旅行から戻った夜、私は本棚の奥から一冊の本を探し出した。
『ある遺書』という題名の小さな本(A5版よりやや小ぶりで厚さ1cmほど)。湯川達典著、「九州記録と芸術の会」発行。著者は、私にとって今は亡き高校時代の恩師湯川先生である。
特攻隊員林市蔵さんの生前の手紙や日記、そして、市蔵さんのお姉さんから筆者湯川先生に宛てた手紙などがまとめられている。
市蔵さんは湯川先生の2年後輩にあたり、高校、大学と同じ学校に通っていた人で、また同じクリスチャンでもあった。
20年前にこの本を頂いたとき、私にはその価値がほとんどわかっていなかった。
憲法のことを学びだした数年前にも一度読んでいるのだが、その時もまだわかっていなかった。
その証拠に、私は旅行前、この本の存在を忘れていた。
知覧特攻平和会館の遺影の前に立ってしばらくして思い出したのだ。
この中にあの特攻兵がいるはず!と思えど、名前が思い出せない。
「市」と「林」の字がつくことだけはうっすら記憶していたので、その字が入っている名前と福岡県という出身県を条件に、2回ほど見て回ったが、見つからなかった。
1036名の遺影が展示されているというが、ところどころに空白の箇所があり、
全部ではなさそうだ。この空白の意味は何か?
写真がないのは考えられない。隊ごとに撮ったり、出撃前に撮ったり、公の彼らの写真はたくさんあるのだから。
もしかしたら、この資料館のあり方に賛同できない遺族の意思で公開を拒否されたのか、ならば有り得るかも…などとかってに想像をめぐらせ、とにかく帰宅したら、まず本を探そうと思っていた。
本を見て、疑問はすぐに解決。
市蔵さんは海軍の特攻隊員だったので、知覧にないのは当然だった。
知覧にあるのは陸軍の特攻隊員のもので、海軍特攻兵の写真や手紙は、鹿児島湾の向こう側、鹿屋の資料館に保管されているらしい。
その区別さえも考えずに見ていた私の無知が恥ずかしい。
本の冒頭部分には、このように書かれていた。
<…略…。ぼくは昭和18年9月に繰り上げ卒業で大学から押し出されて帰郷したが、2年下だった林はその年の12月に学徒動員で佐世保海兵団に入団した。そして20年4月、特別攻撃隊員として沖縄で戦死した。>
そして、お姉さんから湯川先生に宛てた手紙(昭和52年から平成元年にかけて、はじめは著者からの質問に答える形で、そのうちに弟のことをもっと知ってもらいたいと、自ら記憶を呼び起こして何通も書き送られている)の中には次のように書かれている。
<「今度の戦争は海戦なので、海軍に行くとどういうことになるか判らないので、志願さえしなければ陸軍になるので志願しないでほしい」と母と私がとめたところ、弟は「陸軍の横暴が気に食わない、もし陸軍のようなところへ行ったらゴボー剣で自殺するようなことになるやもしれぬ」と言ったので、それでは仕方ないと私どもは諦めました。>
<弟は小さい時から軍人になるとは一度も言いませんでした。ボクは軍人大好きよというような歌は歌わなかった>
<あれは何時でしたかはっきり日時を覚えませんが、少年航空兵が特攻隊に行ってしまうので「死んではいけないと僕たちが止めに行くんだ」「命を的にするなんてそんな無茶なことをしても戦争に勝つ訳がない」とも言いました。>
<あの場合特攻作戦に例え反対でもそれに殉ずるより外にどうしようもなかったのでしょう。>
これらの文章は第一便と二便の手紙に書かれていたもので、それは、ある一つの言葉に対する筆者の疑問に答えるためのものであった。
「母チャン、母チャンが私にかうせよと云われた事に反対してここまで来てしまひました。私としては希望どほりで嬉しいと思ひたいのですが、母チャンのいはれる様にした方がよかったなあと思ひます。」
これは「わだつみ」に掲載された市蔵さんからお母さんに宛てた手紙だが、
その最後の部分「よかったなあ」のところが、『雁来紅』(福岡高校同窓会によって編集された遺稿集)には「よかったかなあ」と「か」が入っているのである。
この1文字が入るかどうかの違いは国語教師で詩人の湯川先生にとっては大きな問題だったのだろう。お姉さんにその疑問をぶつけられたようである。
お姉さんは、「よかったなあ」などと云うわけはないと断言され、その理由として入隊前の経緯と、彼が『死に至る病』を繰り返し読んでいたこと、賛美歌337番「わが生けるは主にこそよれ、死ぬるもわが益、また幸なり」を愛唱していたことなどが綴られていた。
そして、自分も原文を読んでいるのに、「わだつみ」と「雁来紅」の違いには気がつかなかった。<肉親でも見落とすところをよくお気づきになられましたのね。お友達の皆様のご厚情、本当に感謝申し上げます>と謝意が述べられていた。
また、お母さんに関しては、
<あの日、柳こうりが届けられて日記を読んだ母が大学ノートを投げつけて"母チャンが云わんことじゃない"と泣き崩れた>ことや<「大西中将には死んで頂く」と終戦の日に母が叫びました。日頃は気の長いおだやかな母が決然といったのに驚きました>と書かれていた。
しかし、ネットで検索すると、なぜか自由主義史観研究会HPの授業づくり最前線というところに市蔵さんの遺書が取り上げられている。
http://www.jiyuu-shikan.org/jugyo16.html
また、「靖国」関連のページ「君にめぐりあいたい」には、市蔵さんのお母さんに関することが紹介されていた。http://tokyo.cool.ne.jp/usaki/yasukuni/6.html
<「泰平の世なら市造は、嫁や子供があって、おだやかな家庭の主人になっていたでしょう。けれども、国をあげて戦っていたときに生れ合わせたのが運命です。
日本に生れた以上、その母国が、危うくなった時、腕をこまねいて、見ていることは、できません。そのときは、やはり出られる者が出て防がねばなりません。」
これは、京都帝国大学出身 林市造海軍大尉のお母様が戦後に書かれた手記です。>
この手記が本物なのか・・・お姉さんの手紙を見ると、信じがたい内容である。
いずれにしても今一度、湯川先生の本をじっくり読みなおしてみたいと思う。
『ある遺書』という題名の小さな本(A5版よりやや小ぶりで厚さ1cmほど)。湯川達典著、「九州記録と芸術の会」発行。著者は、私にとって今は亡き高校時代の恩師湯川先生である。
特攻隊員林市蔵さんの生前の手紙や日記、そして、市蔵さんのお姉さんから筆者湯川先生に宛てた手紙などがまとめられている。
市蔵さんは湯川先生の2年後輩にあたり、高校、大学と同じ学校に通っていた人で、また同じクリスチャンでもあった。
20年前にこの本を頂いたとき、私にはその価値がほとんどわかっていなかった。
憲法のことを学びだした数年前にも一度読んでいるのだが、その時もまだわかっていなかった。
その証拠に、私は旅行前、この本の存在を忘れていた。
知覧特攻平和会館の遺影の前に立ってしばらくして思い出したのだ。
この中にあの特攻兵がいるはず!と思えど、名前が思い出せない。
「市」と「林」の字がつくことだけはうっすら記憶していたので、その字が入っている名前と福岡県という出身県を条件に、2回ほど見て回ったが、見つからなかった。
1036名の遺影が展示されているというが、ところどころに空白の箇所があり、
全部ではなさそうだ。この空白の意味は何か?
写真がないのは考えられない。隊ごとに撮ったり、出撃前に撮ったり、公の彼らの写真はたくさんあるのだから。
もしかしたら、この資料館のあり方に賛同できない遺族の意思で公開を拒否されたのか、ならば有り得るかも…などとかってに想像をめぐらせ、とにかく帰宅したら、まず本を探そうと思っていた。
本を見て、疑問はすぐに解決。
市蔵さんは海軍の特攻隊員だったので、知覧にないのは当然だった。
知覧にあるのは陸軍の特攻隊員のもので、海軍特攻兵の写真や手紙は、鹿児島湾の向こう側、鹿屋の資料館に保管されているらしい。
その区別さえも考えずに見ていた私の無知が恥ずかしい。
本の冒頭部分には、このように書かれていた。
<…略…。ぼくは昭和18年9月に繰り上げ卒業で大学から押し出されて帰郷したが、2年下だった林はその年の12月に学徒動員で佐世保海兵団に入団した。そして20年4月、特別攻撃隊員として沖縄で戦死した。>
そして、お姉さんから湯川先生に宛てた手紙(昭和52年から平成元年にかけて、はじめは著者からの質問に答える形で、そのうちに弟のことをもっと知ってもらいたいと、自ら記憶を呼び起こして何通も書き送られている)の中には次のように書かれている。
<「今度の戦争は海戦なので、海軍に行くとどういうことになるか判らないので、志願さえしなければ陸軍になるので志願しないでほしい」と母と私がとめたところ、弟は「陸軍の横暴が気に食わない、もし陸軍のようなところへ行ったらゴボー剣で自殺するようなことになるやもしれぬ」と言ったので、それでは仕方ないと私どもは諦めました。>
<弟は小さい時から軍人になるとは一度も言いませんでした。ボクは軍人大好きよというような歌は歌わなかった>
<あれは何時でしたかはっきり日時を覚えませんが、少年航空兵が特攻隊に行ってしまうので「死んではいけないと僕たちが止めに行くんだ」「命を的にするなんてそんな無茶なことをしても戦争に勝つ訳がない」とも言いました。>
<あの場合特攻作戦に例え反対でもそれに殉ずるより外にどうしようもなかったのでしょう。>
これらの文章は第一便と二便の手紙に書かれていたもので、それは、ある一つの言葉に対する筆者の疑問に答えるためのものであった。
「母チャン、母チャンが私にかうせよと云われた事に反対してここまで来てしまひました。私としては希望どほりで嬉しいと思ひたいのですが、母チャンのいはれる様にした方がよかったなあと思ひます。」
これは「わだつみ」に掲載された市蔵さんからお母さんに宛てた手紙だが、
その最後の部分「よかったなあ」のところが、『雁来紅』(福岡高校同窓会によって編集された遺稿集)には「よかったかなあ」と「か」が入っているのである。
この1文字が入るかどうかの違いは国語教師で詩人の湯川先生にとっては大きな問題だったのだろう。お姉さんにその疑問をぶつけられたようである。
お姉さんは、「よかったなあ」などと云うわけはないと断言され、その理由として入隊前の経緯と、彼が『死に至る病』を繰り返し読んでいたこと、賛美歌337番「わが生けるは主にこそよれ、死ぬるもわが益、また幸なり」を愛唱していたことなどが綴られていた。
そして、自分も原文を読んでいるのに、「わだつみ」と「雁来紅」の違いには気がつかなかった。<肉親でも見落とすところをよくお気づきになられましたのね。お友達の皆様のご厚情、本当に感謝申し上げます>と謝意が述べられていた。
また、お母さんに関しては、
<あの日、柳こうりが届けられて日記を読んだ母が大学ノートを投げつけて"母チャンが云わんことじゃない"と泣き崩れた>ことや<「大西中将には死んで頂く」と終戦の日に母が叫びました。日頃は気の長いおだやかな母が決然といったのに驚きました>と書かれていた。
しかし、ネットで検索すると、なぜか自由主義史観研究会HPの授業づくり最前線というところに市蔵さんの遺書が取り上げられている。
http://www.jiyuu-shikan.org/jugyo16.html
また、「靖国」関連のページ「君にめぐりあいたい」には、市蔵さんのお母さんに関することが紹介されていた。http://tokyo.cool.ne.jp/usaki/yasukuni/6.html
<「泰平の世なら市造は、嫁や子供があって、おだやかな家庭の主人になっていたでしょう。けれども、国をあげて戦っていたときに生れ合わせたのが運命です。
日本に生れた以上、その母国が、危うくなった時、腕をこまねいて、見ていることは、できません。そのときは、やはり出られる者が出て防がねばなりません。」
これは、京都帝国大学出身 林市造海軍大尉のお母様が戦後に書かれた手記です。>
この手記が本物なのか・・・お姉さんの手紙を見ると、信じがたい内容である。
いずれにしても今一度、湯川先生の本をじっくり読みなおしてみたいと思う。
"その地"を訪ねることの大切さをまた教えられた気がします。
20年間も宿題をほったらかしていた不真面目な生徒を見るに見かねて、あの世から先生が手招きをして下さったのかもしれませんね。
この続き、また書かせてもらいます。ご意見、ご批判、何でもどうぞ。よろしくお願いします。