ミーマン日記

週1回ディサービスに夫婦で行って、楽しく過ごしています。

「山背道から淡海の海へー逢坂越」ハイク

2008-07-21 21:35:43 | 万葉関係
昨日20日(日)全国万葉協会主催のハイクに京都万葉同好会の有志も参加しました。

集合は、四ノ宮10時ですが、私達は少しでも早く行こうと思い9時30分過ぎに着いたのですが、もうすでに顔なじみの人達が来ておられ~嬉しかった。

最終には、38人でしたが~京都万葉会の人達が12人です。(沢山の参加に喜んでいます。)

10時過ぎに四ノ宮駅を出発する頃には、気温も上がり、少し歩いただけで汗ずく・・・

東海道旧道を歩いてみる事になり~「閉栖寺」の前で説明がある。



「閉栖寺」・・・大津市横木長、旧街道と伏見街道の分岐する場所。
山門は長屋門の上に太鼓楼を重ね、旅人に時刻を知らせたという。

「月心寺」・・・大津市大谷町、歌川広重筆・東海道五十三次の大津の錦絵に描かれる茶店(走り井餅で有名)が現在の月心寺

庭の一角には、小野小町百歳像を安置した百歳堂や松尾芭蕉の「大津絵の筆のはじめは何仏」と言う句碑も立つ

ここで小休止・・・汗を拭いたり水分補給

「蝉丸神社」で解説と役員の紹介





「蝉丸神社」・・・大津市大谷町、大津側の登り口に面した関蝉丸神社を、万治三年(1660)に勧請

関蝉丸神社は、万葉集に見える手向神を元にして、弘仁一三年(八二二)に創建したという「蝉丸大明神縁起」

元は、日本三大実録」によると「坂神従五位下」、室町時代には「関明神」だったが天慶九年(946)に琵琶法師の祖とされる蝉丸を合祀した。

これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関
                      蝉丸(後撰集・雑・1090)



「逢坂山関跡碑」・・・京阪電鉄大谷駅の東約100m、国道一号沿いに「逢坂山関跡碑」の記念碑が立つが、実際に関所があったのは、記念碑から少し大津寄りで関寺の付近か~

これからいよいよ、アップダウンの厳しい道に踏み込んで行きます。
京都地方の気温は36度ぐらいに上がっていますね・・・熱中症にならない様に気をつけながら歩こう~

道に入ってすぐに立て札が・・・



しばらく行くと木陰で涼しい所に出ました。森林浴をしながら坂道を上って行く・・・汗が出るわ~出るわ・・・此処で私達は小休止



全国万葉協会の荒川さんが気を使ってくださり~「ここで1枚撮りましょう~疲れていても顔だけは、にこやかに笑ってくださいね~」と言われ、せいっぱいの笑顔を作る・・・

しばらく歩いていくと・・・「お~」との声が聞こえてきた。



琵琶湖展望地に出る(午前中は少し曇っている感じ・・・)

この景色を見て欲しいから、厳しい坂でしたが上ってもらいましたと・・・(納得)

此処で万葉歌を一句

逢坂を うち出でて見れば 近江の海 白木綿花に 波立ち渡る
              作者未詳(巻十三ー三二三八)


長等公園で昼食

汗ずくの上着を干している人があった。

昼食後会長さんから「近江大津宮」「近江大津宮錦織遺跡」等の説明があり~その後今日の参加者の紹介があり・・・京都万葉同好会の人達が集まり自己紹介をする。その他富山・横浜・名古屋・奈良・大阪とさすが~全国万葉協会だと・・・



長等神社の前で京都万葉の人が記念撮影

少し歩くと店屋が有り、皆にアイスクリームを1本づつ頂き、何と気のつく人達ですね。暑くなっている身体には嬉しいですね。

三井寺(園城寺)拝観する事に・・・

「三井寺」・・・大津市園成寺町、正式名称は長等山園城寺で、天台寺で天台寺門宗の総本山。

壬申の乱に敗れた大友皇子の子・大友与多王が父の霊弔うために「田園城邑」を寄進して寺を創建し、天武天皇から「園城」という勅額を賜った事が始まりとする。

又アップダウンの道を歩いて・・・フェノロサの墓に行き~又琵琶湖展望地で団体写真を撮る



午後からの方が晴れていて綺麗に撮れた。

楽浪の 志賀の大わだ 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも
            高市古人(黒人) (巻一ー三一)

古の 人に我あれや 楽浪の 古き都を 見れば悲しき
            高市古人(黒人) (巻一ー三二)

楽浪の 国つ御神の うらさびて 荒れたる都 見れば悲しも
            高市古人(黒人) (巻一ー三三)

弘文天皇陵に行き・・・此処が開けてあるのにはビックリ・・・何時来ても閉まっていた。(フイルム切れで・・・写真が撮れない・・・)

会員さんにお願いをしてPCで送って貰う事にした。



「弘文天皇陵」・・・「長等山前陵」

「弘文天皇」・・・大化四(648)年ー天武元(672)年。
日本書紀にもその名がなく、明治二三年、第三九代弘文天皇と追称された。天地天皇の第一皇子。初めは伊賀皇子といい、母は伊賀宅子娘、持統天皇の異母弟

最後に新羅明神の境内で最後の締めくくりの話をされました。

淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに 古思ほゆ
                 柿本人麻呂 (巻三ー二六六)



「新羅善神堂」

全国万葉協会の方たちの峠シリーズを計画された人達、又実地踏査をして頂いた方々にに感謝します。

色々とお世話になりまして~有り難うございました。