凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

生きる目的

2011-01-02 23:33:18 | 人生
 癌という病気は、今でも死を連想させる病気だ。私がまだ若い頃は、癌にかかった人というのは、遠い親戚あたりにはいるけれども、自分の身内にはまだ癌の人はいない、という状況だった。が、今では、父が癌でなくなり、母が12年前に癌の手術をしている。そして、何よりも、夫が悪性リンパ腫で亡くなった。今もこの病名は、私を苦しめる。ここに書くことさえ、ためらわれるほどだ。何か、封印してきたものを解いてしまう感じがする。もう、なかったことには出来ないのに、、、、。

 そして、自分自身も、3年前に癌の手術をした。もう早期癌ではない、という段階だった。私の癌を見つけた医者は、「あなたの場合は重かったので、術後5年ではなく、6年は診ていきたい」と言った。その医師は、内視鏡検査に卓越した人で、たぶん、検査の段階で見つかる人は、早期癌の人が多いのだろう。
 それでも、とりあえずは、転移がないようだと見込みの立つ状態で退院できて、3年が過ぎた。

 が、やはり、癌のイメージは重い。多くの同じ経験をした人がいるだろうが、ちょっと体調が悪いと、再発なのか、と落ち込むことを繰り返す。私の知人で、早期癌の手術をした人も、からだに異変を感じると、再発への恐怖で立ちあがれないほどになる。しかし、これらは、当人以外にはわからないことだろう。私は冗談をまじえて、「ガン友」などと呼んでいるが、この病気になると、「全快」の実感を持つのはかなり難しいようだ。夫の従妹は、夫よりも先に癌になり、いとこたちに自分の病気を伝えてきたとき、ほんとうに身も世もないほど嘆き悲しんでいた。夫も、彼女に同情し、いとこを集めていとこ会を企画した。が、結局、そのいとこ会に夫は行くことがなかった。夫が先に逝き、重い癌を宣告された従妹は、医師に生きているのが不思議と言われながら、もう10年近く経つ。
 昨日、親戚の新年会で会ったら、明るくころころとよく笑い、人柄のやさしさが変わらない。それでも、いつも心のどこかに、病気への不安を抱え続けているのはよくわかる。医師からは、決して「治った」と言われず、癌とともに生き続けている。足がむくんできているのを隠して、仕事に行くのだそうだ。仕事が楽しく、生きがいだと言う。パートとして、図書館の司書の仕事を始めてから、張り合いが出たようだ。仕事が何よりも優先だと言う。

 仕事が自分を助ける、と思うことがある。私の罹患は、過酷な仕事によるものだったと思うが、その仕事のかたわら、それまでの非常勤の仕事を細々と続けていて、一時期は、ものすごくハードな二足のわらじ生活だった。結局、激務である組織の管理職を退職し、非常勤の仕事だけは辞めないでいた。
 そして、癌。さすがに仕事は休まざるを得なかった。が、一か月ほどで復帰した。退院後、早く仕事に戻りたくて、医師に尋ねると、せめてもう一週間は仕事を休んで家で養生してくださいと言われ、言われたぎりぎりだけを休んで復帰。
 さすがに重い荷物は持てず、息子が車で送ってくれた。
 何よりも途方に暮れたのは、たった数週間前まで通っていた教室の場所がわからなくなっていたことだった。前日には、授業の内容をちゃんと準備していた。学校に着くと、事務局の人がとてもいたわってくれた。が、いざ、授業に向かおうとして、教室がわからなくなっていた。その頃、通っていた二つの学校のどちらでも、私は、教室の場所がわからなくなって、校舎の前で途方に暮れた。息子が、びっくりしていた。

 思えば、私は一旦、すべて、自分の未来を手放していたのだった。リセットしていたのだ。講義中も、ふと、頭の中の情報が出てこなくなって困った。いつもいつも、繰り返しいていた情報なのに、急に、頭の中の整序機能が壊れたかのように、最新の情報ではなく、その前の情報が出てきてしまう、というありさまで、次の週に訂正を行わねばならない、というような状況だった。
 それでも、仕事が私を支えてくれたのだと思う。私はその学期の残りの授業を全うし、いつものように試験をし、単位をつけ、仕事を無事に終えた。
 養生に専念するのではなく、仕事をすることが私を回復させたのだと思う。もし、他に仕事を持っていなかったら、私は、回復しなかったのではないかと思う。なぜか、管理職の仕事に就いたにも関わらず、私は一校だけ、非常勤の仕事を残した。複数の学校に通うのは不可能だったので、他は辞めたけれど、。一つの仕事に自分を預けることが不安だったのか、あるいは、管理職の仕事の危うさに何か予感があったのかもしれない。そして、結果、それで命拾いをしたのだと思う。

 この三年の間に、何度も何度も、数えきれないほど落ち込んだ。からだのことだけではなく、管理職を辞めざるを得なかったもろもろの出来事に傷つき、ほとんどPTSDの症状を呈していた。それでも、細々と続けてきた仕事が私を救ってくれたのだと思う。

 人は、人生を続けるために生きるのではなく、生きるための手段として選んだことのために、生きるのかもしれない。手段の目的化だ、こればかりは。ただ「生きろ!」と言われても、どうしようもない。何のために生きるのか、という目的は要るのだろう。

 笑い話のように、当時の私を振り返って、友人や子どもたちと話すのは、私が、食事のことばかりを言っていたこと。元来、グルメでもなんでもないのに、しばらく固形物が食べられなくなって、すっかり参っていた。手術の前は、ほんとうに元気がなくなってしまっていた。見舞いに来てくれる友人たちとは陽気に話し、元気そうな私の写真が残っているが、内心ではほんとうに落ち込んでいた。「死ぬ」ことへの覚悟をつくろうとしていたが、当然のことながら朗らかな気分にはならない。が、そのときふと思いついて、付き添ってくれる友人に言った。
「ねぇ、手術が終わったら、また、ちゃんとご飯が食べられるよね。それは、楽しみにしていいよね」と。友人は、そんなことが希望になるのか、と思ったのだろうが、それでも「そうよ、美味しい物がまた食べられるのよ」と同調した。私は、「じゃあ、手術が終わったら、また美味しい物が食べられることに希望を持つことにするわ」と、心からそこに希望をつないだ。「おいしい物が食べられる」ということが、生きる希望になるなどとは、それまでの私の人生にはあり得ないことだった。食べることはもちろん楽しみの一つではあるが、人生の喜びに置かれることとは思っていなかった。「私って、食いしん坊だったんだ!」と、まわりの人たちと笑い合った。手術が成功するか否か、手術が終わってから自分の命が続くのかどうなのか、そんなことはわからない。それを考えると、不安に押しつぶされそうだったが、その前に、手術が終わればちゃんとご飯が食べられる、ということが楽しみになった。そして、やっと、気持ちの落ち着きどころを見出した。

 退院しても、もちろん、食養生は続いた。鳥の餌ほどしか食べられなかったが、ずいぶん、旅行をした。今思えば、よくもあのような病後のからだで旅行にばかり行っていたな、と思うが、友人が本当に献身的に付き添ってくれたので、行くことができた。後から聞くと、病中病後の私は、とてもしおらしくて、労わってあげたくなったそうだ。元気になると、もとの意気盛んな私が戻って来て、「生意気」らしいが、、、。

 そして、仕事を再開して、仕事をすることが生きがいだった自分が少しずつ戻ってきた。何が自分の身に起こったのか、を文章化したり、問題意識を断片的に書きつけて、私が関わることのできる媒体に発表した。やっぱり、これをやっていかねば、、、と、運動体のプロジェクトなどを始めた。

 単に「生きる」ということが目的にはならない、ということを身を持って実感する。嘗て、神経科に入院した時、明らかに自殺未遂で助かった後、入院させられたのだろうと思える人がたくさんいた。礼儀正しく、良識があり、孤独そうで、覇気がなかった。本人が見切りをつけたこの社会に、「生きろ!」と無理やり連れ戻された人たちだ。彼らが生きるための目的を見つけなければ、また、いずれ、自殺を企てるだろう。人は、単に命をつなぐためには生きられない。イベントを企画したり実行したり、家族を養うために働いたり、課題解決のために奔走したり、論文を完成させたり、研究発表をしたり、、、そのような具体的な目的なしに生きるのは難しいような気がする。

 私は仕事をし、旅行をし、活動をし、そのような具体的な行動を継続して、生き続けてきた。中でも、たとえ細々とではあっても、仕事の継続は私を支えた。今度の授業では何を教えよう、タイムリーに新聞記事が出ていたからこれを授業資料に加えようか、レポートを増やそうか、授業の仕方の工夫をどうしようか、どのレベルで教えようか、この資料は難しいだろうか、など、いろいろ考える。私は講義ノートを作って、通り一遍の授業をしたくなく、自分自身にとってもヴィヴィッドな授業展開をしたいたちなので、毎回準備をする。忙しい時は、だから準備が苦痛になったりもするが、それが実は私を支えているのだろう。

 人は、単に「生きる」ためには、生きられない。人生は目的にはならない、ような気がする。自分とは異質の人もいるだろうと思うので、断言はやめておくけれど、、、。
 少なくとも、私には、「目的」が要った。目的があって、初めて、生きる意味が見出され、希望となって活力が生まれた。
 
 こんな誰でも知っている、とても単純なわかりきったことを、年を重ねて少しずつ理解していくのが、愚かな私という者の歩み方らしい。