貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

川越制度の誕生から廃止

2019-08-28 08:40:20 | 日記

川越制度の誕生から廃止

 令和元年8月28日

 今週は曇天で過ごやすい。

 残暑は9月にかな?

「箱根八里は馬でも越すが 

 越すに越されぬ大井川」

 大井川 川越(かわごし)遺跡は、

4度目かな?

 江戸時代、旅人が大井川を渡るため

には、人足に肩車をしてもらうか、

輦(れん)台(だい)という御輿のような

乗り物に乗り、担いでもらうかだった。

 その「川越し」の料金所(川会所)

や、人足の待合所(番宿)などの

風景を再現したのが、この遺跡。

 昭和41年8月1日に国指定史跡に

指定される。

 慶長6年(1601)、徳川家康は

東海道に宿駅伝馬の制を定め、

街道整備を実施。

 しかし、大きな河川には橋が

ほとんどかけられず、旅人は船か

徒歩で渡るしか方法はない。

 特に大井川は渡船も禁止され、

流れも急なので不慣れな旅人が

渡るには危険なため、両岸では

川越しの手助けを生業とする人々

が現れる。

 そして、街道の通行量の増加と

ともに渡渉の方法や料金などを

統一する必要が生じる。

 元禄9年(1696)に川越制度が

できる。

 その管理のために川庄屋の役職と、

業務の拠点となる川会所を設置。

 最初の川庄屋は、島田代官の野田

三郎左衛門から任命された橋爪

助左衛門と塚本孫兵衛(如舟)の

二人。

川合所には、丁度説明を受けている

観光客の集団が見える。

 川会所には、川庄屋のもとに年行事、

待川越、川越小頭などの役が置かれ、

その日その日の水深を計り川越賃銭

を定め、大名から庶民まですべての

通行人に対する渡渉の割り振りや、

諸荷物の配分など日々の運営を

はかる仕事が行われたそう。

 川越しは明治3年(1870)に、

大井川の通船が許可されたことに

伴い廃止される。

 現在の川会所の建物は安政3年

(1856)に建てられたもので、

川越し制度廃止後は大井川通船の

事務所や学校の校舎など様々に利用

されその位置も転々とする。

 昭和41年(1966)8月に島田宿

大井川川越遺跡が国の指定を受けたの

に伴い、昭和45年(1970)8月、

現在地に移築されるという経緯。

 私の住んでいる青梅でも多摩川橋

の処に、舟場があり、友田と小作の

行き交いは舟だったそう。

 今も 舟場という名称は残っている。

 橋があることによって、明治までは

いろいろなデメリットもあったと

いうこと。

 政体の絡みだが・・・。