Blue Sky Love Sky

空を愛する者として各地を歩いた際の航空機の写真災害時の活用法などを掲載しています。現場の意見などコメントをください。

竜ヶ崎飛行場で

2010-01-20 21:15:40 | 趣味・航空機
Bell412SPとAS365N2の機体が翅を休めていました。関係者に話を伺うと、乗員の訓練中であるとのこと。機種の変更に伴うライセンスの限定変更に伴う訓練が行われているとのことでした。各防災関係機関ともに航空操縦士などの要員の不足が急速に生起しており、要員の養成は喫緊の課題です。大規模災害などに備えて、夜間任務を含む24時間運用の要求は日増しに高くなっており、昼夜の連続任務を可能にするためには、操縦士や整備士など運行に携わる者の要員養成と救助活動を行う救命救急士等の要員の確保が欠かせません。一方では、昭和30年代半ば頃から、国を挙げて大量に養成された民間ヘリコプター操縦士が高齢化し、逐次リタイヤする時期と重なっているために要員不足が大きな問題となっています。嘗て自衛隊に委託して行われた「民間操縦士教育」〔昭和38年~平成元年〕と言われたものがあり、わが国の民間ヘリコプター事業の要員確保に重要な役割を果たした時期がありました。近年は、消防防災などの危機管理に当たる操縦要員でさえ、委託運航を行う各社ごとに人材を確保すべきであるとの指摘もあるようですが、各ヘリコプター使用事業者がそれぞれ別々に少人数を教育して養成するのは、教育の効率性・安全性や経費的にも効率的ではないと感じています。国が設置する専門の教育機関とか教育専門会社に委託して養成することを真剣に検討すべき時期が来ていると感じています。

阪神淡路大震災から15年

2010-01-16 21:43:44 | 趣味・航空機
平成7(1995)年1月17日午前5時46分に発生した阪神・淡路大震災は、未曾有の大災害でした。典型的な都市型地震災害であり、道路・鉄道等の交通網が寸断し、水や食料等の被災地への輸送などは、当初の2週間程度はヘリコプターに頼らざるを得なかったのです。当時わが国のヘリコプターは約2000機運用されていましたが、その1割の200機程度が運行され、官民あげたヘリコプターによる救助活動が行われたのでした。その拠点となったのが写真の八尾空港でありました。
八尾空港に隣接する陸上自衛隊中部方面航空隊や海上保安庁航空隊、大阪府警察航空隊、大阪市消防局航空隊、報道機関など民間のヘリコプターの基地が集中しており、それぞれの機関が活動の拠点としてこの八尾空港を使用したのです。
最初に被害状況を偵察したのは、7時14分に離陸した方面ヘリコプター隊のOH-6でありました。地震発生直後から隊員を非常呼集し、格納庫から暗くて凍てつく駐機場に航空機を搬出し、懐中電灯を頼りに飛行前点検が行われてやっと離陸したのです。まだ薄暗い冬の早朝の偵察飛行であり、離陸後間もなく阪神高速道路が落下しており、神戸方面には煙も見えるとの情報で、被害の甚大さを知ったのでありました。全般状況を収集するため、神戸から引き続き淡路島へ情報収集に向かいましたが、当時雪雲が低く垂れこめており、雪も降っているとの報告でした。高度を下げて洋上を飛行する旨の連絡をしてしばらく無線が途絶え、心配しましたが、後でパイロットに聞くと、雪で視程が悪く、やむを得ず高度を下げて偵察したとのこと。北淡町付近にも大きな被害があることがその時点で分かったのです。間もなく2番機として離陸した第3師団飛行隊のOH-6から、阪神高速道路でけが人が発生していることやバスが転落しそうになっていること等細部の情報が送られてきました。
写真でお分かりでしょうか? 滑走路がXの字に2本(A滑走路:1400m×45mとB滑走路:1200m×30m)ありましたが、災害発生当日から、短いB滑走路を閉鎖して各種ヘリコプターの駐機場所として運用されました。左下側の滑走路周辺に自衛隊のUH-1などが駐機しているのが見えます。右上方は民間のヘリコプター用駐機場とされました。当時の八尾空港は、まさに関係防災機関や民間ヘリコプターの災害救助活動拠点として運用されました。
八尾空港から神戸までは約15分、淡路島まででも約30分程度で、当初の2週間は医薬品や食料・水、生活用品などが、この八尾空港や大阪空港(遠くは小牧空港から)大型ヘリコプターCH-47で神戸の拠点ヘリポートであった王子公園陸上競技場へ運ばれ、そこから各防災機関の中・小型ヘリコプターに分けられて各避難所への戸口輸送が行われ、被災者の生命を守ることができたのでした。(詳細は「ヘリコプター救助活動」(内外出版)を見てください)
阪神淡路大震災以降その教訓をもとに近畿圏の広域防災基地の一つとしてこの八尾空港一帯が整備されつつあることを感慨深く見守っています。

沖縄の人命救助に活躍したLR-1

2010-01-11 10:42:41 | 趣味・航空機
陸上自衛隊は、昭和41年に、三菱重工業(株)が製造した当時の高性能国産機「MU-2」を連絡偵察機として採用し導入を開始しました。「昭和47年5月の沖縄返還に伴い、第一混成群の隷下に第101飛行隊が熊本(高遊原)で編成され、HU-1B×2、V-107×6、LM-1×1、LR-1×1に隊員が分乗して那覇に到着したのが昭和47年11月21日であった」と仙台在住のS氏が回想されています。S氏はLR-1の操縦士として、LR-1での初めての沖縄での人命救助などを担任されています。写真は、当時沖縄の離島からの患者空輸などに活躍したLR-1の3号機です。残念ながら白黒画像になっていますが、機体の上部が白色、側面がオレンジ色の独特の塗装でした。「当初赴任したのは、LR-1担当の航空操縦士は2名だけで、航法装備もADFだけ、DMEや気象レーダーも無く、プリセットタイプのVHF8チャンネルのみでした。南大東島から真夜中に事故も無く空輸できたのは、本当に幸運であったと思っています。」とS氏は回想されています。通信・航法装備が十分でなかった沖縄返還直後に勤務された方々のご苦労が偲ばれます。

白鳥

2010-01-01 20:48:13 | 趣味・航空機
明けましておめでとうございます。今年も各防災関係機関などのヘリコプターの活動や、陸上自衛隊などの創設期からの歴史的画像などを掲載していきたいと考えております。
年初の画像は、霞ヶ浦湖畔でくつろぐ白鳥です。静かな湖面を音もなくゆったり進んでいく姿は、何となく癒されます。そして今年が平穏でありますように願ってこの写真を掲載しました。記事ごとにコメント欄がありますが、そこをクリックするとコメントが記入できますので、新たな情報などありましたら、ご教示ください。