66年前の6月28日、佐世保は大空襲に見舞われました。
1200人を超える市民が亡くなりました。
その事実を語り継ぐために、毎年この集会が行われているそうですが、私は初めて参加しました。
夜空に焼夷弾が雨のように降り注ぎ、昼間のように明るかったとか、
疎開先の田舎から見ていたら、花火のようできれいと思ったとか、
翌朝になってみたら、街は焼け野原になっていたとか、
黒焦げの死体、特に子どもを抱いたまま焼け死んだお母さんの遺体が忘れられないとか、
東京大空襲で聞いた話と全く同じでした。
犠牲者の数は違っても(東京大空襲の死者は10万人以上)、その悲惨さに変わりはなく、
伝え継ぐことの大切さを感じました。
ある男性は、こう言いました。
私たちがこの話を語り継ぐときに忘れてはならないことがある。
それは、この事実を近現代史の中で捉える必要があるということ。
私たちは被害者であったが、同時に加害者であったことを忘れてはならない。
また、この戦争を、たんに政治家や軍部に責任を帰するべきではない。
マスコミも有識者も、ほとんどがそれらに迎合してきたのだから。
私の母は、空襲警報がなったとき、電灯を消すのが遅れただけで非国民と言われた。
そんな時代だった。
また、ある男性は言いました。
8月15日に戦争が終わり、9月1日から学校が始まった。
毎日墨消しをやっていた。教科書のあちこちを墨で消すのですが、社会科が一番多かった。
9月末ごろ、用事があって市役所に行ったら、星条旗が掲げられていた。
そこにはこれまで、市旗と日の丸と旭日旗があったのに、市旗と星条旗に代わっていた。
それを見た瞬間、力が抜けたように、座り込んでしまった。
ある女性は語りました。
女学校2年のとき、佐世保工廠に動員されて、2ヶ月間電気のことを勉強させられ、
その後はずっと、機雷とか信管を作ってた。
体当たりするための船の燃料タンクも造った。
終戦まで、勉強はせずにずっと工場で働いていた。
工廠では昼食が出た。
大豆の油粕や高粱、芋などとお米が少しのご飯だったけど、食べられるだけ嬉しかった。
この集会には、中学生、高校生、大学生なども来ていましたので、いろんな質問が出ました。
ある男子生徒がききました。
「3番目に話された方は、どうして兵隊に志願したのですか?」
男性は正直に答えました。
自分たちのところは、農閑期には炭鉱で働くか兵隊に行くかどっちかだった。
どっちもきついが、兵隊に行けば皆から一目置かれるので、兵隊に志願した。
さっきの女性が言いました。
学校に志願兵募集の知らせが来るのです。
でも、私たちの先生は、
「子どもは戦争に行かんでよかよ。戦争に行くのは大人の仕事。
お兄さんが志願すると言ったら、そう言って止めなさい」と言いました。
と、すごく誇らしげに語ってくれました。
また、ある女生徒は尋ねました。
その当時、皆さんはどんなものを食べていたのですか?
別の女性が答えて言いました。
大豆のカスとか芋とか・・とにかくお菓子とか甘い物とかはありませんよ。
三度の食事が満足に食べられないんですから。
学校では、体育の時間が終わって教室に戻ってくると、必ず誰かのお弁当がなくなってました。
弁当泥棒がいたんです。
あるとき私は友だちから空のお弁当箱を渡されて、
「これに明日お弁当を入れてきて」と言われました。
私は家に帰って泣きながらお母さんに渡しました。
怒られると思ったけど、お母さんは黙って、翌朝、そのお弁当箱にたくさん詰めてくれました。
その子はそれを家に持ち帰って、家族皆で食べたそうです。
とても美味しかった!と喜んでいました。
大学生の青年が言いました。
僕は沖縄から来ている学生です。
戦争のことといったら、沖縄戦と広島、長崎しか知りませんでした。
佐世保にもこんな戦争時代があったなんて…初めて知って驚いています。
今日はここに参加できてよかったです。
私も、彼らと同じように、驚きや感動をもって聴かせて頂いた2時間でした。
本当にありがとうございました。