるも、そのことによる精神の変調から奇行を繰り返した上、31歳という若さでこの世を去った島田清次郎のエピソード。吉川英治と大佛次郎が牽引した、大正末から昭和にかけての大衆文学興隆の歴史。「百科事典の平凡社」の元をつくった『大百科事典』の刊行は、雑誌の刊行に失敗して倒産間際だった平凡社の起死回生の策であったこと・・・などなどの興味深いエピソードが、客観的ながらテンポのいい記述により語られていきます。

時代とともに、出版の制度も大きく変わっていった近代の日本。その中にあっても、ベストセラーのありようや、それにまつわる人間模様には、今の時代にも共通する変わらないものが数多くあったということが、【現代篇】と【近代篇】を続けて読むことでよくわかりました。
時代や制度が変わっても変わらないもの・・・それを読み解いていくことこそ、ベストセラー史を辿る意義であり面白さ、なのかもしれません。


*『ベストセラー全史【現代篇】』のレビューはこちらです。→ 『ベストセラー全史【現代篇】』 戦後のベストセラーをめぐる、光と陰の知られざるドラマを活写した出版文化叙事詩

『ベストセラー全史【現代篇】』 戦後のベストセラーをめぐる、光と陰の知られざるドラマを活写した出版文化叙事詩

2019-08-14 14:29:25 | 「本」についての本

『ベストセラー全史【現代篇】』
澤村修治著、筑摩書房(筑摩選書)、2019年


時代の中から生み出され、時代をつくる原動力ともなったベストセラー書籍。文芸書から人文書、実用書、写真集やタレント本など、さまざまなジャンルにまたがるベストセラー書を網羅的に取り上げながら、出版文化と社会のありようを通史のかたちで読み解いていくのが『ベストセラー全史』です。
明治から昭和戦中期までを対象とした【近代篇】と、昭和戦後期から平成の終わりまでを扱う【現代篇】との2冊からなりますが、【現代篇】のほうが一足先に出されたので、そちらのほうから閲読いたしました(【近代篇】も追ってご紹介するつもりです)。500ページ近い大部の本ですが、客観的でテンポの良い記述の中に、それぞれのベストセラー書が生み出されてヒットに至るまでの過程を物語る豊富なエピソードが盛り込まれており、興味深さで一気に読むことができ、また大いに勉強にもなりました。

敗戦後まもない頃に出版され、戦後初のベストセラーとなった『日米会話手帳』。その仕掛け人である誠文堂新光社の小川菊松は、相当数の進駐軍がやって来ることを見越した上で、それを迎える日本人に必要とされる英会話テキストのニーズをいち早く掴むと、猛スピードでその製作を進めます。
一夜で日本語の例文を作り、それを東大の大学院生に3日で英訳させ、出来上がった原稿を印刷所に持ち込んでこれまた3日ほどで組み上げて印刷にかかる・・・という〈拙速主義〉(小川自身のことば)には驚かされますが、そうして世に出た『日米会話手帳』が、刊行からわずか3ヶ月半で360万部も売れたという事実にも、驚きを禁じ得ません。

『ベストセラー全史』には小川を筆頭に、ベストセラーの仕掛け人となった、才覚とたくましさに溢れる出版人たちが多数登場します。1954年に光文社の新書判シリーズ「カッパ・ブックス」を立ち上げ、続々とヒットを放った神吉(かんき)晴夫もその一人です。
出版物を作る上で神吉がとった方法論が「創作出版」。「自分で企画を立てて、適切な著者を発見し、原稿の完成まで、著者と苦労をともにする。そして宣伝によって、できた本の読者人口を開発してゆく」という「創作出版」は、著者まかせの受け身の姿勢を排し、ヒット作を意識的に生み出していく方法論でした。
そこで重視されたことの一つが、タイトルへのこだわりです。一例を挙げれば、1963年にベストセラーとなった占部都美(うらべくによし)著の『危ない会社』。著者は当初『経営革命』というタイトルを主張したものの、編集サイドは「タイトルは内容の説明ではな」くて、読者に買いたい気持を生じさせるためにある、と『危ない会社』で押し切ったのだとか。結果、発売直後から人気を得て四十数万もの部数を獲得することになったのです。
そんな神吉の方法論は、やがて光文社からさまざまな版元へと広がっていくことになります。『プロ野球を10倍楽しく見る方法』(江本孟紀著、1982年)を生み出したKKベストセラーズ。『頭のいい銀行利用法』(野末陳平著、1977年)や『天中殺入門』を世に送った青春出版社。『ノストラダムスの大予言』(五島勉著、1974年)が大ヒットした祥伝社・・・。一方の光文社も、これまたユニークなタイトルの『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』(山田真哉著、2005年)が近年のミリオンセラーになっていて、神吉の手法やスピリットがその後の光文社にも引き継がれていることを『ベストセラー全史』は示唆します。神吉の方法論は、戦後におけるベストセラーのあり方、そして出版界を大きく変えたということがよくわかりました。

戦後のベストセラーにおける大きな潮流となったのが、テレビで広く認知されている人びとの著作や、テレビで人気を集めた企画の書籍化が大ヒットする「テレセラー」現象。その代表が、1980年に刊行され、初版20万部が刊行日の午前中に書店店頭から「消えた」という伝説を残す歴史的ベストセラーとなった、山口百恵の自叙伝『蒼い時』(集英社)です。そのベストセラー化の理由について『ベストセラー全史』は、超アイドルの本、引退直前という絶妙なタイミングにとどまらず、父親との確執などを赤裸々に綴った本の内容そのものの魅力があったことを指摘します。
売れっ子アイドルとなった山口百恵には、本を書かないかとの依頼は多数あったものの、「名前だけ貸してくれればいい。こちらのゴーストライターがまとめるから」というものばかりで、全部断っていたといいます。しかし、出版プロデューサーの残間里江子は、あくまで百恵自身で書くよう勧めたことで心が動き、百恵自ら筆を執ったのだとか。だからこそ「なぜこの本を書かねばならなかったか」がはっきり伝わってくるような迫真のものとなり、多くの読者を引き寄せたのだ、と。
『蒼い時』の存在自体はよく知っていたものの、実際に読んだことがなかったわたしは、恥ずかしながら百恵さん本人ではなく、プロデュースした残間さんがまとめたものとばかり思い込んでおりました。『ベストセラー全史』で出版の経緯を初めて知り、なんだか無性に『蒼い時』が読みたくなってまいりました。
ちなみに『蒼い時』は、初刊から40年近く経った現在でも、集英社文庫で版を重ねております。一過性のベストセラーにとどまらず、いまも息長く読み継がれているロングセラーでもあるわけで、すごい本なんだなあと改めて思うばかりです。

『ベストセラー全史』には他にも、思わず「そうだったのか〜」という声が漏れるようなエピソードが、挙げていけばキリがないくらいに散りばめられています。
代表作『天と地と』が大河ドラマ化されてベストセラーになるも、「文学が、テレビの力を借りなければ読まれないなんて、いやなことだ」と、著者の海音寺潮五郎が引退を宣言した話。短歌集としては異例の歴史的ヒットとなった俵万智『サラダ記念日』は、当初角川書店で企画が持ち上がったものの、俳人でもあった角川春樹が「売れるはずもない」とにべもない対応をとって流れた話。長い不遇時代を経て、メガヒット作『世界の中心で、愛をさけぶ』を生み出した著者・片山恭一と、文芸部門を立ち上げたばかりの版元・小学館の地道な取り組みがもたらした成功物語。中高生がメインだと思っていた「ケータイ小説」の女性読者の3割近くが30歳から55歳までで、読者全体の4分の1は男性だったというデータ・・・。
誰もがよく知るベストセラーの陰に隠れた、知られざる事実とドラマの数々。そのひとつひとつが、興味をかき立ててやみませんでした。

通史として客観的な記述に徹している『ベストセラー全史』ですが、中央公論社(中央公論新社)の編集者として長く業界に関わってきた著者、澤村さんならではの視点がところどころに光っていて、それもまた面白いところでした。
石油ショックなどによる社会不安を背景に、『日本沈没』(小松左京著、光文社、1973年)や『ノストラダムスの大予言』がベストセラーになったことについて澤村さんは、崩壊や危機、破滅といったネガティブなイメージに惹かれる一方で、将来は明るいといったニュアンスの本には興味を向けないという「日本人読者の不思議さ」を指摘していて、思わず頷かされてしまいました。ネガティブな話題がしきりに持て囃されるような傾向は、いまも至るところで感じさせられたりいたしますので。
また、ビジネス系の翻訳書ヒット作『金持ち父さん 貧乏父さん』(ロバート・キヨサキほか、2001年)を刊行したことで、自社出版物に独自のこだわりを持ち、それがブランドイメージとなっていた版元の筑摩書房が毀誉褒貶に晒された、ということについては、「商業出版としての宿命と、ブランド力維持という宿命の二律背反だが、ただ、二律背反を背負えるというのは、出版人として不幸なことではないはずである」とコメントしていて、これにも頷かされるものがありました。慈善事業ではない商業出版である以上、ただただ綺麗ごとだけ言っていては成り立たないということは、いまとなってはよく理解できますから(などと言いつつ、刊行当時は「ええ〜っ、筑摩ともあろう版元がこんなのを出すなんて」と思ったことも、また事実だったりするのですが・・・)。

21世紀となって以降、出版界は毎年のように売り上げが減少し続け、かつてのようにミリオンセラーを出すことも難しい構造的苦境に陥ることになりますが、その中で顕著となっているのが、メディアが取り上げテレビなどで話題になった「ごく一部だけが突出して売れ、他は不振」という、書籍界の二極化現象です。メディアで持て囃されているベストセラー書の華やかさが多くの人の目につく一方で、膨大な数の書物がその存在すら知られることなく、いつしか消えていく・・・そんな状況があることも、また厳然たる事実です。
澤村さんはこう述べます。

「ベストセラー史は千客万来の物語であり、それを捉える道筋は繁華な街路を行くがごとしである。賑やかさの歴史が印象づけられる。ただこれでは片翼飛行的になる。人びとの暮らしも祭事ばかりではないように、出版のいとなみも、「祭り」から一夜明けると「淡々とした日常」が続き、また、祭りのフィナーレに類比されうる成功譚(ベストセラー)の足下には、暗鬱な敗残例がいくつも横たわる。さらにいえば、肝心の成功譚にしても、時間差で見れば盛者必衰の無常が流れているのである。実はそれこそ真の「ベストセラー史」というべきなのだ。」

おそらくこれからも、出版界における二極化現象は続いていくことでしょう。その中にあって、ベストセラーの華やかさだけに目を奪われずに、その陰に隠れた「淡々とした日常」や「盛者必衰の無常」にも、しっかりと目を向けていかなければ・・・。書店に勤める人間の端くれとして、そして本の世界を愛する人間の一人として、そのことを強く思わずにはいられません。

戦後のベストセラーをめぐる知られざるドラマとダイナミズム、そしてその光と陰を余さず活写した出版文化の叙事詩『ベストセラー全史【現代篇】』。読み応え満点の一冊でした。