佐世保便り

2008年7月に佐世保に移住。
海あり山あり基地あり。そしてダム問題あり。
感動や素朴な疑問など誰かに伝えたくて…

アフガン

2008-08-31 | 平和

友人から、

ぺシャワール会のホームページ http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/kaiho/96nakamura.htm

 に掲載されている中村哲さんの報告を読むと、

本当の意味で伊藤君を死に追いやったのが、

テロリストではなく、対テロ戦争であったのだということが良く分かります。

 と書かれたメールが転送されてきた。

 

 抜粋された中村さんの報告は、このようなものだった。    

 

<対日感情の動き>  

日本国内で議論が沸騰した「インド洋での後方支援=給油活動」は、幸いほとんど現地で知られておらず、「最大の民生支援国」であることが政府・反政府を問わず、好感を持って迎えられていた。

在日アフガン大使も、日本が(アフガンの国土に)兵力を送らぬことを望むと述べている。このことが私たちにとって大きな安全になっていたのは疑いがない。

しかし、六月になって「日本軍(Japanese Troop)派遣検討」の報が伝えられるや、身辺に危機を感ずるようになった。

余りに現状を知らぬ軽率な政治的判断だったと言わざるを得ない。

日本が兵力を派遣すれば、わがPMS(ペシャワール会医療サービス)は邦人ワーカーの生命を守るために、活動を一時停止する。

これまで、少なくともアフガン東部で親日感情をつないできた糸が切れると、自衛隊はもちろん、邦人が攻撃にさらされよう。

私たちはアフガン人が「故郷を荒らす日本兵」を攻撃するのを止めることができない。悲しむべきことだが、これが冷厳な現実である。

この末期の段階で軍事行動に協力する愚かさの帰結を、身にしみて知ることになろう。

(ペシャワール会報96号:2008年6月25日発行より)

 

現地を知り尽くした中村哲医師の、信頼できるこの指摘を、

見逃したor見て見ぬふりをした政府の罪は決して軽くないだろう。

学者や評論家やジャーナリストも同じではないか?

 

国家の思う平和と、 民の願う平和と、

同じことばなのに、それはまるで別物のようだ。

中村哲さんが以前から訴え、危惧していたことが現実になってしまったのに、

まだ為政者たちは、その過ちに気付いていないのだろうか?

気付かないふりをずっと続けるつもりなのだろうか?

 

29日に佐世保を訪れた外務省日米地位協定室長のコメントが

昨日の新聞に出ていた。

彼は、放射能漏れの情報伝達が遅れたことを謝罪し、

発覚から一カ月近くなってやっと訪問したことにも、

「批判があれば、甘んじて受け止めたい」と言った。

が、そのあと、

佐世保市長や市議会が、 原因が究明されない中での原子力艦船寄港拒否

を示唆したことについて、

「原潜を含む米軍の存在は、わが国の安全に重要な役割を果たしており、

入港の差し止めを米に申し上げる考えはない」と述べたのだ。

 

「申し上げる考えはない」と。

 

コメント (2)
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8月が往く

2008-08-31 | 雑感
原爆記念日、終戦記念日、お盆・・・
1年で一番、命のことを意識する月。

今年はさらに、伊藤和也さんの悲しい事件があって、
いつもの8月よりも、もっともっと、意識してしまった。

いま、長崎県美術館では「相田みつを展」が開催中である。
8月8日のオープン以来、大盛況で、19日には1万人突破、
26日には2万人突破。
明後日、9月2日の最終日にはまた大変な混雑になることだろう。





以前から、彼の言葉が好きだった。
書の魅力はよくわからないが、心の底を見つめて見つめて、
その混沌の中から掬い取ったような本音や真実が、ストンと私の中に落ちていく。
そんな共感を覚えて、銀座にあった相田みつを美術館に行ったこともあった。
本も買った。
が、いつのまにか(たぶん、今回の引っ越しで)、その本も行方不明。

長崎まで足を延ばしてみようか…という気もしないではなかったが、
あまりにも新聞テレビで報道するので、
へそ曲がりな私は、やや興ざめ…や~めた!

そのかわり、本を買った。
今年出版された「いのち~いちばん大切なもの~」。
おなじみの作品も多いが、全く知らなかった詩もいくつか。
その中の2つ。「蜩」「三人分」
共に戦死した二人のお兄さんのことを詩っている。
残された親の想い、弟の気持ちを詩っている。

この本のあとがきに、相田一人氏は書いている。
 
  父は何を伝えたかったのでしょうか。
  出逢い、感動、人間など、相田みつを作品のキーワードを通して
  見えてくるのは、いのちというものへの深い思いです。
  大正13(1924)年に生れた父は昭和と共に歩んだ世代に属します。
  父の青春時代は、まさに太平洋戦争と重なっています。
  終戦のとき、父は21歳でした。
  かろうじて生き延びたものの、
  仲のよかった二人の兄はビルマ(現ミャンマー)と中国で
  若いいのちを散らしています。
  二人の兄たちの戦死。それが父の原点です。
  そこから、いのちをテーマに作品を書き始めるのです。
 
あらためて、彼の作品をじっくり見てみたいと思った。




   
   
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