江戸名所図会に「恋が窪」という絵があります。
ちくま学芸文庫『新訂 江戸名所図会3』市古夏生・鈴木健一校訂 筑摩書房pp.372-373
今回もこの絵に近い視点を探してみました。
<中央線の南側にある某住宅建物の7階から。中央付近に国分寺市清掃センターの煙突。左端に西国分寺駅のホーム。>
細部を拡大して見てみます。
●熊野神社
<中央やや左に熊野神社の社殿があるはずなのですが。中段の樹林は恋ヶ窪用水(空掘り)の東側>
<右:熊野神社の西側より撮影。都市計画道路建設の整地が進んでいる>
●阿弥陀堂
阿弥陀堂は現在ありませんが、「阿弥陀堂霊園」という墓地として名前を留めています。
「江戸名所図会」本文に「(延享四年[一七四七]、鶴心という僧、この草庵の廃れたるを興す)」(『新訂 江戸名所図会3』市古夏生・鈴木健一校訂 筑摩書房pp.370)とあります。写真の石仏の台座には「延享四 丁卯 年 雲相鶴心行者 十月十五」と刻まれています。
●東福寺
<右:横長の屋根のあたりが東福寺の建物(のはず)>
●恋ヶ窪用水
私は、見落としていましたが、川田壽『近郊散策 江戸名所図会を歩く』東京堂出版をみると、「道沿いの流れは、明暦三年(一六五七)に開かれた恋ヶ窪用水である。」(p141)とあります。
現地の案内板によると、昭和三十年代頃まで用水として使われていたとのことです。
<熊野神社の北側に恋ヶ窪用水(現在は水が流れていません)が残っています。>
<左:橋が描かれているので、確かに水路である。右:一部復活した恋ヶ窪用水>
この復活用水の散策路をたどってゆくと「姿見の池」に出ます。現地案内板には、「姿見の池は、昭和四十年代に埋め立てられましたが、平成十年度、環境庁及び東京都の井戸・湧水復活再生事業補助費を受け、昔の池をイメージして整備しました。」とあります。
<姿見の池>
同じ現地の案内板によると、図会の挿絵には、「姿見の池」らしきものが描かれているとのことなのですが、私には、どう見ても池のようなものが描かれているとは思えませんでした。
ちくま学芸文庫『新訂 江戸名所図会3』市古夏生・鈴木健一校訂 筑摩書房pp.372-373
今回もこの絵に近い視点を探してみました。
<中央線の南側にある某住宅建物の7階から。中央付近に国分寺市清掃センターの煙突。左端に西国分寺駅のホーム。>
細部を拡大して見てみます。
●熊野神社
<中央やや左に熊野神社の社殿があるはずなのですが。中段の樹林は恋ヶ窪用水(空掘り)の東側>
<右:熊野神社の西側より撮影。都市計画道路建設の整地が進んでいる>
●阿弥陀堂
阿弥陀堂は現在ありませんが、「阿弥陀堂霊園」という墓地として名前を留めています。
「江戸名所図会」本文に「(延享四年[一七四七]、鶴心という僧、この草庵の廃れたるを興す)」(『新訂 江戸名所図会3』市古夏生・鈴木健一校訂 筑摩書房pp.370)とあります。写真の石仏の台座には「延享四 丁卯 年 雲相鶴心行者 十月十五」と刻まれています。
●東福寺
<右:横長の屋根のあたりが東福寺の建物(のはず)>
●恋ヶ窪用水
私は、見落としていましたが、川田壽『近郊散策 江戸名所図会を歩く』東京堂出版をみると、「道沿いの流れは、明暦三年(一六五七)に開かれた恋ヶ窪用水である。」(p141)とあります。
現地の案内板によると、昭和三十年代頃まで用水として使われていたとのことです。
<熊野神社の北側に恋ヶ窪用水(現在は水が流れていません)が残っています。>
<左:橋が描かれているので、確かに水路である。右:一部復活した恋ヶ窪用水>
この復活用水の散策路をたどってゆくと「姿見の池」に出ます。現地案内板には、「姿見の池は、昭和四十年代に埋め立てられましたが、平成十年度、環境庁及び東京都の井戸・湧水復活再生事業補助費を受け、昔の池をイメージして整備しました。」とあります。
<姿見の池>
同じ現地の案内板によると、図会の挿絵には、「姿見の池」らしきものが描かれているとのことなのですが、私には、どう見ても池のようなものが描かれているとは思えませんでした。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます