【三菱銀行小樽支店→北海道中央バス第2ビル】 大正11年建築のこの建物は、かって、北のウォ-ル街といわれた地区の中心に位置する。建築当初は、外壁に煉瓦色のタイルが張られていたが、昭和12年に現在の色に変更された。1階正面には、ギリシャ・ロ-マ建築様式を表すように6本の半円柱が並んでおり、この建築を印象づけている。
【北海道拓殖銀行小樽支店→ホテル・ヴィラントオタル】 この建物は、小樽経済絶頂期の大正12年に建設され、三菱、第一各銀行小樽支店と共に北のウォ-ル街の交差点を飾っている。銀行に貸事務所を併設する当時の道内を代表する大ビル建設で、銀行ホ-ルには2階まで吹き抜けで、6本の古典的円柱がカウンタ-に沿って立ち、光を受けた様は圧巻である。初期鉄筋コンクリ-ト造建築の道内主要遺構でもある。
【113銀行小樽支店→小樽浪漫館】 小樽支店の開設は明治26年で、当初の店舗はこの通りのもう少し南寄りにありますが、業務拡大に応じ明治41年に建築されたのがこの建物である。寄棟、瓦屋根で、角地に玄関を設け、上部にギリシャ建築を思わせる飾りを配しているのが特徴。外壁は石張りになっていたが、その後煉瓦タイルを張り現在の姿になっている。
【荒田商会→オルゴ-ル海鳴楼】 昭和10年、荒田商会の本店事務所として建築された。現在は店舗は再利用されているが、内壁の漆喰や、照明器具、窓枠は創建時の形態を伝えている。石造倉庫が軒を連ねていた小樽運河沿いに建ち、背面の旧高橋倉庫や左隣の旧通信電設浜ビルなどと中庭でむすび、歴史的景観のまとまりを創っている。
【通信電設浜ビル→レストラン協和浜ビル】 昭和8年、石造倉庫が軒を連ねていた小樽運河沿いに、モダンな鉄筋コンクリ-トのビルディングとして建ちました。昭和初期の建築が装飾に富んでいたことを知るよい例である。建物の正面デザインは、すべて左右対称になっていて、窓の縦枠はア-チを描き、4階までつながっている。玄関周りは花崗岩で飾り、出入口の欄間は幾何学模様を描いている。玄関の両脇に立つ半円の柱に外灯が組み込まれている。
【島谷倉庫→北のアイスクリ-ム屋さん】 木骨石造の特徴をよく伝える、明治25年に建てられた小さな倉庫。室内側に木で骨組みを造り外壁に石を積む構造である。木と石は「かすがい」でつないでいる。この構造の建物は、小樽市内に約350軒あることが平成4年の調査で確認されている。
【高橋倉庫→オルゴ-ル海鳴楼】 大正12年、大豆を収める倉庫として建てられた。平成元年に改修され、店舗として再生している。前面は運河に面し、背面は出抜小路に接して建ち、周辺の歴史的景観を形成している建物のひとつです。小屋組は梁を二重に架け2本の束を陸梁の中央付近で左右対称に立てるクイ-ンポストトラスと呼ばれる洋風の構造である。
【岩永時計店】 明治29年、時計商・初代岩永新太郎の店舗として建てられた。店員で構成された楽団を持つハイカラな商店だった。平成3年の改修により正面2階のバルコニ-、半円ア-チ扉、手摺などが修理され、ほぼ創建時の姿になった。屋根の装飾、軒の操り型など細部にもデザインが施され、瓦葺き屋根を飾る一対の鯱は商店では珍しい装飾であり、当時の小樽商人の意気込みが感じられる。
【弟113国立銀行小樽支店→花月堂】 明治26年に、小樽支店として建てられたが、業務拡大に応じ明治41年にこの通りの少し北寄りに支店が移されている。その後、木材貿易商の事務所や製茶会社の建物として使用されてきた。平屋建ての比較的小規模な建物であるが、寄棟の瓦屋根に「トンガリ」飾りを付けた和洋折衷の構成で、明治の面影を良く伝えている。軒下に刻まれた分銅模様のレリ-フが113銀行のシンボルである。
【北海雑穀(株)→光と香りの館】 北海雑穀(株)は資本金20万円を以て明治40年7月10日設立して諸雑穀委託販売を商いとして始めた。会社設立と同時に建設された建物規模は正面5間、奥居行4間で、屋根は瓦、外観は軟石、窓に飾り鉄扉、両袖に硤立を立て、和風意匠としては木柱、漆喰壁、2階天井には杉、録杉で天井で床の間を設けている。洋風意匠として2階上げ下げ窓と飾りカ-テンボックス、階段の手摺りなどがあり、意匠の混在が見受けられる。明治の風格と趣が残る建物である。
【久保商店→さかい家】 明治40年、この建物は、小間物雑貨卸を営む久保商店の店舗として建てられた。現在は、和風商店の趣を残しながら喫茶店に再利用されていて、堺町通りの歴史的景観を形成する主要な建物になっている。久保商店時の写真によれば、道路側の下屋は母屋から蔵まで一体に続き、蔵は前後に2棟並んでいて、母屋の1階は店先として解放できる引戸が入っていた。
【木村倉庫→北一ガラス3号館】 明治24年建設の小樽港の繁栄を示す大規模な石造倉庫で、当初は鰊漁場の中継倉庫だった。内部は中央廊下をはさんで2つの倉庫に分けられ、その廊下には港から引き込まれたトロッコレ-ルが今も残されている。昭和58年、内部空間を生かした硝子店舗に再利用され、ほかの石造倉庫の転用を促進させた。
【魁陽亭→海陽亭】 明治初期に開業した料亭で、亭名は創業期の魁陽亭から開陽亭、海陽亭と変わっている。建物は大半が大正時代の増築であるが、2階大広間「明石の間」は、明治29年大火類焼時の再建と推定されている。明治39年11月、日露戦役による樺太国境画定会議後の大宴会がここで開かれるなど日本史の舞台にも登場し、政財界など多くの著名人が訪れている。
【猪俣邸】 メルヘン交差点から南へ登る高台に位置する、明治39年に建てられたこの建物は、小樽に多い実業家邸宅の好例である。外見は純和風の造りだが、玄関左脇に洋風の応接間が設けられている。右手が表座敷で、8畳書院の座敷と2室をつなぐ広縁がめぐらされている。石蔵、石塀、石門に囲まれた敷地に建ち、外形がよく保存されている。珍しい中国風の石門は、建築主の中国旅行のスケッチに基づくものと言われている。