なんだか、あまりにも当たり前なことを書いてしまった。
そう、誰でも自己イメージというか、ありたい自画像があるが、他人から見るイメージは大いに異なる場合がある。
これが一致しているのは、とても心の安定することなのだろう。
そして、案外(と言うか、私の場合だけか)、この自己イメージと他人が見る自分のイメージとのギャップに、折り合いがつかないものなのだ。おそらく、複数の他人が見る私のイメージが、流通する私の像なのだろう。私が望む私像は、誰も知らない私だけの「理想の」私に過ぎない。
それでも、60歳を過ぎるまで、こういうことに諦めがつかないとは、、、。まあ、不幸であるとも言えるし、滑稽であるとも言える。
私は背が高くない。すらりと細長いシルエットも持っていない。運動神経も良くない。きりっとした顔立ちでもない。それは、わかっているのに、私のありたい自分は、すっきりとした中性的な人なのだ。女の体イメージのあの、でこぼこがいやだ。棒みたいなシルエットに憧れる。が、実際は、私は比較的乳房が大きい。その自分のからだを、少女時代から嫌悪していた。だから、なるべく胸のふくらみをつぶすような服を着る。わざわざ胸を目立たせるファッションを選ぶ人、豊胸手術をする人を不思議で仕方がない。
そして、少女時代から一つのイメージが貼り付いていた。私が若い頃に流行った言葉だが、「清純」とか「清楚」である。そもそも親が清楚な少女であることを願うので、着せられる服もそういうものである。また、たまに少しくだけた「不良っぽい」とでも言うのか、そういう出で立ちに挑戦してみるが、おそろしく似合わない。
若い頃、女性達が煙草を吸い始めた頃、私も真似をしてみたが、仲の良い友だちに、「似合わない」と言われてしまった。
50歳の頃に高校時代の同窓会があって、私はマニッシュな黒っぽいスーツで参加したが、当時の担任の先生はやはりこう言った。「清純な感じでしたね」「今も変わりませんね」と。
もうそろそろ諦めた方がよいのだ。顔を見ただけで、「女らしい」というイメージを貼り付けてこられる。「家庭」のイメージではないらしいが、「優しい」キャラで話をよく聞いてくれる、というイメージらしい。会合の後、持ち込んだ備品などを撤収して花束だけが残ると、「一番似合う人に」と、私にくれる。実は内心、残念なような複雑な気持ちだ。
ずっと自己イメージとは異なる自分イメージを貼り付けられてきた。清楚、繊細、上品、優しい、などなど、、、。ただ、少し親しくなると、「見かけと違う」「結構、はっきりものを言いますね」「実は男っぽいところがあるんですね」というような感想もくる。その感想を聞いて、あらためて、そうか、そんなふうに思われていたのか、と気づく。
母はずっと、「年をとったら、かわいいおばあさんになりたい」と言っていたが、私は金輪際そんなことは思ったことがない。賢い、自立したおばあさんではいたいけれど、、、。
もうこのからだと62年もつきあってきた。自分の望む人にはなれなかった。私の友人で、きりりとした顔立ちの人がいる。自分で「男顔」と言っているが、それがいやなようなのだ。私はどうしても「女顔」なので、それがいやだったのだが。
まあ、それも年齢と共に変化して、やがて、女も男もない年寄りになるのだけれど。ホルモンの減少で、互いに歩み寄るようだ。野太いバスだった父も年をとったら、少し声が高めになったし、逆にソプラノ系の人も声がしゃがれてくる。年を取ってよいところは、見かけのジェンダーがはずれてくるところだろう、と私などはそれが怖いような楽しみなような。
そう、誰でも自己イメージというか、ありたい自画像があるが、他人から見るイメージは大いに異なる場合がある。
これが一致しているのは、とても心の安定することなのだろう。
そして、案外(と言うか、私の場合だけか)、この自己イメージと他人が見る自分のイメージとのギャップに、折り合いがつかないものなのだ。おそらく、複数の他人が見る私のイメージが、流通する私の像なのだろう。私が望む私像は、誰も知らない私だけの「理想の」私に過ぎない。
それでも、60歳を過ぎるまで、こういうことに諦めがつかないとは、、、。まあ、不幸であるとも言えるし、滑稽であるとも言える。
私は背が高くない。すらりと細長いシルエットも持っていない。運動神経も良くない。きりっとした顔立ちでもない。それは、わかっているのに、私のありたい自分は、すっきりとした中性的な人なのだ。女の体イメージのあの、でこぼこがいやだ。棒みたいなシルエットに憧れる。が、実際は、私は比較的乳房が大きい。その自分のからだを、少女時代から嫌悪していた。だから、なるべく胸のふくらみをつぶすような服を着る。わざわざ胸を目立たせるファッションを選ぶ人、豊胸手術をする人を不思議で仕方がない。
そして、少女時代から一つのイメージが貼り付いていた。私が若い頃に流行った言葉だが、「清純」とか「清楚」である。そもそも親が清楚な少女であることを願うので、着せられる服もそういうものである。また、たまに少しくだけた「不良っぽい」とでも言うのか、そういう出で立ちに挑戦してみるが、おそろしく似合わない。
若い頃、女性達が煙草を吸い始めた頃、私も真似をしてみたが、仲の良い友だちに、「似合わない」と言われてしまった。
50歳の頃に高校時代の同窓会があって、私はマニッシュな黒っぽいスーツで参加したが、当時の担任の先生はやはりこう言った。「清純な感じでしたね」「今も変わりませんね」と。
もうそろそろ諦めた方がよいのだ。顔を見ただけで、「女らしい」というイメージを貼り付けてこられる。「家庭」のイメージではないらしいが、「優しい」キャラで話をよく聞いてくれる、というイメージらしい。会合の後、持ち込んだ備品などを撤収して花束だけが残ると、「一番似合う人に」と、私にくれる。実は内心、残念なような複雑な気持ちだ。
ずっと自己イメージとは異なる自分イメージを貼り付けられてきた。清楚、繊細、上品、優しい、などなど、、、。ただ、少し親しくなると、「見かけと違う」「結構、はっきりものを言いますね」「実は男っぽいところがあるんですね」というような感想もくる。その感想を聞いて、あらためて、そうか、そんなふうに思われていたのか、と気づく。
母はずっと、「年をとったら、かわいいおばあさんになりたい」と言っていたが、私は金輪際そんなことは思ったことがない。賢い、自立したおばあさんではいたいけれど、、、。
もうこのからだと62年もつきあってきた。自分の望む人にはなれなかった。私の友人で、きりりとした顔立ちの人がいる。自分で「男顔」と言っているが、それがいやなようなのだ。私はどうしても「女顔」なので、それがいやだったのだが。
まあ、それも年齢と共に変化して、やがて、女も男もない年寄りになるのだけれど。ホルモンの減少で、互いに歩み寄るようだ。野太いバスだった父も年をとったら、少し声が高めになったし、逆にソプラノ系の人も声がしゃがれてくる。年を取ってよいところは、見かけのジェンダーがはずれてくるところだろう、と私などはそれが怖いような楽しみなような。