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2020.01.17 阪神大震災から25年

1月17日は、阪神大震災の日から、25年目の記念日であった。

神戸は、大きな大きな犠牲があった。

25年経った今、お陰さまで、素晴しいお正月を迎えることが出来る

ことに、深く深く感謝したい。

 

語り継ぐことを大切にしたい。

 


<私はその地震の日、日本にはおらず、香港に居た。>

私は、旅行をしない人だったが、その日は、珍しく香港に旅行していた。

上海生まれの私は、一度香港に行ってみたかった。

香港には、昔の上海に似た何かが残っていないだろうか?

中国に返還される日が近付いていたのでその前の香港に行きたかった。

 

その為に、当時海外旅行三昧だった友人に、次に香港に行く時は

私を連れて行ってと頼んだ。

 

その人は、もう10回も香港にいったので、もう行かないと言ったが、

「それでも、もし行くときはお願いね。」とひつこいことは承知で頼んでいた。

万一再び香港に行きとき、必ず思い出して貰える様に。

案の定,10年目に彼女から電話があり、「あんたまだ香港に行きたいの?』と。

やっぱり覚えてくれていた。

私は行きたいと答えて、すぐサムソナイトを買って来て、そう連絡すると、まだ

本決まりではなかった香港旅行が、私のこの熱心さで本決まりとなった。

シメシメ、私の作戦勝ちだった。この旅行にだけは、私は熱心であった。

私は、もしかしたら、神戸で地震が起こることを知っていたのであろうか?

わたしが香港に出掛けた翌々日、神戸で大地震があり、香港の新聞では,大阪に

大地震があり、200人ぐらい被災したと載っていた。神戸は近いので

被害があったかも知れないと思った。結局、それどころの話では無かったが、

大使館に聞いても、よく分からなかった。

地震の翌々日、帰国した私を見て兄は、驚喜した。

「旅行嫌いのみずえちゃんが、地震の直前に荷物を持ってチャッチャッと海外に

出かけて、揺れ終わってから荷物を持って、チャッチャッと帰って来た。」へ〜?

「不思議なことがあるもんや。不思議なことがあるもんや。」と何度も何度も

兄は言い続けていた。

 

   

<不思議な不思議なお話>

不思議で不思議で溜まらない様なことが重なった結果、私は地震で命を

落とすこと無く、生かせて頂くことになった。

神戸の家は全壊。瓦が全て落下した。家に居たら、生きていなかった

だろう。余りにも不思議なことの連続だった。

私は、これをブログに書き出して8話迄来た時、小学校のクラスメートの

男性が小冊子に纏めてくれた。上の写真は、それである。

そして、「全部書いたら、纏めて1冊にして上げるから。」と言ってくれた。

私は、不思議すぎる出来事の数々を、懸命になって文章に纏めて行った。

ふと見ると26話当り迄来ていた。その時思った。でもまだ終わらない、

後10話ぐらい続くだろうと。

あと10話で纏め終えたとしても、まだ下書きなので、添削をしながら

書き上げるのは、途方も無い時間と、エネルギーが要る。

纏められるのか?完成出来るのか?辛すぎて死んじゃうよ〜と思った。

著作家達は、すごい才能だ。天才なのだ。私はそこまで行けない。

それがつくづく分かった。

下書きの26編は、保存しているが、私の保存データ類が、余りにも膨大で、

しかもパソコンを何台も乗り換えているので、今はすぐには見当たらない。

見付けることは出来ると思うが、見付けてももう触ることはしないのではないかと思う。

小冊子前半を作ってくれたクラスメートの男性に、どうして続きを書かないのかと聞かれた。

申し訳ないが、私の力では重すぎる。本当に失礼してしまった。

 

<多くの支援者の献身で、神戸の家に1年半後に戻ることが出来たこと。>

神戸の私の家は、全壊だった。

全壊とは言え我が家は梁が歪んでいない珍しい家だった。ドアが明き、窓がするすると

開く家は、この辺では我が家だけだと、親しい大工さんが驚いていた。

もし、壊して撤去して貰うのであれば公費で負担してくれて、1日で完了するが、私は

全壊の家を取り壊さず、瓦礫を撤去して修理した。それに1年半掛った。

修理して、父母と住んだ家に再び住めるものなら、絶対にそうしたかった。

苛酷な、時間が掛かる作業だったが、思いがけなく、支援者が大勢協力してくれた。

支援者の方々は、文句も言わず、むしろ私より熱心で、私が1年半の避難生活の後、

神戸に戻る迄、献身的に協力してくれた。

神戸に戻ったのは、震災の翌年の5月4日、震災から1年半後だった。

支援者の方々は、先に神戸の家の前で待っていてくれて、私は、その頃あった小さな

赤いトラックに避難中の荷物と共に乗って到着した。

暖かいパーティーだった。一生忘れない。お赤飯が3カ所から届いた。

その時、聞いた言葉に私はショックを受けた。

「大島さんを神戸に戻す迄頑張ろう!」と言うのが、合言葉だったのだよと。

「え〜?それを、早く言って欲しかった。」とつくづく思った。

皆さんとは、家族ではなく、私はいつ捨てられてもおかしくない関係だった。

なのに、私はわがままばかり言って、大変な仕事をさせて、本当にもう捨てられる

だろうと言う不安で心身をずたずたにしながら、生きていたから。

不整脈で眠れない日々、苦しさで突然起きて、たった今迄呼吸をしていなかったことに

気付く驚怖、避難所での孤独死が新聞を賑わしていて、次は自分だろうと思う日々。

朝、冷たくなった自分を捜しに来て貰う方の為に、ドアはいっそ鍵を懸けない方が親切

ではないかと思った程だった。

胃も腸も、全身ダメージを受けていて、胃カメラを飲むと胃に鮮血があると言われた。

胃が痛いので、養命酒が胃に優しいとのコマーシャルで見て、喜んで飲むと、荒れ果てた

胃のキズに沁みて沁みて脂汗がタラタラ出た時の激しい痛さと襲ってくる悲しさ。

平日は、大阪へ勤務していた。大阪の人に神戸の現状が分かる筈が無い。それどころか、

胃カメラを飲むと言うと、何であんたが胃カメラ何て飲む必要があるのと笑われるのが、

関の山。言ってわかることは絶対にない。苦労を見せずに元気に乗り切っているとしたら、

それは多くの支援者があるお陰であったと思う。不思議なご縁だった。家族以上だった。

その頃の日記が7〜8冊程あるが、もう絶対に読む勇気は無い。それほど辛い日々だった。

よくぞ避難生活を乗り越えて見事に復興を果たしたと、自分の驚異的な信念をただただ

褒めるしか無いと思う。

 

それらの、艱難辛苦の日々を振り返り、10年後にブログに書いた。

こちらを書いたのは恩返しの思いからだったが、一番の協力者の一人であったのばらさんが、

これをどんなに喜んでくれたことか?これがせめてもの救いだった。

彼女は、復興の1年半の間に50〜70回程来てくれた。男性で100回程の方もおられた。

この復興シリーズも7話まで書いて、実はまだ書きたいことがあったけれど、又しても

エネルギーはここでしぼんでしまった。疲れ果ててしまった。

 

本当に私は初志貫徹しない人だな〜と、この時も、自分につぐづく呆れた。

家族が居ない私が、自力で自宅を再建出来たなんて、本当に僥倖としか思えない。

そして、今はその復興した家を離れて、別の街へ移り住んでいる。

本当に多くの方々に支えられて、震災はすでに遠くなり、今の幸せに辿り着いた。

不思議な不思議なお話の締め括りが、こんなに有難い生活だったことに心から

感謝したい。

 

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