女の自我って、何なんだ? とは、よく思う。
いや、もちろん、脳のどこかで思考活動を行う人間として、「自我」意識は存在するのだけれど、
その「自我」の認識は、すでに、「女」という属性と切り離されないレベルで形成されてきたと思うと、
この社会の「女」が持つ「自我」とは何なのか? と問うてしまうのだ。
「女」という社会的存在が「自我」を持つ、などという状況は、すでに矛盾ではないのか。
こういう疑問を持つのは、もちろん、私の生育環境が大きいとは思う。
「女」の「子ども」が思考する、などということは、全く想定外であった父のような男に支配されてきたので、
自己肯定感を育成し損なった、という事情はあるだろう。
自己肯定感を育成し損なうと、「自我」という確固たる無前提の概念は、自分のものにしにくいのだ。
「自我」があるのはわかっているし、知識として認識できるが、
それが「主張」を持ったり、この社会での居場所を獲得しようとすると、
たちどころに、体感というか、実感というか、そういうレベルで理解しにくい。
だから、実は、私の中に、フェミニズムは根付かないのだ。
私が生きたいのであって、「女」の私が生きたい、という実感にはならない。
私は「女」ではないのか。
「女」とカテゴライズされて、「女」扱いされてきたが、
私の感覚的「自我」は、フェミニズムでは扱われないものなのだ。
それは、「女」を貶める価値観の中で、育み損ねた自我意識であり、
且つ、「女」の復権を目指すフェミニズムの中で、生きる場所を持たない自我意識なのだ。
「女」であることによって自己確立の機会を失い、失敗し、
「女」の復権を目指す価値観が広まった時には、もう、主張する「自己」を持たない。
「女」の自我の救済に、
私の自我は間に合わなかった。
それは、「女」だから貶められた悔しさを抱える女性たちとは違って、
「女」以前の自我の目覚めから、蹂躙された過去があるから。
かわいい娘として慈しまれながら、「女」だからお嫁さんにいきなさい、と親に言われた人は、
後の知識や情報をもとに、反発することができる。
しかし、慈しまれずに、自分の存在自体をうとましいと親に表明されてきた人は、
「女」だから貶められた、とは思えない。
「自分」だから疎ましいと思われたのだと、自己否定するより理解の手立てがない。
自分が貶められたのは、「女」だったから、という要素は多分にあったと思われる。
フェミニズムの文脈で、説明が可能な部分がある。
「女」だから、軽んじられ、将来への展望も閉ざされ、その気持ちなど一顧だにされなかったのは事実だ。
が、もう一つの要素がある。
「子ども」だから軽んじ、疎まれ、存在を否定されてきた。
さらに、「女」だったから、一層軽んじ、芽生え始めた「自我」をためらいもなく踏みにじられてきたのだ。
「女」である、という社会的立場の自覚以前に、蹂躙された「自我」は、フェミニズムでは救えない。
だから、私は、「女」である以前に、「人」として蹂躙されたと言えるのかもしれない。
と言うことは、
最初に立ち戻ると、「女」であって「自我」を持つ人は十分に存在し得ることになる。
否、そう感じている女性がいる、ということは想像し得る。
フェミニズムの担い手には、そういう人が多いような気がする。
が、それは、女たちの錯覚ではないだろうか。
この男たちの社会で、「女」の「自我」に用のある男はどれほどいるだろうか?
あるいは、「自我」を確立しそこなった、蹂躙されてきた男たちは、女の自我にも、畏敬の念を持つのだろうか?
健全な「それ」を持った自覚がない人は、男にもいるだろうし。
が、女は、男を救うために存在しているわけではないので、そういう男は、早晩、女にも裏切られるだろうけれど。
物心ついた時から、私は「女」だったが、
「女」の自覚なしに「女」だったが、
それ以前の自我など想像するべくもないが、
しかし、どうも、私の感覚では、
存在自体を否定され、蹂躙され、
「女」であることは、その理由づけに使われたような気がする。
憎しみを発散させるには、ターゲットが要る。
身近に、手のかかる子どもがいれば、ターゲットに定めやすい。
そしてそのターゲットを攻撃するには、理由が要る。
その理由の一つは、「女」であること。
主張する子どもは黙らせてよい。
ましてやその子どもが「女」であれば、徹底的に黙らせる必要がある。
私の「自我」の簒奪には二重の仕掛けがあるのではないか。
攻撃者にとって邪魔な存在であることと、それが「女」であることとは、二重構造になっている気がする。
私の自己確立は、二重に攻撃を受けて失敗し、「自我」というようなものが損なわれたのかな、と、そんな気がしてきた。
だから、確固たる「自我」というようなものが想定しにくく、
簡単に、その意味を無化できるのかもしれない。
まぁ、どうせ、出口のない愚痴なのだけれど。
いや、もちろん、脳のどこかで思考活動を行う人間として、「自我」意識は存在するのだけれど、
その「自我」の認識は、すでに、「女」という属性と切り離されないレベルで形成されてきたと思うと、
この社会の「女」が持つ「自我」とは何なのか? と問うてしまうのだ。
「女」という社会的存在が「自我」を持つ、などという状況は、すでに矛盾ではないのか。
こういう疑問を持つのは、もちろん、私の生育環境が大きいとは思う。
「女」の「子ども」が思考する、などということは、全く想定外であった父のような男に支配されてきたので、
自己肯定感を育成し損なった、という事情はあるだろう。
自己肯定感を育成し損なうと、「自我」という確固たる無前提の概念は、自分のものにしにくいのだ。
「自我」があるのはわかっているし、知識として認識できるが、
それが「主張」を持ったり、この社会での居場所を獲得しようとすると、
たちどころに、体感というか、実感というか、そういうレベルで理解しにくい。
だから、実は、私の中に、フェミニズムは根付かないのだ。
私が生きたいのであって、「女」の私が生きたい、という実感にはならない。
私は「女」ではないのか。
「女」とカテゴライズされて、「女」扱いされてきたが、
私の感覚的「自我」は、フェミニズムでは扱われないものなのだ。
それは、「女」を貶める価値観の中で、育み損ねた自我意識であり、
且つ、「女」の復権を目指すフェミニズムの中で、生きる場所を持たない自我意識なのだ。
「女」であることによって自己確立の機会を失い、失敗し、
「女」の復権を目指す価値観が広まった時には、もう、主張する「自己」を持たない。
「女」の自我の救済に、
私の自我は間に合わなかった。
それは、「女」だから貶められた悔しさを抱える女性たちとは違って、
「女」以前の自我の目覚めから、蹂躙された過去があるから。
かわいい娘として慈しまれながら、「女」だからお嫁さんにいきなさい、と親に言われた人は、
後の知識や情報をもとに、反発することができる。
しかし、慈しまれずに、自分の存在自体をうとましいと親に表明されてきた人は、
「女」だから貶められた、とは思えない。
「自分」だから疎ましいと思われたのだと、自己否定するより理解の手立てがない。
自分が貶められたのは、「女」だったから、という要素は多分にあったと思われる。
フェミニズムの文脈で、説明が可能な部分がある。
「女」だから、軽んじられ、将来への展望も閉ざされ、その気持ちなど一顧だにされなかったのは事実だ。
が、もう一つの要素がある。
「子ども」だから軽んじ、疎まれ、存在を否定されてきた。
さらに、「女」だったから、一層軽んじ、芽生え始めた「自我」をためらいもなく踏みにじられてきたのだ。
「女」である、という社会的立場の自覚以前に、蹂躙された「自我」は、フェミニズムでは救えない。
だから、私は、「女」である以前に、「人」として蹂躙されたと言えるのかもしれない。
と言うことは、
最初に立ち戻ると、「女」であって「自我」を持つ人は十分に存在し得ることになる。
否、そう感じている女性がいる、ということは想像し得る。
フェミニズムの担い手には、そういう人が多いような気がする。
が、それは、女たちの錯覚ではないだろうか。
この男たちの社会で、「女」の「自我」に用のある男はどれほどいるだろうか?
あるいは、「自我」を確立しそこなった、蹂躙されてきた男たちは、女の自我にも、畏敬の念を持つのだろうか?
健全な「それ」を持った自覚がない人は、男にもいるだろうし。
が、女は、男を救うために存在しているわけではないので、そういう男は、早晩、女にも裏切られるだろうけれど。
物心ついた時から、私は「女」だったが、
「女」の自覚なしに「女」だったが、
それ以前の自我など想像するべくもないが、
しかし、どうも、私の感覚では、
存在自体を否定され、蹂躙され、
「女」であることは、その理由づけに使われたような気がする。
憎しみを発散させるには、ターゲットが要る。
身近に、手のかかる子どもがいれば、ターゲットに定めやすい。
そしてそのターゲットを攻撃するには、理由が要る。
その理由の一つは、「女」であること。
主張する子どもは黙らせてよい。
ましてやその子どもが「女」であれば、徹底的に黙らせる必要がある。
私の「自我」の簒奪には二重の仕掛けがあるのではないか。
攻撃者にとって邪魔な存在であることと、それが「女」であることとは、二重構造になっている気がする。
私の自己確立は、二重に攻撃を受けて失敗し、「自我」というようなものが損なわれたのかな、と、そんな気がしてきた。
だから、確固たる「自我」というようなものが想定しにくく、
簡単に、その意味を無化できるのかもしれない。
まぁ、どうせ、出口のない愚痴なのだけれど。