Blue Sky Love Sky

空を愛する者として各地を歩いた際の航空機の写真災害時の活用法などを掲載しています。現場の意見などコメントをください。

AH-64D旋回機動

2012-07-25 10:08:07 | 趣味・航空機
最近の中国の軍事力の増強は恐ろしいほどである。わが国が防衛力を増強しようとした時期に、中国は、『周辺国の脅威になる・・軍事大国化をすべきではない・・』などとことあるたびに大声で批判していた。最近あの言葉はすでに死語となったのか、わが国のメディアも中国の軍事力の大幅な増強に対して大きな声を出さない。国民もあまり脅威に思っていないかもしれない。南シナ海での領土紛争で、ベトナムやフィリピンが大変苦労しているが、わが国が領土問題に対して厳しい対応をしない限り数年後には同様のことが起こるだろう。写真のAH-64Dは、南西諸島の防衛などを睨んで導入された重要な装備であるはず。政治家は財政難を理由にその装備を導入停止としている。この時期に本当にそれでよいのだろうか・・?疑問を持っている。前に掲載したように道東でも、東北でも九州でも・・・装備と人員の不足で第一線部隊は瀕死の状態であろう。来るべき、東シナ海や日本海及びオホーツク海周辺の軍事情勢の緊迫化に備えて、バランスの良い防衛力の構築をすべきである。今こそ政治家はわが国全体の安全確保のために必要な装備と人員に投資をすべきであろう。

帯広記念行事で

2012-07-24 20:31:50 | 趣味・航空機
先日帯広で記念行事が行われていました。帯広と言えば、道東の防備の重要な役割を演じてきた第5師団と第1対戦車ヘリコプター隊が頭に浮かびます。第5師団は平成16年3月29日に廃止され、同日第5旅団が編成されて現在に至っています。第1対戦車ヘリコプター隊は、昭和61年3月25日に陸上自衛隊で初めて航空火力戦闘部隊として新編されています。その当時は第5飛行隊もUH-1×5、OH-6×8機の師団飛行隊「B」編成であり、道東は空中機動力・航空火力ともに充実していた時期でした。近年北方領土の問題が顕在化し、緊張感がありますが、道東の防備を担任する第5旅団、第1対戦車ヘリコプター隊などは少ない装備と人員で精いっぱいの防衛警備任務を行わざるを得ない状況にあるようです。写真は、前の3機が第5旅団飛行隊、後方の3機が対戦車ヘリコプター隊の航空機です。昭和60年代の半ばころは約30機弱の航空機が堂々の編隊飛行をして道東の機動戦力の存在を誇示した時期もありました。

豪雨災害に多いホイスト救助

2012-07-13 09:52:11 | 趣味・航空機
熊本や大分県で甚大な被害をもたらしている豪雨災害が連日報道されている。前掲のように昭和28年に、当時できたばかりの保安隊航空学校所属のL-5連絡機が3機災害派遣に出動したのが陸上自衛隊航空部隊が出動した初めての災害であった。(当時はわが国にはまだ飛行機はほとんどなかった時代)その後も豪雨災害は多く出動しているが、豪雨災害に特徴的なことは、水によって交通網が寸断され孤立するケースが多いことであろう。このための重要な救助方法がヘリコプターによるホイスト救助である。この救助もTV映像で見ると簡単に行ているように見えるが、日頃の訓練がものをいう方法である。自衛隊、消防、警察など関係機関はこの訓練は日常的に欠かせない。寸刻を争う状況で安定して、被災者の直上で空中にホバリングするのは簡単なことではないからである。微妙な動きを誘導する救助員と操縦士とのチームワークも欠かせない。写真は東日本大震災で報道されて有名になった亘理町での津波災害からの救助の風景であるが、熊本でも同じような映像が流されていた。陸上自衛隊はじめ消防・警察の方々のご尽力に感謝するばかりである。ホイスト救助で欠かせないのが機体の両サイドにある広いドアである。片方にしかない機体も多いが、UH-1のように両サイドから救助可能な機体は何が違うのか・・。これは狭隘地で、風が強い場合の救助ですぐ理解できる。機体の能力を維持し安定させるには、風に向かって運用する必要があるため、場所によっては、左右どちらからしか救助できないこともあるからである。過去の教訓を学びながら最大の能力を発揮して安全に任務を遂行していただきたいと願っている。

保安隊航空部隊(L-5)初めての災害派遣

2012-07-12 23:40:34 | 趣味・航空機
昨日から熊本大分など九州北部での甚大な被害をもたらしている豪雨災害の報道を見聞して、59年前に行われた保安隊航空部隊(陸上自衛隊航空部隊の前身)が初めて出動した災害のことを思い起こした。最近まとめた「陸上自衛隊航空部隊60年の回顧」の災害派遣の最初の項に書かれているので紹介する。
『わが国で戦後航空機を使用して行われた初めての災害派遣は、昭和28年6月25日~29日にかけて九州北部(福岡・佐賀・熊本・大分県)で発生した梅雨前線による大雨災害(昭和28年西日本水害と呼称される)で、孤立化した住民の救助等のために出動している。筑後川や白川等九州北部を流れる河川ほぼ全てが氾濫し、死者759名負傷775名、建物は全半壊を含めて3万棟を超える戦後初めての大規模な災害であった。「陸自航空よもやま物語」によれば、第一幕僚監部から保安隊航空学校に対して、航空機の派遣を命ぜられたのであった。大室猛教育部長を派遣隊長として、L-5×3機、パイロット、整備・通信・写真要員を含めて総勢17名であった。昭和28年7月1日に浜松を出発、福岡県の目達原駐屯地の着陸場を使用して、「情報収集・提供、物資空輸、要人の空中視察、写真撮影」等の任務が約1ケ月間行われた。この災害で第4管区内現地各部隊は「保乙行災命第三号」を持って出動している。その記録の中に、保安隊航空学校の17名が航空機を以て活動した記録が無いのが誠に残念であると記されている。(当時航空機はまだ保安隊航空学校にしかなかった)・・(以下略)』写真は貴重な写真で保安隊のマークを付けたL-5の数少ない写真である。

L-5

2012-07-02 10:27:29 | 趣味・航空機
この写真は、陸上自衛隊になる前、保安隊の頃初めて旭川に配備された数機の軽飛行機のうちの1機です。胴体にあるマークが現在の日の丸ではなく、桜ですね。当時から約60年が経ちました。わが国の航空界は、昭和20年8月24日のGHQ命令によって日本国籍のいっさいの航空機は飛行を禁止され、引き続く9月2日のGHQの覚書によって、飛行場及び航空保安施設を現状のまま連合軍へ引き渡され、生産技術も人材もずたずたにされていました。昭和25年7月7日のマッカーサー書簡をベースに警察予備隊が発足して全国からわが国の航空界を再建しようと多くの人たちが立ち上がりました。屈辱の時から約5年後のことでした。航空界は、かろうじて残った戦時中経験された方々から教育を受けて、人材を養成する必要があり、浜松に保安隊航空学校が昭和27年10月15日に創設されることになったのです。そしてそこで教育を受けた帝国陸・海軍出身のパイロット・整備員の方々などが創設期の部隊において後輩の育成を行いました。これが現在の陸上自衛隊航空部隊であり、航空自衛隊の原点とな利ました。写真の航空機はその当時(昭和29年4月頃)のものです。将来が混沌として見えない時代、歴史を知ることで、創造性が生まれるといわれています。まさに戦後60年を過ぎた今こそ原点に返って歴史を学ぶ時期だろうと思っています。