Blue Sky Love Sky

空を愛する者として各地を歩いた際の航空機の写真災害時の活用法などを掲載しています。現場の意見などコメントをください。

円ドル交換の一コマ

2010-03-30 10:58:29 | 趣味・航空機
1969(昭和44)年11月21日、「佐藤・ニクソン共同声明」により、沖縄の1972(昭和47)年返還の合意が成立しました。そして、1971(昭和46)年6月17日に「沖縄返還協定」(「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」)の調印が行われました。佐藤・ニクソン共同声明で1972(昭和47)年の日本復帰が確認されたことで、日米琉諮問委員会に代わり1970(昭和45)年3月3日、「復帰準備委員会」が設立され、日本政府は沖縄の復帰に備えて、「復帰対策要綱」を1970(昭和45)年11月20日から1971(昭和46)年9月3日の期間、三次にわたって閣議決定しました。その中に日本政府の対沖縄施策、本土法の適用、そのほか沖縄に対する国の具体的政策が示されています。国費学生制度、ハンセン病患者の保護、沖縄開発庁設置、通貨交換レート、琉球政府および関係機関の取り扱い等、246項目が盛り込まれています。
日本政府は、沖縄の復帰に伴い、日本の諸制度の沖縄県における円滑な実施を図るため、「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律(昭和46年 法律第129号)」を定め、返還に伴う円ドル交換等の準備を行っています。「NHK特集 ドル円切り替えXデー 沖縄返還秘話」でも放映されましたが、4月27日早朝、日銀本店から540億円総重量320tに及ぶ現金が運び出され、東京湾で海上自衛隊のLSTに搭載されて、上空を海上自衛隊のP-2V等が監視する中、沖縄那覇港まで運ばれました。離島へは警察官などの立会の下、陸上自衛隊のV-107で配られています。その当時の貴重な写真です。写真は第101飛行隊(現第15飛行隊)の資料室にあったものを提供いただきました。陸上自衛隊の航空部隊も歴史とともに多くの業績を残してきたことが伺える1枚の写真でした。

沖縄の陸自15Avnの緊急患者輸送を支える

2010-03-29 10:38:11 | 趣味・航空機
3月26日午後15飛行隊が新編されて初めての緊急患者空輸が行われていました。北大東島からの要請があり、直ぐに病院の医師や現地自治体との情報交換、目的地や経路上の気象情報の収集、航空機の整備状況、搭載する救急救助のための装備品の確認等、機長以下のチームが行うことは大変多くの内容があります。これをオペレーションルームにいる人たちで一部を分担して迅速に行い、機長以下の救助チームを支えています。写真はすべての調整を終えて一段落し、離陸を待つ間のつかの間の支援チームの談笑風景です。この数分後LR-1は離陸して行きましたが、帰投するまでの間は刻々と変化する情報を確認して飛行隊長等ヘ報告をするなど緊張が続きます。365日24時間の救急救助任務を、整備支援チームやこのような運航支援チームが支えています。日ごろは誰の目にも触れないチームですが、黙々と汗を流す彼らが15飛行隊の即応性を支えているといっても過言ではありません。頑張ってください!

波濤を越えて

2010-03-28 09:49:36 | 趣味・航空機
前掲の沖縄第101飛行隊が7758回の離島緊急患者輸送等の救助活動において、県民の命を救おうとする熱い情熱を持った多くの隊員たちが悪天候の中でも飛び上がって行き、多くの県民の命を守ってきました。しかしながら、平成2年2月17日の深夜悪天候の中を地元の知花医師とともに飛び上がったLR-1、平成19年3月30日深夜悪天候の中鹿児島徳之島で発生した急病人の救助に向かったCH-47は、いずれも厳しい悪天候に阻まれて、合計8名のチームは任務半ばにして散華されました。この任務に当られた方々の熱い情熱を決して忘れることなく、二度と同じような事故を起こさないことを誓って写真のような『鎮魂の碑』が建立されています。夜間の救急救助活動は天候が良い場合でも大変厳しい任務です。悪天候の場合のその厳しさは任務に就いた人しか理解できないほど筆舌に尽くせないものがあると言われます。しかし、急病人等の苦しみを思う隊員たちの情熱がそれを上回り、自らの身を挺して、7758回の救助活動を行って来られたことは誠に尊いことで、もっと称賛されてしかるべきです。今後とも厳しい訓練を重ねて安全を確保して多くの方々の生命財産の保護に活躍されることを願っております。

第15飛行隊新編祝賀飛行

2010-03-27 08:42:16 | 趣味・航空機
南西諸島の防備を担う陸上自衛隊第1混成団は、沖縄返還準備からその初期の困難な時期を乗り越えて、沖縄県民の力強い協力と信頼を得て、着実に成果を収め、約38年の任を終わりました。新たに装備等を増強し、広大な島嶼からなる南西諸島の防衛警備・災害対処を行う第15旅団が新編されました。新編行事の直後にも北大東島の女性が急病になり、その救助のために那覇市内の病院の医師とともに第15飛行隊のLR-1が急ぎ那覇空港を飛びあがって行きました。旅団として初めての緊急患者空輸になりました。第101飛行隊もその名称を第15飛行隊として新たなスタートを切り、初めての任務をLR-119号機が行った(累計は7759回)ことになります。前日も任務に出ており、101飛行隊として緊急患者空輸任務の総計は7758回だと聞いていました。緊張した気象情報や患者の容体の収集等の無線連絡があった後、飛行隊長が最終判断して「Go!」を命じ、医師の到着などを待って速やかに出動します。写真のヘリコプター編隊のCH-47JA、UH-60JAも離島のヘリポート等からの救助活動を幾度と無く行っています。沖縄への配備当初は、V-107AやHU-1Bも救助任務を行ってきました。7758回と言う数字は、38年間の多くの方々の汗と情熱の結果だと思います。第15旅団の新編を祝う式典で部隊を見つめる旅団長の眼差しに固い決意と溢れる情熱を心強く感ずるとともに、熱い心を持った隊員諸官の姿に凛々しさを感じました。国民の一人として、過去の業績への心からの感謝と今後の皆さんの活躍に大いなる期待をしたいと思います。

ス式13型(丙式一型戦闘機)

2010-03-07 17:45:14 | 趣味・航空機
最近大正8年ころから昭和初期に活躍した複葉機の写真が数多く手に入りましたが、なかなか峻別することが出来ずに苦労しています。その中の一枚です。垂直尾翼に「ス式13型」の文字が記載されています。この航空機は、大正初期(8年頃)フランスから4機が購入され、同時に来日した「フランス飛行教育団」によって練習機としても使用されました。翌年の大正9年には96機を輸入し、各航空大隊に配備されています。搭載エンジンは、「イスバノ・スイザV型8気筒」で、環状形式のラジエータが特徴です。大正10年に陸軍の航空機の名称統一が行われ、甲式は「ニューポール製」、乙式は「サムルソン製」、丙式は「スパッド製」、丁式は「ファルマン製」、戌式は「コードロン製」、己式が「アンリオ製」とされ、原型機のメーカーを基準に区別されたと所沢航空発祥記念館のHP(http://homepage3.nifty.com/ki43/heiki3/tokoro/tokoro.html)で説明されています。写真は、昭和初期に満州などで航空操縦士としてご活躍になったT氏のご家族から提供いただいたものです。