失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

堀兼の井

2007年05月19日 | 古井戸

                 <堀兼神社(浅間神社)>

 「枕草子」に「井は ほりかねの井」(百六十一段)とあると聞いて、どうしても行ってみたくなった場所ですが、当「失なわれゆく風景」としましては、このあたり周辺(堀兼、上富、中富、下富、上赤坂、下赤坂あたり)、よくこの風景が残ったものだと、やはり驚きます。まだ広い農地と雑木林の風景が広がっていて写真におさめきれない感じです。

ここは武蔵野探訪者にとって昔から有名な場所で、江戸時代の地誌の記述が簡潔で要を得ている(「必要にして十分」と言いたいところですが、あと私としては、このあたりの地質学的な解説がほしいところです。後日ネット上で探してみます。)ので引用してみます。



●『江戸名所図会』 天保五・七年(1834・36)

市古夏生 鈴木健一校訂『新訂 江戸名所図会4』筑摩書房pp.368-369

<「図会」「武蔵野話」の挿絵と同じ方向から>

 左側の絵の下の方にある井戸の部分をとりだしてみます。

市古夏生 鈴木健一校訂『新訂 江戸名所図会4』筑摩書房pp.368-369



(引用開始)  漢字のあとの( )はふりがな、[ ]内は校訂者注

堀兼の井 河越(かわごえ)の南二里余りを隔てて堀兼村(ほりかねむら)にあり。浅間(せんげん)の宮(みや)の傍らにあるゆゑに、これを浅間堀兼と号せり(この社前は古(いにし)への鎌倉街道にして、上州・信州への往還の行路なり。いまの宮は慶安[1648-52]中、松平豆州(まつだいらずしゅう)候[松平信綱、1596-1662。老中]建立なしたまへり。別当を慈雲庵(じうんあん)と号す。河越高林院(こうりんいん)の持ちなり)。浅間の祠(やしろ)の左に凹(くぼ)かなる地ありて、中に方六尺ばかりに石をもって井桁(いげた)とし、半ば土中に埋(うず)もれたるものあるを、堀兼の井と称せり。傍らに往古(そのかみ)川越秋元(あきもと)候の家士岩田某(いわたそれがし)建つるところの碑あり。高さ五尺余。その文、左のごとし。

この凹形の地、いはゆる堀兼の井の蹟なり。久しうしてつひにそのところを失はんことを恐れ、よって石の井欄を拗中(おうちゅう)に置き、碑を削りてその傍らに建て、併せてもって後監に備ふ。
 里語、掘って水を得難し。ゆゑにしかいふ。兼難に通ず。いまだ知らず、ただ俗に従ふのみ。
 宝永戊子年[1708]三月朔

(引用終り) 市古夏生 鈴木健一校訂『新訂 江戸名所図会4』筑摩書房 p.366から


 名所図会の挿絵では、神社の前の道が大きく曲がった先、中遠景の山の下あたり(左側の絵の上の方)に、四角囲みで「はけ下堀兼」と書かれています。神社前の道は、まっすぐなので、この描画は見開き一枚に全体を収めるための方便だと思いますが、それはともかく、この「はけ」の部分現在でも神社より高くなっています。

<「はけ下堀兼」の方向。パノラマ合成>

<同上写真の中央部付近>



●『武蔵野話』  文化十二年(1815年)
(引用開始)

堀兼の井は堀兼村に在(あり)。其地の鎮守浅間の祠ありて側に埋井(うもれゐ)あり、是を堀兼の井といふ。側に石碑あり。さはあれど往古(いにしへ)の井は今浅間の祠の在所にして井を埋め鎮守と崇(まつり)、其井を埋る為に土を穿(ほり)出せし跡を今堀兼井といふよし、土人(ところのもの)の話なり。祠の前の街道は信濃上野より鎌倉往返の行路にして、是を古の鎌倉道といふ。元和十三年春の比(ころ)、光廣卿の記行に「廿三日は山の端しらぬむさし野にわけいらせ給(たまひ)、草より出る月のみかはあかねさす日もおなじ萱生(かやを)より影のどかに霞(かすみ)てもるる春の詠(ながめ)えもいはず 中略 堀かねの井は右に見てとをる、決定知近水(ちきんすい)心にうかぶべし、けふは仙波大堂にとどまらせ給て 下略」と。かくあれば此地(ところ)なる事うたがひなし。

(引用終り)斉藤鶴磯『武蔵野話』有峰書店 p.56から


 挿絵は、例によって龍谷大学図書館の貴重書データベースのものを紹介しておきます。http://www.afc.ryukoku.ac.jp/kicho/cont_02/pages_02/0206L/02060019.html



●『新編 武蔵風土記稿』 天保元年(1830年)
(引用開始)

堀兼井跡  村の東南浅間塚の邊にあり、圓径四間深さ一丈許の穴なり、近き頃其中に石を以五尺四方の井筒を組、側に寶永五年秋元但馬守喬知が、家人岩田彦助なるものに命じて立たる碑あり、其文もあれど考へと成べきものにあらざれば、略して載せず、按に此井の名は古くは【枕草紙】に井は堀かねの井と見えたり、されど何れの國なることは載せず、ただ【千載集】に藤原俊成卿の歌をのせて、武蔵野の堀かねの井もあるものをうれしや水の近づきにけり、とあるのをみれば當國にて名だたる物なることしらる、かく俊成卿の詠に入しより、後は全く當國の名所と定りて、世々の歌人も其詠多くして徧く人の知る所なれど、其舊跡は詳ならず、今傳ふるは當郡は元よりなり、他の郡にも堀兼の井跡と称する井餘たありて、何れを實跡とも定めがたし、・・・

(引用終り)蘆田伊人校訂・根本誠二補訂『新編 武蔵風土記稿 第八巻』雄山閣 p.263から



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