失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

小手指ヶ原

2007年06月02日 | 武蔵野

<所沢市 北野新田>


 国木田独歩の『武蔵野』の冒頭の文のつづきに、「自分は武蔵野の跡の纔に残ている処とは定めてこの古戦場あたりではあるまいかと思て・・・」とあります。
 この古戦場とは、小手指(こてさし)と久米川を指しているのですが、昔の萱はらの武蔵野の跡は、現在の小手指周辺にも、もちろんもうないです。
 国道463号バイパスの「誓詞橋」交差点の南の方に、古戦場跡の碑があって、白旗塚があります。
 
<左:白旗塚。右上:白旗塚遠景。右下:小手指ヶ原古戦場の碑>
 
<白旗塚の下から>

 このあたり、緩い起伏はありますが、比較的平坦で、地形的にはいかにも原という感じがします。白旗塚周辺は、茶畑、桑畑、麦、サトイモ、その他さまざまな畑と雑木林の風景が残っています。

<お茶に桑。北野総合運動場の北。もうすこし広範囲をお見せできないのが残念>

<桐の林がいくつかあった。5月はじめの花の時期に来たらさぞきれいであろう>

<所沢西高校の前の道から、西方向>

<所沢西高校>

 今回の撮影場所は、この下の小手指陸橋(という正式名かどうかは知りません)からの1枚以外は、「小手指町」ではなく、「北野」あるいは「北野新町」です。白旗塚も「北野」です。昔は、このあたり、一帯が「小手指ヶ原」だったようです。
そのあたりの話は、江戸名所図会と、新編武蔵風土記稿の「小手差原」「小手差原古戦場」の説明を引用してみます。

●『江戸名所図会』 天保五・七年(1834・36)
市古夏生 鈴木健一校訂『新訂 江戸名所図会4』筑摩書房 p.348
(引用開始)
小手差原 北野神社より西北の方十三、四町を隔てて、河越・入間川の辺りすべて小手指原と号せり(・・・新井白石先生云く、「小手差原は北野物部天神の社より西北の方六、七里四方の地をいふと。いまは墾田となりて、わずかに七百余石の地となれるといふ」云々)。
(引用おわり)

『図会』には、北野天神の挿絵がありますがまた次の機会に。

●『新編 武蔵風土記稿』 天保元年(1830年)
蘆田伊人校訂・根本誠二補訂『新編 武蔵風土記稿 第八巻』雄山閣 p.152
(引用開始)
小手差(コテサシ)原古戦場 小手差原は武蔵野の内なり、郡中北野村に今小手差明神の社あり、それより近き所誓詞が橋の邊より乾の方に向ひ、入間川村のあたりまで凡そ二里程の間を指て、かの舊跡なりといへり、其接地の陸田は古すべて茫々たる曠野にて、府中のあたりまでつづきたれば其界域今を以ってさだかに辧すべからず、抑小手差と云地名は、ここのみにも限らで、他國にもあり
(引用おわり)


「茫々たる曠野にて、府中のあたりまでつづきたれば」というのが今では想像もつきません。西武池袋線の「小手指駅」と京王線の「府中駅」は直線で結んでざっと15kmくらいあります。

 
<左:小手指駅西の跨線橋から。うすくてわかりにくいかもしれませんが、線路の延長上やや左の山は武甲山のようです。右:国道463号バイパス小手指ヶ原の交差点。小手指ヶ原もとうとう、十数m四方のこんな狭い範囲に限定されてしまった?>
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