凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

理解し合うということは?

2011-01-11 14:45:59 | コミュニケーション
 言葉は空しいことが多い。言葉では語りつくせないことの方が多い。言葉を使っていても、真意は別のところにある、という場合は多い。
 しかし、だからと言って、言語化を怠ってしまえば、もはやコミュニケーションの成り立ちようがない。

 何も言わないで、「ね、わかるでしょ?」と、相槌を求める、あの感じが私はものすごく苦手だ。もちろん、わかると思う場合もあるが、皆目わからない場合もある。

 私の接した、「ずるい」と感じる人は、この「察し」を要求する人が多かったように思う。「ね、わかってるでしょ?」と同意を強要して、自分の土俵に相手を引きずりこむ。そこへ入ってしまったら、もう相手の術中に落ちている。気がついた時はもう遅い。でも、そういうことを、無意識にやっている人がいる。無意識だから強い。何のためらいも呵責もないから、隙もない。こういう人がたまにいて、なんか、やりこめられたなぁ、という感じが残っている。

 また、ひがみや悪意や敵意や、そういうことをこよなく憎み、自分にはそういうものがないと思い込んでいる人もいる。私の古い友人で、最近、絶交状態になってしまった人がそれだ。いつも自分は正しいと思っているので、自己イメージが立派だ。が、生身の人間は、それほど立派なだけではないのが通常だ。やっかみもわく、自分が人に認められたいと願う、いい思いをしたいとも思う、、、、そういう俗人的な欲望が自分にはなく、常に抑圧された他人のために闘う、という自己イメージでいるから、そして、人々が自分についてくるはずだ、と思いこんでいるから、自分についてこない人に驚き、裏切りと感じ、自分は正義だから相手は不正義と断じる。とんでもない短絡が起こっている。自分の中のネガティブな感情を認めないからそれを覆い隠したことしか言わない。で、どうしても話を聞いていても、しっくり来ない。「怒りがあるね」と言っても、肯定しない。きれい事だけを言い続ける。で、「本心は何?」と尋ねることになるのだが、その質問には傷つくのだ。まるで、自分が裏表のある人間のように言われた、と。裏表ではなく、自分でも否認している感情があるのではないか、と、さらに問うたら、絶交された。それは、自分にそのような俗物の感情などあるはずがない、と思いこんでいるから、そこを見させられるのがいやだったのだろう。
 しかし、ここをきちんと見つめて話し合わなければ、どうしようもない。彼女には、自分についてこない人は、みんな「敵」となった。現在は、その状況だ。

 平たく、言語化しつつ、行きつ戻りつしながらも、やり取りをする以外に、わかり合う方法はないと思うのだが、それ以前に、わかり合いたい、と思っていない人には通用しないということだろうか。
 わかり合う、ということではなく、一方的に相手が自分の言い分だけをわかるべき、と考えていたら、確かに議論は成り立たない。

疲れる、、、


攻撃の真相を考える

2011-01-11 10:45:43 | 組織・集団
 何度も何度も自分が管理職として苦しんだ組織のことを振り返るのだが、あの時の私に向けられた攻撃は、ほとんど、攻撃者には自覚のないことだったのだろうと思う。

 私が行く前から、組織内部は、荒れに荒れていたようだ。働いている人たちは疑心暗鬼になり、お互いに優しくはなく、多くが有期雇用の中で自分の仕事は大丈夫なのか、という不安に駆られていたようだ。多くの人が私を知らない中で、私のことを古くから知ってくれている人がいたことも、私を救ってくれたと思う。その人が私と仕事をして、この職場で初めて、仕事をして楽しいと思った、と言ってくれた。その人が、私のことをよく知らない人にも、伝えてくれた可能性はある。さらに、私が就任してしばらくして、声明のようなものを書いた。一部と二部に分けて書き、一部はその職場のミッションについて、二部でその職場内の民主化を目指すことを書いた。職場内の民主化はミッションと密接に関わりがあるので、まず「隗より始めよ」の気持ちで書いた。すでに、なんとなく、古くからいる正規職員の非正規職員への、そのような職場ではあるまじき圧力や力関係のありようが見え始めたこともあり、正したいと思って書いた。非正規職員のよくものを考える人たちは、その私の文書を評価してくれた。「そのお立場でよく、ここまで書いてくださいました」と礼を言ってくれた人もいる。
 が、しかしこれは、正規職員には不評だった。このことで、正規職員は、私への締め付けを始めたような気がする。今思えば、それは、彼女たちの不安感の表れだったのかもしれないと思う。非正規職員の方が数が多く、組合も結成されているから、しかも有能な人も多いから、何か脅かされる不安があったのかもしれない。それで、この正規職員たちは、非正規職員をなんとか押さえこんでいたのに、非正規側に立つトップがやって来たので、泡を食ったのかもしれない。この人たちの私への攻撃の仕方は、今思えば尋常ではない。早急に、潰しておかねば、というような緊迫感があったような感じだ。
 私には、わけのわからないこの人たちの攻撃は、上司とは言えど外部からやって来た新参者に対する「いじめ」そのものであったが、本人たちには、言葉には出来ない、すなわち正式の会議では口に出来ない、既存の秩序がかき乱される不安でたまらなかったのかもしれない。ただでさえ、非正規職員が組合を結成していることで、管理側は難儀していたようだから、そこへ持ってきて「組合側」(と、かれらは呼んでいたようだ)の上司がやって来たのだから、悪意や敵意ではなく、それ以上に困る事態を避けたかっただけなのかもしれない。

 今の私にすれば、外部から事情を知らない人間を連れて来て、トップに据えるようなやり方自体に問題があったのだろうと思う。最初から苦労をして現場を支えてきた人が、順調に昇進するようなシステムでなければ、その場の問題にうまく対処できない。
 もちろん、その職場で醸成された文化というものを一新するには新しい風を吹かせる必要があるのだが、そのためには、せめて、指示系統がきちんと機能する組織としての体をなしていないと、力関係が支配するだけの任意の集まりになってしまい、新しい風を吹かせに来た人間は、ただいじめにあって、排除されてしまうだけだ。
 私がいた職場も、まさにそういうところだった。生真面目に組織の職務分掌に従い、指示系統に則って仕事をしようとした私は、その裏の指示ルートにかきまわされてしまった。

 が、この人たちに、その自覚はないのだろう。もともとその力関係が支配する中で仕事をすることが、その職場のあり方であり、そうして長年やってきているのだから、他に方法はない。そして、自分たちが苦労して築き上げてきた職場の秩序を壊しに来たように見えた私の影響力を、極力おさえたかったのだろう。それも、正式の会議の場では公言しにくい類のことだということはわかっているので、(非正規の○○さんが生意気だ、とか、自分が非正規に舐められたくない、とか、、、)、私が仕切る会議では話題にするわけにはいかない。おのずと、陰で画策をするという、私から見れば極めて奇妙な歪んだ動きが作られていったのだろう。たぶん、この人たちは、良かれ、と思ってそうしていたのだろう。私のようなトップに好きなようにやらせていれば、ろくなことはない、非正規がますます力を持つ、だから、自分たちでなんとかうまく動きを変えよう、ということにもなったのだろう。

 私の側からは、裏で画策する卑怯な行為の連続であり、権力を恣にするとんでもない監督職の堕落した行為であったが、本人たちにはそれなりの理由と理屈があったのだろう。が、正面切って私に言って来なかったのは、私の理論には勝てないとわかっていたからだ。「理想と現実は違う」というような、私の親たちが言っていたようなことを口にする以外に、言い分は出てこなかった。それでも、「理想と現実、というその二元論がおかしいだろう、現実を理想に近づけるのが我々の仕事だろう」と私が言えば、もう言葉をなくすこの人たちは、私との議論は徹底的に避けた。議論できないとなると、他の方法、すなわち、裏の画策でなんとか自分たちの思うようにしようとした、というのが、その人たちの問題性なのだが、古参の者が情報も力も持っていたので、その職場ではそれが可能だった。明文化された職場内の指示系統よりも、そっちが機能したのだ。
 そして、この人たちに、何の呵責の念もない。自分たちが間違っていたとは、つゆほども思っていない。
 まともに議論をすれば、この人たちを論破することは簡単だったが、決して言語化されない不思議な感情のねじれが介在する奇妙な集団慣行の中で、私が生き残る道はなかった。

 私には卑怯な攻撃行動の数々としか言いようのない行為の連続だが、本人たちは、攻撃を仕掛けた意識は一切ないだろうと思う。
 これは、いつも思うことだが、DVの構造とよく似ている。DV夫の大半は、自分が暴力をふるったとは思っていない。妻があまりにも自分の気持ちをふみにじるので、つい、手が出てしまったことはあるが、自分こそ妻から精神的暴力を受けた被害者だ、と思っているケースが多い。そして、よくあるのは、妻に踏みにじられた自分の気持ちというのは、「妻が自分の気持ちを汲んで自分の思う通りに行動すること」だったりする。それをしないから「妻が悪い」のだ。
 私もまた、正規職員の「思い」を汲んで、正規職員の思い通りに行動しなかった「困った上司」だったのだ。だから、あの手この手で思い知らせようとしたが、最後には、出て行ってしまって、さらにかれらを困らせた、ということになるのだろう。

 この、「違い」をきちんと議論しない問題性をどうすれば克服できるのか、私にはまだまだわからないことだ。