の録画を観ました。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/111204.html
最も長い期間戦場となったニューギニア。
20万の日本兵のうち、生き残ったのはわずか2万。
彼らの多くが、熱帯性感染症と飢餓で戦わずして死んでいった。。
切り株に腰をおろしている兵士の目にも口にもウジ虫がたかっていた。
死んでいるかと思ったが近づくとまだ生きていたんだよ。
部隊に回ってきた回覧にはこう書かれていた。
「人肉を食したものは厳罰に処す。ただし、敵軍のものは例外とす。」
殺してくれって言うんですよ。
手榴弾で死ぬより撃ってほしいって。
俺はいやだから下士官にやらせようと思ったんだけど、
下士官も班長もやれないって言うから、俺が引き金引いて…
本や映画で何度も見聞きしたことですが、
ご本人たちが語る言葉は、重くて、重くて、胸が締め付けられます。
そして、その貴重な生き残りの方たちは、一様に今なお苦しみを抱えていました。
生きて帰ってきたことへの後ろめたさ。
亡くなった戦友たちへの申し訳なさ。
だから、語りたくない。
思い出したくない。
思い出す度に自分を責めずにはいられない、そんな辛さが滲んでいました。
俺は、他人の悪口は今まで言わなかった。
自分が生きて帰って来たからな。
あんたに初めて言うよ。
・・・・地獄だったなぁ・・・俺は幸い地獄の入口で引き返してきたけどな。
いや、よかったのかどうか…戦後いろんなことあったから。
自分の罰だと思ったよ。生きて帰った罰だと。
・・・恨むよ。
あの時の、大本営の上層部を、恨むよ。
しかし、こんな偉そうなこと言えないんだけどね。
あんたたちがせっかく来てくれてるけどね、
こうやって偉そうに話すのが辛いんだよ。
申し訳ないんだよ、死んだ人にね。
沖縄戦では、住民もまるで兵士のように戦い死んでいった。
壕の中で、泣き続ける弟(乳飲み子)を胸に押し付けて窒息死させた母は、
戦後は塞ぎこみ、亡くなるとき、弟の名を呼んで死んでいったと語る女性。
家族に頼まれて、母と妹を銃で撃って死なせたと証言する男性。
救護班として従軍していた女子学生たちまで総攻撃に加わることになって、
幼い妹がいたので残るように言われたOさんは、友人たちが壕を出ていくのを見送った。
みんな生き生きとして、笑って、まるで踊りでも見に行くようだったね。
握手して、泣き顔一つしないで、
「行ってこようね」「手柄立てようね」と言って、出ていったよ。
そして、誰も帰って来なかった。
ニューブリテン島から撤退する時、傷ついた兵士を置き去りにするよう命じられたMさんは、
今もその仏様に手を合わせ、泣き崩れる。
良心というのかね・・卑怯な自分が許せないんですよね。
自分で自分が許せない。。
ルソン島で将校として指揮したSさんは、部下たちの名前を記したノートを見せる。
約200人の部下のうち、生き残ったのはわずか4人。
Sさんはその後、ほとんど家から出ることはなかったという。
息子が家を建てても、病院を開業した時も、温泉などの旅行にも、決して出かけなかった。
あれだけみんなに死ぬことだけを勧めてきたのに、
その本人が遊んでいるわけにはいきません。
戦争だけはしてはいけない。
私はそういうんですが…
でも、時代が変われば、変わっていくんじゃろう・・・
と言って、悲しそうな顔をした。
その3ヶ月後、Sさんは他界したそうです。
辛い戦場を潜り抜け、九死に一生を得て帰還した兵士たちの多くが、
その幸運を喜び、亡くなった戦友の分まで人生を謳歌しようとするのではなく、
戦争の傷を負ったまま、癒えることなく生き、そして死んでいっている現実を、
私は知りませんでした。
いえ、そういう人の存在は知っていましたが、
それはごく一部であり、多くの人は、
戦後の日本の復興と平和な日々の再来を喜び、
生き残ったことを有難いと感謝し、
平凡な幸せをかみしめて暮らしてこられたのかと思っていたのです。
正直なところ、何もわかっていませんでした。
明日は12月8日、太平洋戦争開戦から丸70年です。