また昨日の続きです。
その夜、午後9時過ぎに帰宅して、父に石田部長からの手紙を渡すと、父は最初訝しげに封筒を見つめていたが、すぐに内容を察したのか、「ずいぶん情に厚い人なんだな」と言い、その場では開封せず、自分の寝室へと持って行った。残された亨と遥は話した。「こういうときって人間がわかるよね。一人だけ気遣ってくれる後輩がいて、聞いたら子供の頃に弟を事故で亡くしてて、残された家族の哀しみがわかるって言ってた。うちら、おかあさんが死んで、いろいろ学んだね」「ああ、そうだな」「ねえ、おとうさんは? 寝室に入ったきり出て来ないけど、もう寝たのかな。おにいちゃん、立ってるついでに見て来てよ」「わかったよ」居間に戻った亨は遥に言った。「おとうさんが泣いてる。手紙を読んで泣いたんじゃないの」「どういう手紙なの?」「知らない。おれは読んでないから」原因が石田部長の手紙なら、悲嘆に暮れているわけではないだろう。きっと慰められたのだ。
翌朝、亨がダイニングで朝食を食べていると、父が寝室から起きてきて、封筒をテーブルに置いた。「石田さんに渡してくれ。おとうさんからのお礼の手紙だ」父はなにやら晴れやかな顔をしていた。そしてその日、亨は出社すると真っ先に石田部長のところに行った。「おはようございます。これ、うちの父からのお礼の手紙です。石田部長の手紙には何が書いてあったんですか」「それは内緒。ぼくの経験談だよ。妻を亡くしていろいろあったからね」「とにかく元気が出たみたいで、今朝はトーストを2枚食べてました」「そうか、そりゃよかった」亨はデスクに戻った。石田部長は父からの手紙を読んでいるらしかった。そのとき、石田部長が不意に顔を歪(ゆが)めた。そして立ち上がると、手紙を持ったまま、左手で鼻を押さえ、部屋の外へと早足で出て行った。亨はなんだかおかしくなった。大人はいいいなとも思った。みんな、支え合って生きている。母はこの様子を、天国で笑って見ているにちがいない。そう思ったら、亨も鼻の奥がつんときた。
「妊婦と隣人」
隣に新しく引っ越してきた夫婦が謎めいていて、妊娠中の葉子(ようこ)は気になって仕方がなくなった。外出するのを見たことがない。確かにいることは、壁にコップをつけて聞こえる音からして間違いない。夫は「お腹の中にいる子供が出す音じゃないの?」と相手にしてくれない。そしてある日、隣人は公安警察によって逮捕された。その夜、夫の夜食には、さっと茹でたニラと長芋と明太子を和えて御飯に載せ、キノコのすまし汁と一緒に出してあげた。「うまい、うまい」目を細めて食べている。そのときおなかの赤ちゃんがコツンと蹴った。生まれる前から、もう気心が知れた母と子の気分だった。
「妻と選挙」
妻が市議会議員選挙に立候補すると言い出した。妻は以前から、地元・はるな市の福祉センターにボランティア登録していて、紹介されたNPO法人で高齢者への新聞の読み聞かせの活動を行って来たが、高齢者が置かれた淋しくて厳しい現状を見るにつけ、これは市政がなんとかするべきだろうと思い始め、自らひと肌脱ぐ決意をするに至ったようなのである。大塚康夫(やすお)は50歳の小説家で、自宅で仕事をしていた。妻の里美(さとみ)は、かつてはパートで働いていたが、ここ十年ほどは専業主婦で、その反動からか、あるいは夫と少しでも別の時間が欲しいからか、意識的に外に用事を作りたがるところがあった。過去にもロハスに凝ったり、マラソンにはまったりと、いろいろな前歴がある。サルビアの会というのが、里美が参加しているNPO法人で、メンバー全員が主婦だった。一度ホームページをのぞいたことがあったが、30代から50代までの、普通の女たちのボランティアサークルといった印象だった。「そんなに本格的なわけ?」里美から話を聞いた康夫は、妻がいつの間にか結構な人脈を築いていたことに驚いた。「ほら、安田さんの旦那さんが弁護士だって、前に話したでしょう。その旦那さんが顔の広い人で、いろいろ働きかけてくれてるの。安田さんは、自分は参謀役が向いてるって。そして安田さんが言うには、わたしは若過ぎず、老けてもいず、候補にはちょうどいい年齢なんだって。……それから、これはわたしが言ったんじゃないよ。安田さんをはじめ理事の人たちが言うには、大塚さんは美人だから選挙に有利だって」「はは」「笑うと思った」「いや、ただ当選したら大変だろうなあって思ったりして……」「そうかもしれないけど、やってみたいの。あ、そうだ。お金のことなら心配いらないからね。供託金の30万円も含めて80万円以内で済ませる。サルビアの会が半分カンパしてくれるっていうから、あとはわたしが自分の貯金をくずして充てる。ただお願いが一点だけ。プロフィールに、〈夫はN木賞作家の大塚康夫〉という一文だけ入れさせて。みんな、そうしろって言うの。たぶん、それだけで世間的な信用度が上がるってことなんだろうと思うけど。お願い、絶対に迷惑はかけないから」「それくらいいいけど」(また明日へ続きます……)
その夜、午後9時過ぎに帰宅して、父に石田部長からの手紙を渡すと、父は最初訝しげに封筒を見つめていたが、すぐに内容を察したのか、「ずいぶん情に厚い人なんだな」と言い、その場では開封せず、自分の寝室へと持って行った。残された亨と遥は話した。「こういうときって人間がわかるよね。一人だけ気遣ってくれる後輩がいて、聞いたら子供の頃に弟を事故で亡くしてて、残された家族の哀しみがわかるって言ってた。うちら、おかあさんが死んで、いろいろ学んだね」「ああ、そうだな」「ねえ、おとうさんは? 寝室に入ったきり出て来ないけど、もう寝たのかな。おにいちゃん、立ってるついでに見て来てよ」「わかったよ」居間に戻った亨は遥に言った。「おとうさんが泣いてる。手紙を読んで泣いたんじゃないの」「どういう手紙なの?」「知らない。おれは読んでないから」原因が石田部長の手紙なら、悲嘆に暮れているわけではないだろう。きっと慰められたのだ。
翌朝、亨がダイニングで朝食を食べていると、父が寝室から起きてきて、封筒をテーブルに置いた。「石田さんに渡してくれ。おとうさんからのお礼の手紙だ」父はなにやら晴れやかな顔をしていた。そしてその日、亨は出社すると真っ先に石田部長のところに行った。「おはようございます。これ、うちの父からのお礼の手紙です。石田部長の手紙には何が書いてあったんですか」「それは内緒。ぼくの経験談だよ。妻を亡くしていろいろあったからね」「とにかく元気が出たみたいで、今朝はトーストを2枚食べてました」「そうか、そりゃよかった」亨はデスクに戻った。石田部長は父からの手紙を読んでいるらしかった。そのとき、石田部長が不意に顔を歪(ゆが)めた。そして立ち上がると、手紙を持ったまま、左手で鼻を押さえ、部屋の外へと早足で出て行った。亨はなんだかおかしくなった。大人はいいいなとも思った。みんな、支え合って生きている。母はこの様子を、天国で笑って見ているにちがいない。そう思ったら、亨も鼻の奥がつんときた。
「妊婦と隣人」
隣に新しく引っ越してきた夫婦が謎めいていて、妊娠中の葉子(ようこ)は気になって仕方がなくなった。外出するのを見たことがない。確かにいることは、壁にコップをつけて聞こえる音からして間違いない。夫は「お腹の中にいる子供が出す音じゃないの?」と相手にしてくれない。そしてある日、隣人は公安警察によって逮捕された。その夜、夫の夜食には、さっと茹でたニラと長芋と明太子を和えて御飯に載せ、キノコのすまし汁と一緒に出してあげた。「うまい、うまい」目を細めて食べている。そのときおなかの赤ちゃんがコツンと蹴った。生まれる前から、もう気心が知れた母と子の気分だった。
「妻と選挙」
妻が市議会議員選挙に立候補すると言い出した。妻は以前から、地元・はるな市の福祉センターにボランティア登録していて、紹介されたNPO法人で高齢者への新聞の読み聞かせの活動を行って来たが、高齢者が置かれた淋しくて厳しい現状を見るにつけ、これは市政がなんとかするべきだろうと思い始め、自らひと肌脱ぐ決意をするに至ったようなのである。大塚康夫(やすお)は50歳の小説家で、自宅で仕事をしていた。妻の里美(さとみ)は、かつてはパートで働いていたが、ここ十年ほどは専業主婦で、その反動からか、あるいは夫と少しでも別の時間が欲しいからか、意識的に外に用事を作りたがるところがあった。過去にもロハスに凝ったり、マラソンにはまったりと、いろいろな前歴がある。サルビアの会というのが、里美が参加しているNPO法人で、メンバー全員が主婦だった。一度ホームページをのぞいたことがあったが、30代から50代までの、普通の女たちのボランティアサークルといった印象だった。「そんなに本格的なわけ?」里美から話を聞いた康夫は、妻がいつの間にか結構な人脈を築いていたことに驚いた。「ほら、安田さんの旦那さんが弁護士だって、前に話したでしょう。その旦那さんが顔の広い人で、いろいろ働きかけてくれてるの。安田さんは、自分は参謀役が向いてるって。そして安田さんが言うには、わたしは若過ぎず、老けてもいず、候補にはちょうどいい年齢なんだって。……それから、これはわたしが言ったんじゃないよ。安田さんをはじめ理事の人たちが言うには、大塚さんは美人だから選挙に有利だって」「はは」「笑うと思った」「いや、ただ当選したら大変だろうなあって思ったりして……」「そうかもしれないけど、やってみたいの。あ、そうだ。お金のことなら心配いらないからね。供託金の30万円も含めて80万円以内で済ませる。サルビアの会が半分カンパしてくれるっていうから、あとはわたしが自分の貯金をくずして充てる。ただお願いが一点だけ。プロフィールに、〈夫はN木賞作家の大塚康夫〉という一文だけ入れさせて。みんな、そうしろって言うの。たぶん、それだけで世間的な信用度が上がるってことなんだろうと思うけど。お願い、絶対に迷惑はかけないから」「それくらいいいけど」(また明日へ続きます……)
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