道彦の散歩道

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毎日の事件事故の記録

11/03 売れ筋最前線⑮

2014年11月03日 | 日記

【牛とろフレーク】

加熱していない牛肉を細かな粒にして凍らせた「牛とろフレーク」。
温かいご飯にふりかけて、ネギなど薬味をのせ、醤油をたらすと立派な丼物の出来上がり。牛肉特有の臭みやくせはない。ご飯と絡んで溶けた脂身のこくと、肉本来の旨味が口に広がる。

「十勝スロウフード」が製造する「牛トロフレーク」は現在、全国約200の飲食店や大学の食堂で、ご飯にのせた「牛とろ丼」として提供されている。2011年に起きたユッケ集団食中毒事件のあおりで売上が激減したものの、製法を一部変えた危機を乗り切り、いま、ブームが再燃している。

「牛とろフレーク」を世に送り出したのは、肉牛育成牧場のボーンフリーファームだ。同ファームの斉藤代表は酪農学園大学を卒業後の1971年、清水町で酪農業に就いた。しかし、牛乳の消費低迷を受けた生産調整で生乳の廃棄ほ余儀なくされた80年ごろ「生産意欲が薄れたしまった」。それでも牛に関わる仕事がしたいと考え、80年代後半に肉牛生産に乗り出した。

飼育では牛の健康を第一に重んじた。飼料は一般の牧場で多く与えられている穀物ではなく自前で育てた牧草を中心に用い、放牧も積極的に行った。
ただ、こうした育て方は肉の味を良くする一方で、赤身が黒ずみ脂身が溶けやすくなるといい、市場での流通には不向きだった。

生産した肉を売りあぐねていた折り、斉藤代表が自宅の冷凍庫で凍らせていた自社産挽肉をタネに手巻き寿司を作ってみたところ「これがとても美味しかった」。

すぐに帯広市内の寿司店と共同で試作を重ね、91年、「牛とろフレーク」の前身である、生の挽肉を固めて凍らせた商品は完成した。当初は寿司店で軍艦巻きや手巻き寿司として提供されたという。

「凍った生肉」という珍しさも手伝って販路は広がる。92年には帯広畜産大学が生協食堂の食材に採用して「牛とろ丼」をメニューに載せた。学生の間でたちまち評判となり、北大など他大学の学食にも広がっていく。現在のような粒状になったのは99年だ。03年にはボーンフリーファームで働いていた藤田さんが、同社の肉を原料に「牛とろフレーク」など肉製品を製造・販売する「十勝スロウフード」を設立した。

順調に売上を伸ばしていた「牛とろフレーク」にはしかし、思わぬ逆風が待ち構えていた。
11年4月、富山県などで展開する焼肉チェーン店で起きた集団食中毒事件だ。
牛の生肉ユッケなどを食べた5人が亡くなった。十勝スロウフードの藤田社長は「事件の1、2ヵ月後には注文の電話がぱったり鳴らなくなった」と振り返る。

生肉のイメージはみるみる悪化し、全国の飲食店で生肉の販売自粛が広がる。11年10月には生食用牛肉の処理方法を厳しく定めた国の新規準が施行され、生肉を冷凍して作っていた「牛とろフレーク」も、そのままでは提供出来なくなった。

そこで十勝スロウフードが着目したのは、生ハムや生サラミが含まれる「非加熱食肉製品」の製法だった。この製法であれば、食塩を用いて一定期間熟成させるなどしなければならないものの、肉に熱を加える必要はなく、従来とほぼ変わらない風味・食感を実現できたのだ。

製法変更で以前は4~5日だった製造期間が2週間近くまで延び、生産コストは上昇した。また、ユッケ事件後の12年、十勝スロウフードの売上高は事件前の半分まで激減し、販売先の飲食店も3割少ない約80店まで減ってしまった。

潮目が変わったのは昨年冬ごろから。ユッケ事件の影響が次第に薄れ、「牛とろフレーク」がマスコミで紹介される度に大量の注文が舞い込むようになった。全国の百貨店で開かれる北海道物産展では、「牛とろフレーク」を求める長い行列が出来ることも多い。

現在は牛肉の生産が追い付いていない状態だと良い、個人向け通信販売は注文から1ヵ月待ちだ。新規の業者向け販売はやむなく断っている。それでも今年の売上高は前年より2割近く多い2億2千万円と過去最高を見込む。

「ユッケ事件以来、生肉の提供される機会が減り、“食べたい”と思う消費者の気持ちは抑圧されてきた。その気持がせきを切って牛とろフレークに押し寄せているのでしょう」と藤田社長。

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11/02 売れ筋最前線⑭

2014年11月02日 | 日記

【マロンコロン】

“あまとう ルル、マロンコロンーー”。
小樽の繁華街を歩くと、どこからともなく街頭放送から女性の歌声が流れてくる。昔から市民におなじみの焼き菓子「マロンコロン」は、全国区の人気商品になっても職人による手作りを貫く、こだわりの逸品だ。

「あまとう」の創業は1929年。3代目の柴田明社長の祖父で、酒が苦手だった故・昇さんが「大好きな甘いものをいつでも食べさせられる店をつくりたい」と一念発起し、勤めていた小樽市内のラムネ工場を辞めて始めた。
当時は小樽名物の菓子「ぱんじゅう」からすしまで幅広く扱う食堂で、店名は漢字で「甘薹」だった。
終戦から間もない50年代、店舗の2階を喫茶店、1階をケーキなどの売店に改築。業態を変えるのを機に「看板商品を生み出そう」と、柴田社長の父の故・治郎さんが全国の銘菓を扱う店を訪ね歩いた結果、クッキーを2枚重ねにする菓子はたくさんあっても、3枚重ねはないと気付いた。
そこでクッキーとクッキーの間にアンズのジャムを塗り、側面をチョコレートでコーティングした3枚重ねの菓子を60年に開発した。現在よりも栗のようにコロンとした形をした「マロンコロン」の誕生だった。

商品化への道は平坦ではなかった。鉄板で焼く直径7センチの円形のクッキーは、どうしても表面が丸みをおびる。2枚重ねは平らな底面を合わせられるが、3枚重ねは、真ん中のクッキーの両面を平らにする必要がある。試行錯誤の結果、今も職人が小さなナイフで1枚1枚、表面を削って平らにしている。

素材も当時から、国産の最上級の無塩発酵バターを使っている。担当者は「昔から栄えていた小樽の街の職人の心意気というか、中途半端なものは作りたくないという気持ちが、うちの伝統」と胸を張る。

時代に合わせて、「マロンコロン」は少しずつ装いを変えている。
誕生した高度成長期は甘い菓子がもてはやされたが、次第に健康志向が高まってきた80年代半ばには、アーモンドやカカオなど生地の味は保ちながら、ジャムを入れるのをやめて甘さとカロリーを抑えた。

80年代後半、バブル景気と同時に「マロンコロン」も飛ぶように売れた。1日に千個程度の生産が限界だったため、機械化して大量生産する構想が持ち上がった。業者にレシピを全て伝え、試作品の機械で作ってみたが、味や食感、香りと何から何までが手作りと異なる出来栄えだった。

担当者は「計画はすぐに白紙に。生地をこねる際の微妙な空気の入れ具合など、職人技を機械で忠実に再現するのは無理なんだとあらためて実感した」と振り返る。

このころ小樽は運河埋立の是非を問う論争を経た後で、急速に観光地化していた。「マロンコロン」の名前も次第に全国に広まり、各地の百貨店などで開かれる北海道物産展への出展要請が増えていく。

2007年には市内に「マロンコロン」専用の工場を建設し、今では手作りを続けながら1日に5千個の生産が可能に。07年以降、札幌に進出する一方、従来の4種類の味に加え、ジャム入りの復刻版やイチゴなど新味の導入も積極的に行っている。

「マロンコロン」の売上は13年11月期に、過去最多の年間172万3500個を記録した。最近では「3枚重ねはボリュームがありすぎる」という年配の顧客からの声を受け、今年9月5日に売り出した2枚重ねの紅茶味が好評だ。

「3枚重ねだけに拘り続けたら、お客さんは離れてしまう。臨機応変に、小樽をはじめ高齢化社会の現状を正面から受け止めながら、マロンコロンを進化させていきたい」と担当者。

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11/01 売れ筋最前線⑬

2014年11月01日 | 日記

【じゃがポックル】

サクッとした軽い歯応えの後に、ジャガイモの旨味とシンプルな塩味が口の中に広がる。2003年発売され、北海道土産として人気の「じゃがポックル」。カルビー千歳工場だけで造られ、販売も道内のほか空港免税店などに限られる。
主力品で864円と決して安くないものの、売れ行きは好調だ。カルビーは商品別の年間売上高を明らかにしていないが、「じゃがポックル」は既に数十億円に達しているとみれ、看板の一つに育った。

カルビーは元々、ポテトチップスや「じゃがりこ」といった「比較的安価でどこでも手に入るスナック菓子」が得意分野。畑違いの土産市場への参入は一筋縄ではいかなかった。北海道支店新規販売課長の長浜さんは「石にかじりついてでもやりぬこうと思った」と振り返る。

1990年代後半から生産体制の見直しを全国で進めていたカルビーは00年、千歳工場の主力だった東北向けのポテトチップスの生産を他工場に移す案を固めた。
「このままでは千歳工場の雇用を守れない。新製品を生み出さなくては」。当時、北海道地区の新規事業開拓を担当していた長浜さんの危機感は強かった。

目を付けたのが土産物市場だった。洋菓子系甘い品が多い北海道土産の中で、塩味は目新しい。土産店が並ぶ新千歳空港まで工場から約7キロと近い地の利もある。
とはいえ普通のスナックは土産に向かない。ちょうどその頃、上司から耳打ちされた。「創業者の松尾孝・名誉会長が“じゃがりこは堅すぎる
”と指摘し、新たな商品を作らせようとしている」ーー。

長浜さんはすぐ、東京にある会長直轄の研究所を訪ね、そこで差し出された開発中の試作品に驚いた。
ジャガイモを皮をむかずに切り、キツネ色に揚げてある。堅すぎず軟らかすぎず、絶妙な食感。「こんな旨いものが作れるのか」。早速、千歳工場で製品化することを社内で働きかけ、02年9月、「じゃがポックル」の前身「ピュアじゃが」の発売にこぎつけた。
ターゲットは「旅行好きの20~30代の女性」。デザインを工夫し、外箱にケーキの箱のような持ち手をつけた。

ところが、この工夫があだとなった。持ち手を付けたせいで外箱が丸みを帯びてしまい重ね置きが出来ず、土産店で店頭に高く積んでもらえない。カバンに入れにくいせいか、空港のゴミ箱に外箱だけが捨てられているとも聞いた。

結局、カルビーは3ヵ月ほどで商品の大幅変更を決断する。新商品名は「大地のかけら」ど、いくつもの案の中から絞り込んだ。決めてとなったのは、アイヌ語のコロポックルから連想する北海道らしさと、語感の良さだ。外箱は4センチ弱の薄型に切り替え、中身も従来の40グラム4袋入りから、20グラム8袋入り(現在の主力は18グラム10袋入り)に小分けにした。ようやく「じゃがポックル」が産声を上げたのは、03年6月だった。

狙いは当たり、人気は尻上がりに高まる。現在の生産能力は当初の約40倍で、千歳工場全体の4割を占めるまでになった。土産店運営の全日空商事が今年初めて発表したゴールデンウイーク期間中の土産売上ランキングによると、「じゃがポックル」は全国73カ所の同社系列店で、計約2万4千個を売り一位に輝いた。同社は「アジア人観光客にも人気が広がっている」と分析する。

選ばれる理由は何か。長浜さんは「客の声に耳を傾け続けたから」だと思う。寄せられた声を基に、塩分は当初に比べ2割減らし、塩の粒もきめ細かくした。食感も当初より軟らかい。こうして磨いた品質を維持しようと、仕上がりにムラの出やすい大型製造設備も使わずにきた。
工場長は「コスト高でも小型機械を使い続けている。品質が落ちては意味がない」と話す。

カルビーは12年前、ピュアじゃがの発売に合わせ、「ポテトファーム」という新ブランドをつくった。
「安価なスナック菓子」というイメージを払拭するため、社名をあえて外す賭けだった。結果は吉と出て知名度は上がり、有色ジャガイモを使った姉妹品「じゃがピリカ」や、乾燥スープ「ほっとポテト」など商品も増えている。

ブランド管理を担当する遠藤さんは「道産食材をふんだんに使って新商品を送り出したい」と力を込める。
目指すは「北海道を代表するお土産ブランド」。第二、第三のじゃがポックルを生み出すため、千歳工場の挑戦は続く。

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10/31 売れ筋最前線⑫

2014年10月31日 | 日記

【リボンナポリン】

ボトルの中身は、暖かみのあるオレンジ色。キャップをねじると、シュワッと強めの炭酸がはじける。ごくりと飲み込むと、柑橘系の爽やかな味わいが喉に広がる。同時に体の底から、懐かしさもこみ上げてきた。

発売から今年で103年になる「リボンナポリン」。ポッカサッポロフード&ビバレッジが、道内だけで製造・販売する売れ筋商品だ。「なじみがありすぎて、逆に道内限定だと知らない人も多い」という。

40代以上の道民なら、プラスチックケースに入った瓶入りナポリンを思い出す人は少なくないだろう。まだペットボトルが普及していない時代。酒屋さんが各家庭を回り、酒と一緒にナポリンを配達していたものだ。

「ナポリン」は1911年、サッポロビールの前身、「大日本麦酒」が売り出した。その2年前には無色の炭酸飲料「シトロン」が登場。ともに、ビールの製造過程で発生するガスの有効活用を目的にした“副産物”だった。

今は無果汁だが、発売当初の「ナポリン」は、真っ赤な果肉と香りの良さが特長のブラッドオレンジの果汁を使っていた。原産地がイタリア地中海地域のため、爽やかなイメージがあるイタリアの港町・ナポリにちなんで名付けたという。

そのころは無色透明の飲料水が主流で、オレンジ色は斬新そのもの。当時の状況を記した「大日本麦酒概覧」には、「オレンジ色の液汁には純良なる糖分と蒸留水を混じ、炭酸瓦斯ほ飽和したるものにして、最も進歩せる文明的飲料なり」とつづられている。

実は、戦時中に飲料水の製造・販売が中断されるまで、「ナポリン」は全国販売されていた。とりわけ北海道は戦前から売上が好調で、戦後になって特に復活の要望が強かった道内に限定する形で54年に再発売され、現在に至っている。

なぜ北海道で「ナポリン」を望む声が多かったのか。その秘密は、飲料水の中で最も強い部類の甘味と、炭酸の強さにあるという。

販売元の北海道支社の本沢マネージャーは、甘い物好きとされる道民の嗜好と、乾燥した土地柄に強めの炭酸が合ったことに加え「暖かみのある色合いが、寒い北海道の人たちに愛されたのでは」と分析する。

日本上陸ととも飲料市場を席巻した「コカコーラ」の波が北海道に届く前に、「ナポリン」は道民の人気をさらった。
ただ、千種類の新商品を出しても三つしか生き残らない「千三つ」の言い回しがあるほど、飲料業界は近年、経営環境が厳しい。「ナポリン」も、この10年ほど苦戦を強いられている。

とはいえ、今年は反転攻撃の筋目になりそうだ。「シトロン」や「ナポリン」の発売当時、和装の女性まで髪に飾るほど流行していたリボンを、ほどなく商品名に冠した。その「リボンブランド」創設から今年で100周年。「さらに100年続くブランド」を合言葉に、商標の大胆な再活用を図る。

第一弾として4月14日、「ナポリン」と「シトロン」のラベルを、72年から2003年まで使われた、瓶を横にしたデザインに一新する。子供時代に「ナポリン」を飲んでいた30~40代への抜群の知名度を生かし、懐かしさを前面に打ち出すことで、その両親と子供の親子3代で飲んでもらう作戦だ。

さらに使用する砂糖を道産ビート100%に切り替え、地元企業との共同企画も展開する。製麺会社の「菊水」とともに、“リボンちゃん風味”の汁を使った「リボンちゃん冷やしラーメン」も4月に発売し、飲料水の枠組みを越えて「リボンブランド」を売り込む。

「ナポリンは北海道の人たちに育ててもらった商品なので、その恩返しをしたい」。11年にスタートした道内自治体の「ゆるキャラ」をラベルに掲載する事業や、大きな赤いリボンを髪に結んだキャラクター「リボンちゃん」が、地域のイベントに参加して盛り上げるキャラバンにも引き続き力を入れる。

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【コアップガラナ】

「コアップガラナ」は、1960年、ガラナを原材料に誕生した清涼飲料。

ブラジル大使館の指導のもと、全国清涼飲料協同組合連合会(現在では、「日本コアップ(株)」として独立)が、「コアップガラナ」を統一商標とし、全国の中小飲料水製造業者が日本人の味覚に合うよう多少のリメイクを加え、炭酸飲料として製造販売したのが第一号。
コカコーラ社が全国にボトラー網を構築している頃であり、コカコーラに対抗できる清涼飲料ということでガラナに白羽の矢が立ったといほれている。

ほとんどの地域では、「コアップガラナ」は定着しなかったが、コカコーラのボトラー設立が他の地域より遅れた北海道では定着したとされる。以来現在に至るまで特に北海道では地サイダーとして特産品的飲料となるほど受け入れられている。

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10/30 売れ筋最前線⑪

2014年10月30日 | 日記

【ラーメンサラダ】

「冷たくて、サラダ感覚で食べられて最高。夏はこれで乾杯だね」。7月中旬の蒸し暑い夕方、札幌グランドホテル別館一階のビアホール「ビッグジョッキ」。
大学時代の仲間たちと食事を囲んだ札幌市内の自営業男性は上機嫌だった。サッパリドレッシングが絡んだ「ラーメンサラダ」で、ビールがグイグイ進む。

今や居酒屋などで人気の「ラーメンサラダ」。発売から30年目のビッグジョッキでは、多い日は約50食の注文がある。これほどの“長寿メニュー”は他にない。料理漫画「クッキングパパ」の作者で、かって「ラーメンサラダ」を題材に取り上げた作者は「庶民的で作りやすく、色々な味付けも出来る。日本人は麺が大好き、誰にでも受け入れられる一品」とその魅力を語る。

1985年4月、札幌グランドホテルは別館を新築し、千人収容できる宴会場やレストランとともに「ビックジョッキ」を開業した。真夏のかき入れ時のある日、店の初代調理長だった佐藤保さんは、ホテルの企画担当者に「札幌の名士を招待したが、何か旨いものはないか」と相談された。

天井が高く開放感のある店構えと安さが人気を呼び、客が連日行列をつくるど忙しさは頂点に達していた。
冷蔵庫の中のラーメンと野菜を、ホテルの喫茶店のドレッシングと、館内の洋食で使っていたフレンチドレッシングであえたところ、まろやかな風味に仕上がった。
「評判良かったよ」と企画担当者は喜んだ。すでに引退した佐藤さんは「店がごった返していて考える間もなく、ひらめきだった。ただ、人がやっていないことをやるのが好きだったね」と振り返る。

店のメニューに加えると「飛ぶように売れた」。会社帰りのサラリーマンらで賑わい、「ビッグジョッキのラーメンサラダ」は口コミで浸透していった。

佐藤さんは札幌の高校を卒業後、64年に札幌グランドホテルに入社し、洋食のコックとして腕を磨いた。「料理はショーだ。食べた時にあっという驚きがないとつまらない」が持論。型破りなスタイルに「おまえの料理は邪道だ。洋食じゃない」と同僚に揶揄されたことも。

「ラーメンサラダ」は刺身を盛る舟形の器で舟盛りにしたのも斬新だった。だが、実は余分な水分がスノコの下に落ちる仕掛けてで、べちゃべちゃせず最後まで食べれるようにした配慮した演出だった。

具材はレタス、ニンジン、紫キャベツをトッピングし、プチトマトと茹でたエビ、バーナ貝を散らした。セロリとキュウリのピクルスで程良い酸味も加わった。価格は、一皿千円。食材は発売以来ほとんど変わらない。当時は中堅のコックで、現在は9代目総料理長として伝統の味を守り続ける小泉さんは「うまくいいとこ取りをして出来上がったこのラーメンサラダ。こまでの名物料理になるとは思わなかった」と話す。

2000年代に入るとB級グルメブームに乗って居酒屋が定番メニューに採用し、道内で急速に広まった。大手コンビニのローソンは05年、北海道限定商品として発売した。元祖の札幌グランドホテル監修の商品のほか、十勝管内中札内村の大豆(枝豆)や千歳の豚肉など道産食材を積極的に活用、具材やドレッシングの味もアレンジし、これまでに48種類を販売した。

今年は、「中華ドレッシング(棒々鶏)」など品揃えを2品に拡充した。購買層の中心は20~30代の女性で、道内店舗の売り上げは6月だけで計4万5千個、1500万円を超え、サラダ商品の中核に育った。
北海道ローソン支社は「つるっした食感と、のど越しの良さに拘って改良を重ねている。ヘルシーで値頃感もあるところが支持されている」と分析する。

テレビの情報番組やレシピ本などに取り上げられ、その名は全国に広がった。北海道ローソン支社は「地域商品でこれほどのロングセラーはない。地元の製麺業者と協力して品質を高めれば、まだまだレベルアップできる」と意気込んでいる。

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10/29 売れ筋最前線⑩

2014年10月29日 | 日記

【ボルト人形・ボルタ】

ボルトにねじ、ナットなどをはんだ付けしたベルト人形「ボルタ」。身長約5センチ。楽器やスポーツに興じる姿など愛嬌のあるポーズを取り、その種類は100を超える。本格販売から8年、累計の販売総数は約20万個。室蘭を代表するお土産としていまや全国でも注目されるようになった。

目新しさや可愛さだけで売れ続けているわけではない。「鉄の街」の市民の思い、綿密な戦略、技術の結晶が「ボルタ」なのだ。

「ボルタ」の生誕地は「鉄の街」室蘭を代表する事業所、日鉄住金室蘭製鉄所のお膝元の輪西地区。鉄冷えの影響もあり、2000年代に入ると人口が最盛期の4分の1の5千人まで減少。
危機感を覚えた輪西商店街の若手経営者たちが活性化へ立ち上がった。
その核に据えたのは、重厚長大の象徴であり、室蘭を長く支えてきた「鉄」だった。
ところが、市民にとって「鉄」は“近くて遠い存在”。
「ボルタ」を製作するNPO法人テツプロ理事長で、輪西商店街で書店を経営する福沢尚志さんは「地元にいながら、鉄とどう関わっていいのか解らなかった」と振り返る。
そこで鉄と人がより身近な関係になることに
焦点を当てようと、試行錯誤が始まった。

04年、商店街のほか鉄鋼マン、学生らが集まり、NPO法人の前身となる「てつのまちぷろじぇくと」(略称テツプロ)が発足。鉄に親しむイベント「アイアンフェスタ」を初開催した。
翌05年の2回目のフェスタで人気を集めたのが、体験溶接で製作した「ボルト人形」人形。これが「ボルタ」の原型となった。

「ボルト人形」自体は昔から世界中にあり、日本にも同様の人形を作る工房もある。「テツプロ」は既存の人形を参考にしつつ、コンセプトとストーリー性で独自性を打ち出すことにした。

室蘭工大のくらし環境系領域建築ユニットの真境名講師が自らのゼミの学生と一緒にデザインを担当。
まず、さまざまなポーズを取る男の子「ボルタ」の人物像を「10代後半」、「ドジで飽きっぽい」、「しかし音楽のセンスは人並み以上」、「運動神経もいい」と明確にした。

続いて、性格に沿って100種類のポーズを考案。楽器、スポーツのほか料理する、土下座する、女性に告白する・・・・・。どのポーズにも物語があり、ホーズごとに趣旨や背景の説明文を付けた。
例えば「ペットに挑戦」には、「『高い音が出せるトランペットはモテる』 ボルタは密かにトランペットの練習を始めるがほっぺたがすぐ痛くなるので3日で止めてしまった」。考えたのは20歳前後の学生。若い感性が実感の伴う人物像の設定にした。

販売戦略も練った。100種類のうち最初に20種類を発売し、以降、毎月5個すつリリースする。「種類が多い方が、好きなポーズを見つけてもらえる確率が上がる。新商品を毎月出し続ければ、継続的にメディアに取り上げられる」と真境名さん。
狙い通り、06年に20種類を手始めに発売すると数日で完売し、品切れが続く大ヒットになった。

小さくて土産として持ち運び易いことに加え、種類を豊富にすることで「全部集めたい」というコレクターの心理もくすぐった。

当初にデザインを担当した学生たちが08年に卒業し、後を引き継いだのは、前年に室蘭にUターンした工業デザイナー、須藤大介さん。

「正直、最初に何で売れているのか分からなかった」。説明文を読み込むうちに「ボルタ」の世界観を理解し、継承しつつガールフレンドのナッティ」を登場させるなど、新デザインを生み出している。
質の高い製品を継続的に販売できるのは、ボルタ工房の有償ボランティアの技術も大きい。

30~70歳代の男女13人をまとめるのは、工場長の星野義一。かって新日鉄室蘭製鉄所で工場内の機械設備製作に従事し、定年退職後も「ボルタ」誕生から関わっている鉄鋼マンだ。他は実技試験を通過した歯科技工士や主婦。作業に使う補助工具を自作する人もいるほど、職人としての技も意識も向上している。

100種類を発売した後も、ナッティとのセット、ファンの声に応えてポーズを考案したシリーズなど新製品開発に余念かがない。最近では企業の依頼が増え、地元の鉄工所向けに「旋盤をするボルタ」も作った。

「地位性に合致しているという思いは間違っていなかった」と塩沢さん。「鉄の街」としての誇りがある限り、「ボルタ」の物語は今後も続くだろう。

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10/28 売れ筋最前線⑨

2014年10月28日 | 日記

【福よしのもつ串】

「取り合えずビールともつ串30本ちょうだい」。常連客のグループが威勢良く注文する。他のテーブルからも10本単位で注文が相次ぐ。庶民の味として美唄で親しまれてきた、福よし札幌中央店の光景である。

美唄の焼き鳥と言えば、もつ串を指す。といっても串に刺すのは臓物だけではない。福よしでは、1本の串に先端から準に、もも肉、タマネギ、もつ、タマネギ、鳥皮が並ぶ。
もつもレバー、砂肝、ハツ、キンカン、の4種類。タレを使わず、塩もコショウで少し濃いめに味付けする。
城野社長は「鳥1羽を美味しく食べ尽くす。美唄のもつ串は焼き鳥の集大成」と胸を張る。

美唄焼き鳥の歴史は戦後まもなくまで遡る。食べ物が乏しかった1950年、最初に美唄に店を開いた三船福太郎(故人)は「美唄焼き鳥の父」と呼ばれる。卵を産なくなった鶏を仕入れ、もつを使って安価な焼き鳥を提供したという。

産炭地として栄えた美唄で、もつ串は炭鉱マンの胃袋を満たした。正月や誕生日、稲刈りの最終日など祝いの席では、三船さんの店などで買ったもつ串が食卓に上がった。

三船さんの焼き鳥店「福よし」の暖簾を三船さんの息子から譲り受けたのが城野社長の両親で、城野社長は三船さんから数えて4代目。だが、若いころ店を継ぐ気はまったくなかった。

幼少期から育った美唄を離れ、東京の大学進学後、西武百貨店に入社した。流通の世界に入り、自分のデパートをつくるのが夢だった」と振り返る。

ほどなくバブル崩壊の直撃を受けた。業界の先行きに陰りが見え、10年ほど勤めた後、退社した。2003年に札幌で起業したが「これが大失敗」。4千万円近い借金を抱え、事業の見直しを迫られた。

藁にもすがる思い出美唄に戻った。両親の下で、もつの下処理から串の刺し方、焼き方に至るまで、もつ串のすべてを学んだ。04年両親から資金を借り、なじみ客の多い岩見沢への出店にこぎ着けた。

「B級グルメ」ブームが始まった頃だった。05年には札幌進出も果たし「全国的に有名になった各地のご当地料理のように、美唄焼き鳥をもっと広めたい」と思うようになった。

多店舗展開で心配されるのが味のばらつきだが、美唄に本社工場を構え、もつ串を焼く直前の段階まで素材を仕上げることに成功。10年には道外1号店となる東京・銀座店をオープンさせた。美唄に1店だけだった福よしは、わずか10年で16店にまで増えた。

美唄市内でもつ串を出す店は老舗の「たつみ」など十数軒ある。経営者の多くは三船さんの孫弟子や、さらにその弟子など、ルーツをたどれば三船さんにつながるが、味や焼き方は店によって異なる。

福よしのもつ串も随所にこだわりがある。肉汁の多いもも肉を取るため、生後1年程度の鶏を使う。もつは焼くまえに茹でるのが一般的だが、弾力を残すため湯通しする程度にとどめる。
店では備長炭など3種の炭を混合して強火で一気に焼き上げ、肉の旨味を閉じ込める。
一方で塩は、スーパーでも売られているような普通の塩を使う。「色々試してみたが、庶民の味に一番合っていた」という。

多い日で1日6千~7千を美唄の工場から各店舗に出荷する。吹雪などの悪天候下、東京行きの旅客機が飛んでも、貨物機が欠航することがある。そんな時は城野社長や社員が、もつ串を詰めた箱を手荷物で運ぶ。営業時間に間に合えば、事情を知った客に拍手で迎えられる。

味だけでなく、そうした姿勢も客の心をつかんできた。銀座店の売り上げは開店から4年間で4倍に増えた。「道外での知名度はまだ低いが、着実にファンは増えている。パック詰めのもつ串など物販にも力を入れ、美唄の食文化を発信していきたい」。城野社長の挑戦は続く。

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10/27 売れ筋最前線⑧

2014年10月27日 | 日記

【札幌おかきOh!焼きとうきび】

札幌・大通公園の夏の風物詩といえば、ワゴン販売のトウキビを思い浮かべる人が多いだろう。もう何年も食べていないあなたも、「札幌おかきOh!やきとうきび」を一口かじってみれば、あの甘く香ばしい味が記憶の底から呼び覚まされるに違いない。

空港や駅などの道内の土産物店では、老舗の商品が売上上位を占める菓子業界で、「焼きとうきび」はその一角に風穴をあけた。土産物の陳列棚をのぞくと、焦げ目のついた黄色い手描きのトウキビが白いパッケージに映え、北の大空の大空をイメージした鮮やかな黄色が目に飛び込んでくる。

商品開発を手掛けたのは道内外でレストランやカレー専門店を経営する「YOSHIMI」の勝山社長兼オーナーシェフだ。
自社のカレーのレトルトパックを売り出したのを機に、周囲の提案を受け、2009年に「札幌カリーせんべい カリカリまだある?」を商品化。スパイスの効いた味が受け、これが爆発的にヒット。カレー粉末で味をつけるだけでなく、せんべいをカレールーそのものにつけ込む製法は当時の菓子業界では珍しかったという。

「料理人だから100点の味でも満足できない。さらに美味しくするにはどうすればいいか。それだけを追求した」。菓子業界の常識にとらわれない勝山さんが、再び世に送り出したのが「焼きとうきび」だった。味と食感への拘りはさらに進化した。

まず、おかきの基になる餅米にコーン生地を練り込み、表面にコーンパウダーをまぶす。油で揚げ、さらにもう一度コーンと醤油味のパウダーをつける。食べ飽きない工夫として、おかきとは違う歯応えのドライコーンも入れた。子供のおやつに良し、ビールのつまみに良し、万人向けのお菓子が生まれた。

パッケージにも自らの思いを反映させた。周りから「トウキビの絵に焦げ目を入れると、買い物客が手に取らない」と反対されても最後まで譲らなかった。「大道公園のワゴン販売を思い出してください。醤油で焦げたトウキビが何本も並んでいる。あの感じを再現したかった」と。

11年の発売開始から順調に売上が伸び、昨年は小袋で約620万個、販売額6億4千万円という同社一番の売れ筋となった。北海道を何度も訪れる観光客や、道内出張の多い首都圏のビジネスマンの土産物選びの目利きが、職場や近所に配るだけでなく、自分用に買って帰ったことも売上を伸ばした。

実は「カリカリ」も「焼きとうきび」も、勝山さんがアイデアを出し、試食を重ねて商品化にこぎつけたものの、自ら工場を持っていない。製造は全て大手菓子メーカーなど他社工場に委託。「自社工場を持てば今よりも儲かるだろうが、私はあくまで料理人。味をどうするかを考え、他のことにあまり時間を割きたくない」のが理由。

勝山さんの味覚の才が知られると、商品無開発の依頼は一気に増えた。プロデュースしたのはポテトチップスの「ジャガーJ」、道産のトウキビを使ったスイーツの「コレット」などと今や20種類40商品に上がる。

美唄市出身の勝山さんは、親の仕事で移り住んだ北見市で高校受験に失敗。失意をバネに働きに出た札幌で菓子店などに勤めた。1983年に料理人を雇ってレストラン事業に乗り出すが、店舗を広げすぎて経営難なーに。91年から39歳で初めて厨房に立ち、自らの腕と才覚で再びレストラン経営を軌道に乗せた。

「多難な道のりだったとしみじみ思う。還暦近くになって菓子作りの話が舞い込んできた時、札幌に出てからの苦楽の人生を見守ってくれた大道公園の風景がまぶたに浮かんだ。甘くほろ苦い焼きとうきびの味に、自らの来く方を重ねてみたいと心に決めた。

「焼きとうきび」はさらなる飛躍への通過点という。石屋製菓の白い恋人、六花亭のマルセイバターサンド、ロイズコンフェクトの生チョコレート-。土産物菓子の道内三大ブランドについて「売る側も頼りすぎると他の菓子メーカーが育たなくなる」とみる。
情熱はいまだ尽きない。「北海道を食と観光で栄える地域にしなければいけない。そのためにも新境地を開く先頭に立ちたい」。そんな思いを胸に、商品開発に日々取り組んでいる。

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10/25 売れ筋最前線⑦

2014年10月25日 | 日記

【幼稚園バス】

犬の顔と足が立体的に描かれた送迎バスから、園児らが元気良く降りてくる。北広島市内の広島わかば幼稚園。園長は「初めて見る子供は、特に興味津々です。体験入園では触ったり、乗ったりして喜んでいます」と語り、表情を緩める。

「光源舎オートプロダクツ」自動車メーカーからマイクロバスを仕入れ、犬や猫、蒸気機関車などの形に改造する技術を開発した。この「ドリームバス」シリーズではリス、ウサギといった動物のほか、新幹線など幼稚園がデザインしたオーダーメードの製品も造ってきた。
ワゴン車タイプも含め、会社設立から32年間で約1500台を全国に送り出し、子供の夢を育んできた。
幼稚園バスの製造販売ではアニメのキャラクターバスを扱う会社が2社あるが、幼稚園バス専門メーカーは同社だけだという。

ドリームバスは繊維強化プラスチック製の複雑な形の部品をバスの前後や側面に4~8つ貼り付け、動物らしい丸みなどを表現する。
運行時の安全性を確保しつつ、座席の配置や手摺りにいたるまで顧客の希望一つ一つに耳を傾け商品の完成度を高める。

「ドリームバス」は1987年、移動販売車を蒸気機関車の形に改造したのが始まり。おやきを販売する地元業者に「ちょっと凝った車を造って」と頼まれ、社長が「世の中にない、人の目を釘付けにするようなものを登場させたい」と奮起した。
「車道を走るSL」は市民を驚かせ、予想以上の集客効果を上げた。これが、幼児を乗せる汽車バスの開発へとつながった。その後、紆余曲折へて、汽車バスに続き犬と猫の形のバスを開発し、ピークの96~98年には年間23~25台を売った。

子供の夢を追求しながら、2000年代に入ると少子化を見据えた経営戦略にいち早くかじを切った。
着目したのは小回りの利くワゴン車だった。停留所で待つ子供の数が減り、「子供を一人で待たせておくのは不安」と、家庭の玄関口まで送迎を希望する親が増えたためだ。
ワゴン車なら住宅街での騒音や渋滞を気にする必要もない。車体に凸凹はなく、動物のイラストや文字を貼り付けたシンプルな造りのため、価格は400万円前後とドリームバスの半額で、通常のマイクロバスより100万円程安く抑えられる。

この「小次郎シリーズ」は現在、売上の7~8割を占める主力製品に成長した。

「ドリームバス」は幼稚園の名称やイメージカラー、英語教室などのカリキュラムを宣伝する広告塔の役割も担う。競合する幼稚園と差別化する手段として導入する例もあるため、バスを量産するには営業上の苦労も伴うという。だが、社長は「一人でも多くの子供に楽しい思い出をつくってほしい。そのための物作りを考えたい」。

オンリーワンを誇る企業の挑戦は続く。

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10/24 売れ筋最前線⑥

2014年10月24日 | 日記

【缶詰バー】

安い保存食ーそんな缶詰のイメージが、じわりと変わりつつある。ここ数年は高級食材(シャコ・フグ等)を使用した商品や、総菜の老舗と共同開発したユニークな商品が続々登場している。
道内でも缶詰をつまみに酒を飲む「缶詰バー」が開店したり、ホテルが催事のメニューに高級缶詰を取り入れたりと、食べ方も売り方多様になている。

昨年開店した「缶詰バー」はmr・kanso。
壁一面の棚にカニ入りの鉄砲汁や、漬物のいぶりがっこなど370種類の缶詰がずらりと並ぶ。
初めて来店した女性客は「スーパーで安売りしている缶詰のイメージと全然違う」と驚く。

一番人気の缶詰は「だし巻き卵」という。
「だし巻き卵」は、同社をフランチャイズ展開するクリーン・ブラザーズが2012年に売り出した。京都の老舗総菜店と共同開発し、「かつおと昆布出汁で上品に仕上げた拘りの商品」だ。
同社のオリジナル缶詰は、たこ焼きやマーボー豆腐など計8種類ある。

一方、コンビニなどで売られ「缶詰ブームの牽引役」とされるのが食品卸大手の国分が開発した「缶つま」シリーズだ。「小樽のシャコ」や「宮崎県のフグ」などがあり、「酒のつまみに合う味」に仕上げた。徐々に品数が増え、今は約70種類に上がる。

ホテルもブームに乗る。東京ドームホテル札幌は12月15日、「缶つま」好きの男性の参加を期待して「缶詰で本格中華」をテーマにしたイベントを始めて開く。
参加料6千円で、「缶つま」を使った中華のコース料理を食べながら「缶詰博士」として知られる黒川勇人さんのトークを楽しむ。

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10/23 売れ筋最前線⑤

2014年10月23日 | 日記

「ヘルシオ お茶プレッソ」

健康ブームで緑茶飲料が売れている。でも普通のお茶の入れ方では、茶葉に残る多くの栄養成分を捨てている。丸ごと飲めたら身体にいいのに-。そんな思いから生まれたものが、茶葉を粉末にして抹茶のように味わえるシャープの「ヘルシオ お茶プレッソ」だ。

茶葉を入れると、内蔵するセラミック製の臼で約20ミクロンのパウダー状に加工。この抹茶をお湯の入った別の容器に入れると、中の羽根がぐるぐる回り、茶筅で仕上げたような泡立つお茶が出来上がる。

引き立ての香りや茶葉の栄養を余すところなく飲める点が人気を集めており、商品企画を担当した川村係長は「健康を気にされる方の心をくすぐっている」と話す。

拘りは、湧かす、挽く、たてるーの三つの機能を別々に設けること。茶道の所作を再現しただけでなく、粉末茶を料理や菓子に使ったり、材料を変えて紅茶ラテを作ったりと用途を広げた。

苦労したのは、臼の形状設計で、摩擦熱で栄養素を壊さないよう、回転を抑えると同時に素早く粉末にする独自構造を開発し、特許も申請した。

健康と美味しさを追求した「ヘルシオシリーズ」は、水蒸気で調理した余分な油を落とす家庭用オーブンレンジが代表格で、レンジは累計170万台以上を売る大ヒット商品に。

今春発売の「お茶プレッソ」も品切れが続出。7月から当初計画の5倍の月2万台に増産中で、先輩に負けぬ売れ行きを目指す。

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10/22 売れ筋最前線④

2014年10月22日 | 日記

【ブランパンシリーズ】

小麦の粒の外皮で製粉時に廃棄されやすい「ふすま(ブラン)」は、ミネラルや繊維成分が豊富で、しかも糖質が少ない。

健康志向の流れを先取り、コンビニ大手のローソンが製粉会社の鳥越製粉(福岡市)と二人三脚で製品化したのがふすまを生地に活用した「ブランパンシリーズ」だ。

しかし、2012年の発売当初は鳴かず飛ばず。パン生地に糖質の多い小麦粉を使わず、ふすまを中心にして低糖質に拘り過ぎたためだ。
仕掛け人でローソン商品・物流本部の鈴木氏すら「あまり、美味しくなかった」と振り返る。

それでもくじけなかった。

鳥越製粉が製法や配合バランスを見直し、今年5月20日から3代目のプランパンシリーズ8種を発売。国産米の外皮を新たに加えてコメ独特の食味を増し、口の中でほんのりと甘みも楽しめ、通常のパン並みのふっくら感を出した。

標準の「ブランパン2個入り」は既製のロールパンに比べ、糖質84%カットに成功。健康志向の女性やシニア層をはじめ、糖質を制限している人にも人気といい、販売2ヵ月で計画比5割増ペース。昨年の2代目シリーズより3倍以上も売れている。

機能性に食味も改善させたブラン生地はサンドイッチやスイーツにも利用され、クッキーやスナックなどの派生商品も登場。ローソンは、「肥満が社会問題となっている米国のハワイで展開したい」と話している。

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10/21 売れ筋最前線③

2014年10月21日 | 日記

【男梅サワー】

梅酒といえば、完熟タイプからスッキリ味まで多様な甘みを味わえる定番商品。
そんなセオリーを覆し、甘くない「しょっぱい旨さ」にこだわり、昨春限定販売したのがサッポロビールの「男梅サワー」。

始まりは一粒の飴だった。のど飴でおなじみのノーベル製菓の看板商品「男梅キャンデー」に惚れ込んだサッポロビールの永井マネジャーが直談判し、3年越しで商品化。ビール類に次いで市場の大きい酎ハイでヒット商品が欲しかった。「先行するビール大手に対抗するには従来にない斬新な切り口が必要」と考えたからだ。

嚙めば嚙むほど口に広がる干し梅のしょっぱさを試行錯誤で再現。ラベルデザインも「男が惚れる男ちたれ」「越を低く志は高く」などの文言で硬派な世界観を訴えた商品性が反響を呼んだ。30~40代の男性がターゲットだったが、心を掴んだのは意外にも健康志向の女性だった。

「梅酒は糖分が気になるが、男梅は何杯でも注文できる」と、女性を中心に口コミで評判が広がり、大手居酒屋チェーンで次々に採用されると、昨秋から通年販売が決まった。

2014年6月3日には昨年4~12月の40万ケースを突破し、今年の販売目標を昨年実績の2.5倍に引き上げた。

7月にはロックで楽しめる「男梅の酒」を瓶サイズで投入。サッポロビールは「アルコール離れが進む若者層を取り込みたい」と意欲的だ。

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10/20 売れ筋最前線②

2014年10月20日 | 日記

【万年筆「カクノ」

ターゲットは小学生、価格は税抜き千円。パイロットコーポレイションが発売した初心者向け万年筆「カクノ」が、「万年筆は大人の高級筆記具」という一般的なイメージを覆すヒット商品になっている。年間15万本の目標で昨秋発売したところ、手軽さと使いやすさが受け、26年6月までで50万本を販売。目標の4倍超のベースで売れている。

万年筆離れを食い止めようと、従来の最安値モデルの3分の1に価格を抑え、需要があると思えなかった小学生を対象にしたアイデアが斬新だった。

使いやすさには複数の工夫を凝らした。ペン先の表面には書く際に正しい向きになるよう笑顔のマークを描き、裏返しを防止。従来モデルだと円筒形が一般的だったグリップは親指、人差し指、中指でしっかり支えるため、なだらかな三角形の形にした。机の上で転がらないよう軸は六角形、子供の力でも開けやすいようキャップに指をかける窪みもつけた。

子供にととまらず、万年筆に敷居の高さを感じていた男性のほか、20~30代の女性などの人気を呼んだ。同社では「子供が使いやすいものは、大人にとっても使いやすかった」とヒットの理由を分析する。

「カクノ」をきっかけに他の万年筆への関心も高まり、同社の万年筆全体の売上が前年比で30%も伸びる相乗効果を生み出している。キャップと軸の色違いで10種類ある。

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10/19 売れ筋最前線①

2014年10月19日 | 日記

【ヌードルメーカー】

小麦粉などの材料を入れてボタンを押し、水を加えるだけで、うどんやそば、ラーメン、パスタなどの本格的な生面が僅か10分で出来はしまう。
そんな、あるようでなかった調理家電が、フイリップスエレクトロニクスジャパンの「ヌードルメーカ」だ。

6月下旬の発売から初日に完売する量販店が続出するなど好評である。
日本仕様機の企画を担当した佐藤マーケティングマネージャーは「自分で材料を選べるので、好みの麺にアレンジしたい人や、アレルゲンを心配する人に受けている」と話す。

調理家電では炊飯器やホームベーカリーが普及しているが、麺類を作る製品はなかった。
調べてみると、日本人の9割が週に最低一回は麺類を食べるのに「時間がかかりそう」といった理由で3%しか家庭で麺を作っておらず、「製品化の可能性感じた」という。

昨春、中国でテスト販売を始めると同時に日本仕様機の開発に取り組み、製麺所などプロの麺作りを研究。
機械の中で捏ねた生地をところてんのように押し出して製麺する仕組みだが、最後に麺が押し出される部分の形状を工夫して生地に圧力を段階的に加えるようし、コシのある「日本人好みの生麺」を短時間で作ることに成功した。

想定小売価格は税抜きで3万2200円。販売目標は年末までの半年間で5万台。昨年、爆発的に売れた油で揚げないフライヤー「ノンフライヤー」に次ぐヒット商品になりそうだ。

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