凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

猫に学ぶ

2012-04-23 09:58:50 | 日々の雑感
 飼っていた猫が亡くなったとき、一緒に泣いてくれた息子が、面白いことを言った。
「これから、○○ちゃん(猫の名前)を見習って、生きていくよ」と。
父親が亡くなった時にも、そんなことは言わなかったのに、なんで猫?

 確かに、目の中に入れても痛くない、というほどにかわいがった猫だったから、思いは様々あるが、「見習って生きる」とは? 猫じゃらしで遊ぶの? とはまぜっかえさなかったけれど、それに似たようなことを返したかもしれない。

 が、一方で、彼が言いたいことがわかるような気もしていた。人間世界の様々な苦悩に嘆息するとき、ふと猫を見て、その超然とした生き方に感心したこともあるからだ。

 そして、今も、亡くなった猫より二歳年下の猫がいるが、やはり同じようなことを感じることがある。
 もちろん、多分、脳が小さいから、ほとんど思考というものをしないせいだろうということはわかっている。深い記憶や未来への恐れなど、目の前に存在しないものに思いをめぐらしてあれこれ懊悩するのは、人の思考活動の特徴なのだろう。
 それでも、猫の淡白さに、こうべを垂れる思いの時がある。

 叱ったとしても、ちょっとした叱り方だと、さっとその場を離れるだけで、すぐに忘れてすり寄って来る。そもそも叱られた、とすら認識していないのだろう。なんかちょっとした災いが来たかのように、こちらの大き目の声から逃れるのだ。それだけだ。
 
 人の感情などに拘泥しない。する意味もない。静かで穏やかな暮らしがあれば、それで充足している。時々、母猫(つまり、私)を恋しくなるのか、すり寄ったり、いないと鳴きながらうろうろしているが、見つけるとやって来て、膝に乗る。私の感情にはおかまいなしだ。ただし、機嫌が悪くて邪険にすると、ぷいと立ち去る。が、それをなじるでもなく、恨むわけでもなく、「どうして邪険にしたのよ」と問いただすでもなく、何事もなかったかのようにまたやって来る。

 人の感情(つまり、自分の感情)に疲れた私には、そのこだわらなさが羨ましくなるのだ。このように生きたい、と思うことがある。

 他人の感情に疲れる、というより、そう、まさに自分の感情に疲れている。裏切り行為などない。あるのは、自分の期待感だけ。裏切られたとすれば、自分の期待に裏切られただけ。

 それだけのことだ。猫がすがすがしく見えるのは、こうしたややこしい感情に翻弄されることがないからだ。そこだけは、やはり、猫を見習って生きたいものだと思う。

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