血が流されることなしには罪の赦しはあり得ないと聖書は述べます。
御子のイエスの十字架上で流された血は、アダムの子孫としての罪ある人間の血でなく、清い神の血でありました。それはすべての罪を清める力があります。
罪はサタンとの契約を結ぶことですから、その呪縛と告訴から逃れる唯一の方法は、主の血潮に依存する以外にありません。
新生して聖霊の内住に預かった後も、心において自我を主張し、自分を主にしようとする習性は残ります。心に悪霊の介入を招こうとします。
ですから神の子とされた後も、主の血潮の清めによる聖化が必要であります。破産宣告を受けると訴訟から解放されるように、十字架の贖いがサタンとの契約を断ち切るのです。
そして聖霊は霊から心に満ちて、天の喜びと愛を帯びて生活の中に溢れてゆきます。
神は人になられ、私たちに代わって断罪され、私たちを義とされて新生(神生)の恵みを与えられました。人としての神は、聖霊による聖化の道を開かれて天に昇られました。御子イエスの下降と上昇によって、私たちも永遠のいのちに預かっております。
聖霊なる神が私たちのうちに住まわれて、私たちに代わって、私たちと共に活き、祈り、語り、活動されておられるからです。