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鎮守の杜から

葛木御歳神社神職が、神道についてや、日々感じたことなどを思いつくままに綴った私的なページです。

あけましておめでとうございます

2008年01月06日 | 思うこと
みなさま、明けましておめでとうございます。

穏やかに明けたこの年。
良い年になればいいですね。

色々思い巡りながら、神職になった頃のことを思います。
もうはるか昔のようです。

恐る恐る神さまの御前に上がっていたあの頃。

今も恐れ畏みではありますが、
もう、お任せしています。

きっと見ていて下さるだろうと思います。

間違うこともいっぱいで、感情のままに動くこともよくあること。
いつも波一つない湖面のようでいられるはずもなく、
揺れて揺れ動いて、激しく身をよじらせながら
それでも、前へ進まないわけにはいかないから、
何とか鼓舞してでも進んでいくしかないなあと
諦めにも似た心境であります。

七転八倒しながら歩く私を、神様はそれでも慈しんでくださるのでしょう。

時には優しい風でそっと撫でてくださるように感じます。

私でなければ、もっと上手く、苦しまずにできたことも
きっと多いことでしょう。
でも、残念ながら、ここにいるのは私なので、仕方がありません。

「ごめんなさい」も何度言ったか数知れず。
でも、「ありがとうございます」も同じぐらい言いました。

『まっいいっか^^』

合言葉のように、「許し」の言葉も頂いたように思います。

毎日神饌を運んで拝礼して、神様と一対一の時間を持ちます。
大切な時間です。
御守護を頂いていることを感じます。

「ああ、見ていてくださるから、何とかなりますよね^^」
なんて言いながら、寛大な神様に感謝^^

嬉しい時は感謝して、憂える時もその気持ちのまま拝殿に上がって。。。

「神ながらの道」ってこういうことなのね^^と思う今日この頃。

もっと、もっと、自然体でいられたらいいのになあ。
そうしたら、もう少し、苦しまずにいられるだろうなあ。
でも、もう少し、修業が要りますかね^^

迷いながら進むのが人である証し。

今年もよろしくお願いしますね。

年の瀬

2007年12月31日 | 思うこと
年の瀬ですね。
長らく書いていませんでした。

忙しいのもありますが、どうも今年の後半は立ち位置が定まりません。
そういう時期なのでしょうね。

色々神社の内部でもややこしくて今年は嵐が過ぎ去るのを待っているような状態でした。静かに嵐をやり過ごそうとすると、いつも積極的に動く事を得意とする私にはかなり難題でした。

元来血の気が多い私。動けないもどかしさを感じながら、でも、静かに時を待つ身を理解されないつらさもありました。

何も苦しむ必要などないのです。実際はね。
苦しみを生んでいるのは、実は私自身なのです。
それを何度も思い知らされて、その愚かしさをいやというほど感じて、
でも、それは私の内部にあるものなので、自身でしかどうにもできないものなのです。

他人にはどうということもない問題も含まれます。
でも、そこをきちんとケリをつけないと動けないということもあるのです。

それを誰かに理解して欲しかった。
たぶんね。。。

で、何度も何度もぶつかってしまいました。

さて、年の瀬です。
そろそろ、前へ踏み出さなくては。。。

みーんな一人で歩いているのです。結局は。
でも、私がこうして吐露したら誰かが、言葉をくれます。
しんどい時にしんどいと言えたら、救われます。
まだ、そうやって気遣ってくれる人がいるから、
私は生きて行けますね。

とても強い面も持ちますが、とんでもなく弱い面も持ちます。
揺れながら、歩いて行くのは幾つになっても続くようです。

来年は、どんな年になるかな?
もうちょっと安定したいなあ。

でも、それは何かを封印することになります。
それを納得できたらいいのになあ。

もう少し時間がかかりそうです。

いつもいつも感謝しています。
たくさんの優しい尊敬すべき友人がいることを。
神さまのお導きを感じることができることを。

その、嬉しい気持ちを持っていたら、
もう少しちゃんと歩いていけるはずですよね。

あせらずに歩けたらいいなあ。
できることを積み重ねて、出来ないことに苦しまずにね。

人は自分の思い描いた通りに歩いて行くものだと
誰かが言っていました。

良い未来を描いて歩いて行けたらいいなあ。

それだけを考えて行ければ、いつまでも歩いていけるはずですよね。

複雑な問題は解きほぐして。。。
シンプルに歩けたら、何よりですね^^

いつもいつもご覧いただきありがとうございます。
来年もよろしくお願いします。


〔心の琴線に…〕No.209

2007年11月05日 | 思うこと
なんだか色々あったなあ。
忙しくて振り返る間もなく来て、
少し時間に余裕ができたら、ふっと思った。

生きていくのって、結局一人なのよね。
でね、その一人を意識するのだけれど、
ふと見るとやっぱり同じように歩いている人がいるのね。
同じ道じゃないのだけど、同じように歩いている人を意識するのね。
時々、話を交わすの。
一人で歩いていると、その一瞬がとても嬉しいのね。
ピーンと心の琴線に触れる感じ。。。
いつまでも余韻が鳴っている。。。

そういう静かな余韻の音って、静寂の中にいないと気づかないものなのね。

静寂の中って、物悲しいようでも実は多くの気づきがあるのね。
たった一言で、とても元気になることがある。
魂が交流する瞬間。。。

交わるのは一瞬でまた私は私の道を行くの。
でも、心に余韻が鳴っていて、それって、ああ、ありがたいなあって思うのね。

そんな小さな音を聞き分けられるようになった数年間でした。

いつも、誰かがいてくれるのかもね。
ずっと一緒に歩いて行けないけど、
それでもいいよ。
今、この瞬間、ああ、ありがとう!って心から言えたからそれが嬉しいのね。

涙の中で嬉しいと思うこともあります。
それでも、嬉しいのね。

ふふふっ。
気がつかないと不幸だよね。
気がついたら、それだけで、幸せなのね。
そういうもんなのね。幸せって。。。

奇跡の中で

2007年10月28日 | 思うこと
『生きているって、それだけで奇跡でしょ?
これを感謝して祈らないのは傲慢ですよね?』

友人がくれたメールの一節。
ああ、こんな真摯な友人を持っていることにも感謝します。

私たちは生かされているのだと言います。
生かされているのか、生きているのかはわかりませんが、
今、こうして元気にここにいるということは、奇跡ですよね。

今、病気になっても、明日死んだとしても
誰にも文句は言えません。
当たり前のように享受しているここの空気もありがたきものなのです。

よく言われているそんな言葉を、改めて奇跡に思えました。

悲しいことがあったり、うまくいかないことがあったり、
怒りに震えることがあったりしますが、
そんな感情を持てるのも、存在を許されているからこそ。。。

その奇跡に感謝しましょう。

明日はどんな日になるのかな。
嬉しいことがあったらいいな。
でも、なくてもいいな。
とりあえず、明日が存在しているなら、
歩かなくっちゃね!

〔恵雨祈願〕No.201

2007年07月13日 | 思うこと
今年の梅雨はカラ梅雨で、渇水になるという気象庁からの発表が
ずっと前にありましたので、梅雨に入る前から、
朝夕拝で、恵雨祈願を続けています。

御歳神様は、稲を始めとする五穀の実りを司る神様です。
稲の生育には、雨が一番切実な問題なので、
雨を司る神としても古来より尊ばれています。

奈良、平安期には、洪水の時や、大和川氾濫の折にも、
朝廷より勅使がきて特別な祈願がなされたとの文書もあります。

ですので、普段から、秋の実りの祈願は欠かしませんが、
今回は、恵雨の祈願も続けているわけです。


でねっ、気象庁の予報を裏切って結構雨が降りました。
ああ、良かったなあと思いながら、拝殿で座って、

私の祈願が届きましたか?
ああ、そんな、私如きの祈願じゃないですよねえ~…
なんて考えていたら、まっすぐ空気が来て、頬をなでていきました。

「誰に祈願しているのだ!畏れ多いみとしの神に祈願しているのだろう!
当然、しかり。雨の恵みをありがたく受けよ!!」
って言われた気がして、
「ああ、ありがとうございますぅ~。」と平伏しました…。

ちゃんと祈願してるのだから、ありがたく受けないといけません…。
なんだか、嬉しくなりました。

どこか、不思議事な話ですが、
お仕えしているお方を尊ぶということは、そういうことなのです。
当たり前ですが、それに気がついて、少し、幸せな気分でした。

台風が近付いているので、今日は、合わせて台風の害が最小限で収まるようにともお願いしました。いつも色々都合よく祈願しますが、台風が甚大な被害を及ぼさないように願っています。



*不適切なコメントが続きましたので、現在、コメントは承認制にしています。遠慮なく書き込んでください。後ほどUPされます。

〔神社はいいところです〕No.200

2007年07月08日 | 思うこと
神社はいいところです。

朝、神饌を持って拝殿へあがりました。
胸の動悸が激しい状態なので、拝殿に座って心が静まるのをずっと待っていました。
そのうち夢を見るような感覚で思いをめぐらせていたら、
突然右側から風が起こりました。
ああ、珍しい。今日は横から来たなあ。
ああ、そうか、龍神さまでしたか。。。
しばらくお出かけだった龍神さまが、数日前にお戻りになったような感じがしていたのですが。

めぐらせていた思考が一瞬途切れて、再修正。
朝拝の前に、もう少し考えさせてくださいませ。

今、巡る思考の中心は「ブッダのことば」中村元著 岩波文庫。
般若心経で完成される思想の元になった哲学者ブッダの考え方が読めます。

今の私にとって、麻薬のような危険な本です。
でも、素晴らしい治療薬でもあります。

読むべき本であったのだと思います。
まあ、読んでしまったものは、取り返せないからね。

すべてが有って無きものだとする般若心経ですが、
ブッダは繰り返し、あらゆる執着を捨てることを説きます。
その徹底振りは驚くほどで、初期の仏教はこういうものだったのかと
興味深いです。
それはないでしょう?とあまりの極論に驚きますし、
私のありたい形からは大きく異なっています。

ただ、読み進んでいくと、
「ああ、そうなんだ」と自明の事に気がつかなかった自分が不思議なくらい
納得する部分もあります。

拝殿で座って色々思い巡らせて、改めて「ああ、そうなんだ」と納得します。

さて、と改まって朝の参拝をすると、
すーっと細い空気が本殿から流れてきます。
「風が吹く」ではなく、まっすぐ到達してくるような感じ。

目をあけると、きらきら光っています。
ああ、そうなんだ。

光と風はずっとここにあります。
いつもと変わらず、ここには空気が満ちているのです。

柳澤桂子さんの言葉を思い出します。
憂いは私の中にしかないのです。
世界はいつも変わらず光と風に満ちているのです。

ブッダの言葉を思います。
私の願いと違うことが苦しみになるに過ぎない。
望むような結果が得られないから悲しみにとらわれる。
そこに存在する憂いは、私が作り出す妄想にしか過ぎないのです。

人と衝突するのは思いが異なるから。
でも、私は人の思いを操作する者ではないのです。

あなたの思いがあり、私の思いがある。
それだけのことで、苦しむ必要など無いのです。

悪意に満ちた行いをしようと関わってくる者もあります。
それが悲しいのは、なぜそんな悪意を向けるのか、
私には理解できないからです。
人は、もっと清く生きるものだと思いたいからです。

でも、私はその者ではないのです。
私は悲しいけれど、でも、それは私の中にある思いです。
その悲しさや乱される心は、受身の私の中にしか存在しません。

それは存在すらしていないはずなのです。
幻のような思考の産物だからです。


朝拝を終えると、
心の動悸は静まっていました。
ただ、そこに光と風がありました。

その程度のものなのですよ。
心の作り出す幻影におびえて震える必要など無いのです。
目をあければ、光と風を感じるのだから。。。

〔光を感じて。〕No.189

2007年05月29日 | 思うこと
こういうことを書くとどう受け取られるかわからないけれど、
私は、いつも、ここの神様の意を反映して事に当るのだと思うのです。
このところ、朝夕拝の度に、優しい風を感じるようになりました。
なんと有り難いことかと、それだけで喜びを感じます。

私のする事、考えている事、皆、お見通しです^^
だから、私は誠の心に照らして進んでみるだけで良いのだと思うのです。

うまく行くとは限りません。
私が出来ることなど、知れているからです。
出来ないことに嘆いても、状況が変わるわけではないから、
できることを恐れずにやってみたいと思います。

いつも正解を行えるわけではなく、
いつも負の感情を抑えられるわけではありません。
嘆きと共にすべてを破壊したくなる衝動も持っています。
気力を失う時もあります。

それも見つめて、それでもよりよくありたいと願うこと。
人としてできるのはそれだけだから。。。

私の中にある光と闇を見据えて、
他人の中にある光と闇を理解して、
必要以上に闇に恐れることもなく、覆われることもなく、
光を感じて引き出して行ければ、
この世の中には、光があふれるはず。

闇の中で萎えてしまわないだけの強さを。
闇に遭っても私の中にある光を見失わないだけの強さを。

本当の強さを手に入れることが出来るまで、
どうか、優しい風で導いてくださいませ。

〔信仰といふこと〕No.185

2007年05月12日 | 思うこと
信仰という言葉はなかなか使いづらい言葉です。
でも、あるとき、この言葉でしか言い表せない気持ちが内面に沸き起こったことを知るのです。

神職は皆、信仰を持っているのかと問われて、
間違いなく持っていますと答えられるかといえば、ためらいを感じます。
世襲が多く、家業として避けられないから継ぐという構図も多く、
他の宗教のように、強い信仰からこの世界に身を置く人も少ないからです。

私もある時「そうだ、神社を継ごう」と振って沸いたように思い立ちました。
一人息子の夫が絶対に継がないと宣言していて、
誰か神職さんに兼務して頂くことになっていたのを突然こうなったわけです。

その時には信仰という言葉は思いつきませんでした。
僅かに宿命かもしれないと思いましたが、
血を持たぬ私で良いのかと不安や恐れの方が強かったです。

「信仰」という言葉は、突然強いインパクトで心に沸き起こりました。

「ああ、いらっしゃるのだ」と疑いなく思えるようになったのです。

見ていてくださる。
見守っていてくださる。
導いてくださる。

祈りによって答えてくださる存在が確かに在ると確信したということでしょうか。

いつも見ていてくださる神さまがそこにいらっしゃるのなら、
私は正解と考えた事を日々成して行けばいいのだと思う。

私は迷いの中にある「人」なのだから、
いつも正解を為せるわけではないのです。

でも、そのすべてを見ていてくださる存在があるのなら、
私は恐れずに歩いていけばいいと思うのです。

どうかどうか、照らしてください。
いつも御心のおそばにいられますように。

〔信仰かも。〕

2007年04月15日 | 思うこと
いつからだろうか。
どうしてこうも…と思うほどの苦難の連続である。
「苦難」などという言葉は使いたくなかった。
人は皆、なにかしら苦難を抱えて生きていくものだから。
しかし、あまりに厳しすぎる状況に、もう降参したくなった時、
その苦難を認識する事で、もう少しだけ、歩いていけるような気がする。

そうなのだ。苦難の道を歩いているのだ。
何も恥じることは無い。
私は十分戦って来たではないか。
何度も何度も襲い掛かる困難をあらん限りの力を振り絞って、
撥ね退けて来たのだ。
知恵を使い、体を動かして、もうこれ以上無理だというほど、
働いてきたのだ。

何故?などと問いかけても答えなど返ってこない。
目の前の苦難を時には震えながら耐え忍び、
時には大声をあげて泣いた。

一生懸命生きていけば、いつか明るい未来が必ず来ると信じていた事もあった。
困難を試練と思って乗り越えれば、いつか、幸せはやってくると。

でも、そうとは限らないのである。
何度乗り越えても、状況は悪くなる一方で、
さすがに輝く未来など用意されていないのだと諦念が心を占める。

しかし、私は生きているのだ。
歩いているのだ。

私は約束された未来があるから、歩いているわけではない。
苦難を超えれば優しい幸せが待っているなどと
不確かな幻想に向かってよろよろ歩くのはやめよう。

今、確かに歩いていることこそ、意味のあることなのだ。

出来ることしか、出来ないのだ。
出来ないことに嘆いても未来は開かない。
しかし、嘆き悲しむ自分を許してあげよう。
思い切り涙したら、また歩き出すのだから。

私は、ふりかかる災禍の中、この道を行くべきだと歩き始めた。
それは、幻想だったかもしれない。
災禍の意味をどこかに求めただけなのかもしれない。

それでも今、この道を歩いている。
この道は、優しい未来へ繋がる道ではなかったように思う。
もっと楽な道があったはずなのに、それを選択できなかった。
嘆きながら、でも、すでに選択の余地は残されていないのかもしれない。

これが私の道なのだ。

2日前、おみくじを引いた。
「嬉しい時にも悲しい時にもお話してお祭りしなさい」と書かれてあった。

昨日その言葉を受けて、夜、思いを吐露してしばらく座っていた。
やさしい風が頬をなでていく。
もう一度、おみくじを引いた。
「神の試練の苦悩の石に、おのがこころの玉みがく…そこに新しい道が開けます」

ああ、試練の道でもいいと思った。
私は己の信条を捨てずに生きて行きたい。
それが叶うなら、どんな道でも、歩いて行きます。

「神様、ありがとう」
「誰が見ていなくても、お天道さまは見ているよ」って誰かに聞いたなあ。

どうにも辛くなったら、御歳神さまに教えてくださいとお願いして
おみくじを引きます。
いつも適切な言葉が書かれています。

「見ていて下さるのですね。」
「正しい道を歩いていけますように」

少しだけ、心が軽くなった。