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奥田英朗『コロナと潜水服』その3

2022-03-30 05:28:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

 結局、一時間近くトレーニングをし、五人の中年男たちは立っていられないほど体力を使い切った。(中略)
「すぐになれるさ。じゃあ、明日な」(中略)

 午後十一時過ぎ、邦彦が帰宅すると、妻の晴美が起きて待っていた。こういうときは、何か相談ごとがあるときである。
「有希の受験のことなんだけど……」と、少し憂いを含んだ顔で言う。娘の有希は高校二年生で、そろそろ志望を決める時期にいた。
「有希は美大を受けたいんだって」
「あ、そう。いいんじゃないの」(中略)
「でも、私立の美大ってお金がかかるのよ。入学金も授業料も平均の1.5倍」
「えっ、そうなの?」(中略)

 ボクシングのオッサンは翌日も、午後五時のサイレンが鳴った直後に姿を現した。(中略)
 この日は最初に、邦彦たちが自己紹介したが、男はうなずくだけで名乗ろうとしない。そこで邦彦たちは、彼をコーチと呼ぶことにした。(中略)邦彦たちは久しぶりに学ぶ快感を味わっていた。

 練習が終わると、外の自販機でスポーツドリンクを買い、倉庫で車座になって飲んだ。(中略)
 明日が待ち遠しいなんて、ずいぶん久しぶりのことだと、邦彦は感慨に耽った。人には日課が必要なのである。

 数日後、本社人事部の石原が、また部下を引き連れてやって来た。(中略)
「今日は業務変更があって伝えに来ました。これまでは警備会社の補佐として、昼間の警備を担当していただいてきましたが、来週からは夜間警備もお願いすることになりました」(中略)
「ここにいる五人でローテーションを組んで、一人週二回以上の宿直をしていただきます。(中略)」

 その日の終業後のボクシング練習は、グローブを軽くしてスパーリングをすることになった。(中略)
 もはや邦彦たちのボクシングに和気藹々とした空気はない。ただし殺伐ともしておらず、互いにリスペクトする気持ちがあった。(中略)

 グローブを軽くしてからというもの、邦彦たちのボクシング練習はますます白熱の度合いを増した。何しろ殴られると痛いのである。鼻血も出るし痣もできる。(中略)

 週が変わり、邦彦たちの夜勤が始まった。午前零時まで工場の仮眠室で仮眠を取り、それから午前八時まで、本職の警備員たちと交代で工場内をパトロールする。最初は邦彦と沢井が担当した。警棒も何もないから、手にするのは懐中電灯だけである。
(中略)フェンスに沿って歩いていると、工場の一番奥の金網の外側にトラックの黒い影があった。(中略)
 懐中電灯を当てたら、運転席に人影があり、慌てて頭を下げた。(中略)懐中電灯を上下左右に動かすと、フェンスの金網が一部欠損していた。何者かに破られたのだ。
 邦彦は司令補が言っていたことを思い出した。最近、外国人の窃盗団が付近の工場を荒らして銅線を盗んでいると━━。
 そのとき黒い影が動く。はっとして振り向くと、男が二人、銅線を巻いたロールを押して、倉庫から出てくるところだった。
「おいっ。何をしている!」
 邦彦は反射的に声を上げ、懐中電灯を向けた。全身黒ずくめで目出し帽を被った男二人が、倉庫の壁を背に、映画のように映し出される。
 邦彦は足が震えた。賊は大きなワイヤーカッターを振り上げて威嚇した。(中略)
「三宅さん。警備室に応援要請をしに行ってください!」沢井が言った。
「沢井さんは?」
「ぼくはこいつらを阻止します」
「一人で? それは無理だろう」(中略)
 そこへ賊の一人がワイヤーカッターを振りまわして近づいて来た。(中略)
 気がついたら左ジャプを賊に見舞っていた。続いて右ストレート。これも決まった。賊はワイヤーカッターを地面に落とした。振り返ると、沢井ももう一人と戦っていた。(中略)殴り、殴られる。逃がす気はなかった。(中略)
「待てーっ!」
 そこに大声が降りかかった。数人の足音が響き、ライトを浴びせられた。警備員たちだった。異状を知り、駆け付けてくれたのだ。きっと防犯カメラに映ったのだろう。(中略)

 外国人窃盗団が逮捕された事件は、新聞とテレビで一斉に報じられた。(中略)
 ただ、本社では大きなニュースとして各部署を駆け巡り、社員たちの噂となった。三宅さんと沢井さんが窃盗団を発見し、追いかけて捕まえたらしい━━。賊に対して一歩も引かず、乱闘を演じたらしい━━。(中略)
 そして社内からは別の声も湧き起こった。うちの会社は早期退職勧告に応じなかった社員に夜警までやらせるのかという非難の声である。(中略)
 これには組合も看過できず、役員会に説明を求める事態へと発展した。(中略)
 もっとも容易には方針転換されないだろうとも、邦彦たちは思っていた。会社はそんなに甘いところではない。(中略)
 ただ、そんなことより━━。

 事件の翌日から、コーチが姿を見せなくなったのである。(中略)
 待っていてもしょうがないので、時間を見つけてみなでコーチを捜すことにした。(中略)

(また明日へ続きます……)