失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

武蔵野の俤は今纔に入間郡に残れり

2007年05月26日 | 武蔵野

<大井武蔵野、下赤坂、上富の境界あたり。撮影地点は下赤坂>

「「武蔵野の俤(おもかげ)は今纔(わずか)に入間(いるま)郡に残れり」と自分は文政年間に出来た地図で見た事がある。」
と国木田独歩の『武蔵野』ははじまります。
 この文政年間の地図がどんなものなのか、ネットで「文政年間に出来た地図」で検索してみると、
「文学の中の武蔵野の面影」(http://www.h7.dion.ne.jp/~musashi/musashino.html)というサイトに記述がありましたので引用させてもらいます。

(引用開始)
独歩が見たという「文政年間に出来た地図」は現存する。
この地図は、「「武蔵野 平凡」 明治の古典7」( 篠田一士編、学研、1982年)などに掲載されていますので、興味のある方はごらん下さい。
(引用おわり)

 これにしたがって「「武蔵野 平凡」 明治の古典7」( 篠田一士編、学研、1982年)を見てみると、

「武蔵野」冒頭にでてくる文政年間発行の地図「東都図」(部分)。文政八年乙酉上梓、同十三年庚寅改正とある。(国立国会図書館蔵)

という解説文のついた地図がカラーで載っており、独歩が引用した文も読むことができます。
(ただし「文学の中の武蔵野の面影」に指摘があるとおり、地図の書き込みの文言は「武蔵野の跡は今纔に入間郡に残れり」です。)

 ここで言われている、「わずかに残っている武蔵野の風景」は、「更科日記」や、「新古今集」の歌などに描写されている、広漠とした萱原の風景のことです。
地図の書き込みにも、「玉川上水ができて、田畑の開発が行われ、あるいは雑木林に変わってしまい、今は入間郡にわずかに昔をしのぶことができる場所が残っている」といった意味のことが書かれていますし、独歩も、「昔の武蔵野は萱原のはてなき光景を以って絶類の美を鳴らしていたように言い伝えてあるが、今の武蔵野は林である。」と書いています。

 入間郡といっただけでは結構範囲は広いのですが、堀兼の井からさほど遠くないところに現在も「武蔵野」という地名が残っていて(現「ふじみの市大井武蔵野」)、『新編武蔵風土記稿』を見ると、文政年間の地図が言う「武蔵野」はあるいはここのことを言っているのかもしれないと思える記述があります。

(引用開始)
武蔵野   村(引用者注:亀窪村)の西南につづきたる地なり、其の野の廣さは大様東西の徑り十五町、南北八町許にして、南の方上富村に限り、北は當村(引用者注:亀窪村)及び下赤坂村にさかひ、東も當村にて、西は下富村に及べり、此地は當村の百姓正左衛門が家にて預かり申し野銭といへるものも納め、又河越城へ年ごとに薪萱料をも納むといへり、・・・此頃より残りし武蔵野の限りは、その四邊へ松の並木を植て境とせしとて今もしかなり、されど古に比すれば百分の一とも云うべけれど、かかる名高き所のわずかにも存して、今見ることをうるは當國にとりては美事とも云うべければ、そのさまを圖してここにのせぬ

蘆田伊人校訂・根本誠二補訂『新編 武蔵風土記稿 第八巻』雄山閣 p.267
(引用おわり)


 上の引用文と同じページに「武蔵野圖」という挿絵がついています。絵の中心部に、民家や畑・林に取り囲まれて萱原が、描かれ、奥に富士山(右の方に武甲山?)が描かれています。これは是非とも、オリジナルの図を見てみたいものです。
現在、ここの「武蔵野」には、萱原の風景はもうありませんが、雑木林と畑の風景はまだ残っています。秋に富士山を撮りにまた来てみたいです。


<丹沢から奥多摩あたりの山が見える>
コメント
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