佐世保便り

2008年7月に佐世保に移住。
海あり山あり基地あり。そしてダム問題あり。
感動や素朴な疑問など誰かに伝えたくて…

2008夏 ナガサキから

2008-08-10 | 平和
昨日8月9日は、63回目のナガサキ原爆の日。
その祈念式典に参列したくて、再び長崎へ。



平和公園に着いたのは式典開始15分前で、会場はすでに満席。
ほぼ1時間、外で立ちっぱなしだったが、あっという間の1時間だった。
何と言えばいいんだろう・・・大きな式典なのに、ほのぼのとした空域を感じた。





高校生男女二人による司会進行は歯切れよく爽やかで、
市長による「平和宣言」はわかりやすく心のこもったものだった。
被爆者代表による「平和の誓い」大きな悲しみと共に
力強い勇気を与えてくれた。
児童による合唱は一生懸命で、
女子高生による合唱は美しく、どちらも感動的だった。
また、場外ではお茶やおしぼりのサービスなど
高校生のボランティアがかいがいしく動いていた。

そして、式典の後も、心に残るできごとが待っていた。



平和公園の近くの爆心地公園までやってきたとき、
どこからか若者のアピールの声が聞こえてくる。
集会などをしているグループもいないのにどこからだろう?と見回すと、
日がかんかんと照る公園の中ほどで「OPEN MIKE」と書かれた立て看板の横で
女の子が一生懸命呼びかけている。



「皆さんは今日は、どんな思いでこの長崎に来られたのですか?
せっかく集まった私たち。胸の内を語り合ってみませんか?」
でも、足を止める人はほとんどいない。写真を撮ったり、
異例歩の前で手を合わせると、次の場所へ移動する。
彼女は私をまっすぐ見つめて「何でもいいから話してみませんか?」と繰り返す。
両横や後ろを見ても誰もいない。
しかたなく、私は勇気を出してマイクの前に立った。

私は埼玉県から佐世保市に越してきたばかりであること。
つい先日、佐世保港に原子力空母レーガンが寄港したこと。
でも、多くの佐世保市民は無関心のように見えたこと。
私はそういう人々と対話してみたいと思っていること。
憲法9条の素晴らしさを伝いたいけれど、まだまだ勉強不足であること。
戦争についても原爆についても知らないことだらけで、
だから今日ここにやってきたということ。
などを語っているうちに、
人々がたくさん集まってきたので、
次の人にマイクを渡した。

すると、一人の男性が話しかけてきた。
「オイは佐世保好きやね。オイは長崎より佐世保の方が好きやね。」
長崎の人か尋ねると、そうだと言う。お袋は被爆者だと言う。
それでもアメリカが大好きで、基地のある佐世保の雰囲気が好きなのだそうである。
アメリカのどこが好きか尋ねると、
「オイが子供んころは食べるもんがなくてさ、いつもひもじゅうてさ、
そんときアメリカ兵が来てチョコレートとかビスケットとかくれてさ、優しかったとよ。
もしあん時、アメリカがおらんかったら、中国にのっとられて、
今頃はチベットみたいになっとるよ」
それからしばし中国人の批判が続いた。
そこに先ほどの女の子が加わってきた。
「おじさんは、中国人と話したことはあるんですか?私のルームメイトは中国人だけど、
今おじさんが言ったような人ではありませんよ」
また、男子学生も「おじさん、中国にはそんな力ないよ」と中国海軍のことを語った。
北九州市立大学のこの二人の学生さんと「おじさん」と私は、その後も、
基地問題や、911、イラク戦争などいろいろ議論した。
おじさんの考えはもちろん変わらなかったが、最後にこう言った。
「誰でも平和がいいに決まっとうよ。オイもそうよ。戦争やら好かんばい。
それだけはおんなじたい」
そして私たちは来年またここで会いましょうと約束して別れた。



もう一人、ここでギターを弾きながら歌った若者がいた。



彼は歌い終わるとザックからチラシを取り出し配りだした。
それは、東京の高尾山の自然を守るためトンネルを掘らないで!というアピール文だった。
私はとても驚いて声をかけると、なんと「ケンジュウの会」のメンバーで、
埼玉県の蕨市からやって来たと言う。
共通の知り合い(ケンジュウの会代表)もいて、とても懐かしい気がした。
長崎だけではなく広島にも行って来たと言う。
高尾山の署名運動のこともすっかり忘れかけていた自分が恥ずかしかった。
(今日、そのケンジュウの会の代表から届いたメールによると、ケンジュウは毎年、
広島・長崎に出かけているのだそうだ。今年はサミットで北海道に行ったので、
九州まで行くお金がなくて、彼だけが出かけたとのこと。
「ユウイチ君からききましたよ。二人が出会ったこと!」と、その偶然を喜んでくれた)
ケンジュウの若者たちは、森だけではなく平和を守ることにも一生懸命なのだということを、
私はこんなに遠くに来て、初めて知ることができた。

爆心地公園を後にして、私は一人近くの中華料理店でお昼をとることにした。
店は満員で少し待って呼ばれたが、相席だった。
丸テーブルに4人組の先客がいて、私の後にもう一人案内されて若い女性客がやってきた。
どちらからともなく声をかけあったら・・・なんと彼女も佐世保市からで、しかも隣町だった!
自己紹介し合ううちに意気投合、1時間もおしゃべりしながらの食事となった。

彼女は小学校の先生で、平和学習担当。
その担当になると、毎年行われる平和学習の日(8月9日)の計画を立て、
職員会議で提案し、授業案を作らねばならないそうだ。
彼女は去年まで頼りにしていた先輩の先生がこの春転任していったので、
今年は一人で頑張って作ったけれど、やはりいろんな先生がいて、
忙しいのにそこまでやりたくないなどの批判が出て紆余曲折。
けれど校長先生の応援を得て、ほぼ願い通りの企画が通り、
それを子供たちが目を輝かせて聞いてくれたのが嬉しかった!
「昨夜は一人で祝杯をあげました」と笑顔で語ってくれた。
今年は9日が土曜日だったので、佐世保市は8ひが平和学習の日となり、
おかげで久しぶりに9日の平和祈念式典に参列できたとのこと。

私にもついていろいろ聞かれ、問われるままに応えていたが、
とくに2回目に訪れた広島での原爆祈念式典の体験話には、
涙を浮かべて聞き入ってくれた。
こんな先生に教えられる子どもたちの心には、
きっと平和の種がしっかり蒔かれていることだろう。
私たちは住所やメールアドレスなどを交換して別れた。

2時過ぎから6時すぎまで、たっぷり時間をかけて原爆資料館を見て回り、
7時から始まる平和祈念集会に参加するために浦上天主堂に向かう。



まだ明るい空に真っ白なマリア像がはっとするほど美しかった。



教会の中は敬虔なカトリック信者であふれ、
祈りと賛美歌に包まれた、静かで厳かな集会だった。



集会の後、被爆マリアの神輿を先頭に、
人々は火のついた松明を持ち、平和公園まで行進した。
行進の間も信者たちの祈りの言葉は続いていた。
今も私の耳に残る一節がある。
  私たちの罪をお許しください
  私たちも人を許します
信者ではない私も、心の中で唱和していた。

そのとき、「ヒバクシャ」という言葉が聞こえた。
私の隣の女性が、私たちの間にいる外国人女性にしきりに
「I am ヒバクシャ」と言っていた。
外国人女性は「I don't know japanese.」を繰り返していたので、
私の知っている単語で伝えてみた。
幸い理解してもらえたようで、それから三人のぎこちない会話が始まった。
もちろん私も英会話は苦手で、ほとんど身振り手振りと表情でのコミュニケーション。
彼女はカトリック信者で、広島と長崎で祈りを捧げるためにやってきたそうで、
明後日帰国するといっていた。
どこから来たのかきくと、答えてくれたのだが、残念ながら聞き取れなかった。
(ヒヤリングはもともと苦手中の苦手で、その上最近は難聴気味の私。聞き返すのが躊躇われた)

4歳のとき被爆した日本女性は、二人のお兄さんを当時亡くし、
彼女自身いまも後遺症に苦しんでいる。例年9日のあとは、数日は寝込むのだそうだ。
その彼女がこんなことを言った。
「黒焦げの死体があちこちにころがっていたと、よく聞くでしょう?
私も見たはずなのに、なぜか記憶がないんですよ。
でもね、馬があちこちで死んでいるのは見た記憶があるんです。
とても可哀想に思ったのも覚えてるんです。今でもたまにその光景を夢にみますよ。
そして夢の中で泣くんです。可哀そうで悲しくて泣いてしまうんです」
馬でさえそんなに悲しかったのだから、人が死んでいる光景を記憶にとどめるなんて、
その女性の神経には耐えられなかったのだろう。
体の防衛システムが働いて、彼女の記憶から消してくれたのだろう。

本を読んでも、TVで見ても得られない悲しさの臨場感が伝わってきた。
そして、平和公園に着いた。

信者さんたちのミサが始まる頃、そっと会場を後にした。





 
コメント
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