西加奈子さんの’14年作品『サラバ!』を読みました。
「第一章 猟奇的な姉と、僕の幼年時代」
僕はこの世界に、左足から登場した。とても僕らしい登場の仕方だと思う。まるきり知らない世界に、嬉々として飛び込んでゆく朗らかさは、僕にはない。僕の後の人生を暗示したかのようにその出産は、日本から遠く離れた国、イランで起こった。母の人生は直観によって成り立っていた。僕の名前である「歩」を決めたのも、母だった。父の赴任先であるイランを決定したのも、母の直観だった。僕がこの世界に登場したとき、ふたりはまだ、別れていなかった。それどころか深く愛し合っていた。1977年、5月のことだ。母は僕を28歳で産んだ。なので、そんなに若い、というわけでもなかった。だが、僕の友人たちは、度々母のことを綺麗だと言ったし、綺麗とは言わないまでも、若いとは絶対に言うのだった。父は身長が183センチもあった。ハンサムではないが、それこそ、一見して信頼に値すると言っていい、実直さにあふれた顔だった。僕の誕生の3年前に、姉が生まれた。僕の家を、のちに様々なやり方でかき回すのがこの姉、貴子なのだっだが、世界にたいして示す反応が、僕の場合「恐怖」であるのに対し、姉は「怒り」であるように思う。とにかく姉は、その場所で一番のマイノリティであることに、全力を注いでいた。姉は容姿にも少し問題があった。あの両親から生まれて来た割に、可愛い、とは言えなかったのだ。母にとって姉は、得体の知れない、手に負えない子供だった。だから我々圷家では、「母vs姉、そしてその間をオロオロと揺れ動く父」という図式が、盤石な態勢で、長きに渡って顕在していた。僕は、母と姉の対立には、徹底して静観を貫いていた。しかし、日本から遠く離れたイランで、僕たち4人は、とても幸福な家族だったのだ。
出産しても、自分の生活スタイルをなるべく変えたくない母だったが、だからこそ、なるべく子供の意見を尊重したいと思っていた。とにかく幼かった姉は、「話をすれば分かってくれる」「愛情をこめて接すれば理解してくれる」という範疇にはなかった。様々な新しい何かを始める姉に対し、母はほとんどノイローゼのようになっていたのだ。僕はテヘランには、1歳半くらいまでしかいなかった。ホメイニによる革命が勃発したからである。
帰国した僕たちは、大阪の小さなアパートで暮らした。僕たちが住んだのは、2階の角部屋だった。矢田のおばちゃん(母がそう呼んでいた)は、その下の階に住んでいた。おばちゃんはあれこれと世話を焼いてくれた。矢田のおばちゃんは、姉を手なずけることに、完全に成功していた。おばちゃんの背中には、立派な弁天様が彫られていた。とにかくともて優しいが、迫力のある人だった。アパートには、母の母、つまり僕たちの祖母も来てくれていた。母の一番上のおばさんは好美おばさん、二番目は夏枝おばさんといった。姉は、この夏枝おばさんにも、よくなついた。おばさんは、三人姉妹の中でひとり、結婚していなかった。祖母も、好美おばさんも、僕たちのことを可愛がってくれた。でも可愛がり方が大げさだった。しばらく遊んでいると、飽きてしまい、いずれ大人たちだけで話を始めてしまうのだ。そんな中、いつまでも遊んでくれるのが夏枝おばさんだった。美人で、しかもひとりで生きていける能力を持った女、ということで、最強だったのは祖母だ。祖父が死んだのは、僕の母が12歳になった頃だった。それから祖母は好美おばさんを短大にやり、14歳の夏枝おばさんと母の学費をひとりで払った。遅れてイランから帰国した父の膝に、姉は母を睨みつけながら乗り、絶対にそこから降りなかった。風呂に入りたい父が降りてくれと頼んでも、夕飯を食べる段になっても、決して。また我慢できなきうなった母が姉を怒鳴ったが、姉は母に怒鳴られれば怒鳴られるほど、頑なに動こうとしなかったのだった。姉のようなタイプには、早々に自分の部屋を与えたほうがいいのだ。ということで両親は、父が帰国してすぐに家探しを始めた。夏枝おばさんは、僕らを毎日、近所の神社に連れて行ってくれた。新居が見つかるまでの数週間、姉の中で「葬式ごっこ」というのが流行った。いずれ捨ててゆくこの家に、姉なりの郷愁を感じていたのかもしれない。そこで父が姉に買ってきたキツネのぬいぐるみが早々と土に埋められることになった。それを知った母は激怒した。「あんたには悪魔がついてんのか!」母は母なりに、姉に愛情を注いでいた。しかしそれは姉が望んでいたものではなかった。姉は、私は悪魔の子なのだ、という、いかにも姉の好きそうなストーリーを、でっちあげてしまったのだ。(明日へ続きます……)
「第一章 猟奇的な姉と、僕の幼年時代」
僕はこの世界に、左足から登場した。とても僕らしい登場の仕方だと思う。まるきり知らない世界に、嬉々として飛び込んでゆく朗らかさは、僕にはない。僕の後の人生を暗示したかのようにその出産は、日本から遠く離れた国、イランで起こった。母の人生は直観によって成り立っていた。僕の名前である「歩」を決めたのも、母だった。父の赴任先であるイランを決定したのも、母の直観だった。僕がこの世界に登場したとき、ふたりはまだ、別れていなかった。それどころか深く愛し合っていた。1977年、5月のことだ。母は僕を28歳で産んだ。なので、そんなに若い、というわけでもなかった。だが、僕の友人たちは、度々母のことを綺麗だと言ったし、綺麗とは言わないまでも、若いとは絶対に言うのだった。父は身長が183センチもあった。ハンサムではないが、それこそ、一見して信頼に値すると言っていい、実直さにあふれた顔だった。僕の誕生の3年前に、姉が生まれた。僕の家を、のちに様々なやり方でかき回すのがこの姉、貴子なのだっだが、世界にたいして示す反応が、僕の場合「恐怖」であるのに対し、姉は「怒り」であるように思う。とにかく姉は、その場所で一番のマイノリティであることに、全力を注いでいた。姉は容姿にも少し問題があった。あの両親から生まれて来た割に、可愛い、とは言えなかったのだ。母にとって姉は、得体の知れない、手に負えない子供だった。だから我々圷家では、「母vs姉、そしてその間をオロオロと揺れ動く父」という図式が、盤石な態勢で、長きに渡って顕在していた。僕は、母と姉の対立には、徹底して静観を貫いていた。しかし、日本から遠く離れたイランで、僕たち4人は、とても幸福な家族だったのだ。
出産しても、自分の生活スタイルをなるべく変えたくない母だったが、だからこそ、なるべく子供の意見を尊重したいと思っていた。とにかく幼かった姉は、「話をすれば分かってくれる」「愛情をこめて接すれば理解してくれる」という範疇にはなかった。様々な新しい何かを始める姉に対し、母はほとんどノイローゼのようになっていたのだ。僕はテヘランには、1歳半くらいまでしかいなかった。ホメイニによる革命が勃発したからである。
帰国した僕たちは、大阪の小さなアパートで暮らした。僕たちが住んだのは、2階の角部屋だった。矢田のおばちゃん(母がそう呼んでいた)は、その下の階に住んでいた。おばちゃんはあれこれと世話を焼いてくれた。矢田のおばちゃんは、姉を手なずけることに、完全に成功していた。おばちゃんの背中には、立派な弁天様が彫られていた。とにかくともて優しいが、迫力のある人だった。アパートには、母の母、つまり僕たちの祖母も来てくれていた。母の一番上のおばさんは好美おばさん、二番目は夏枝おばさんといった。姉は、この夏枝おばさんにも、よくなついた。おばさんは、三人姉妹の中でひとり、結婚していなかった。祖母も、好美おばさんも、僕たちのことを可愛がってくれた。でも可愛がり方が大げさだった。しばらく遊んでいると、飽きてしまい、いずれ大人たちだけで話を始めてしまうのだ。そんな中、いつまでも遊んでくれるのが夏枝おばさんだった。美人で、しかもひとりで生きていける能力を持った女、ということで、最強だったのは祖母だ。祖父が死んだのは、僕の母が12歳になった頃だった。それから祖母は好美おばさんを短大にやり、14歳の夏枝おばさんと母の学費をひとりで払った。遅れてイランから帰国した父の膝に、姉は母を睨みつけながら乗り、絶対にそこから降りなかった。風呂に入りたい父が降りてくれと頼んでも、夕飯を食べる段になっても、決して。また我慢できなきうなった母が姉を怒鳴ったが、姉は母に怒鳴られれば怒鳴られるほど、頑なに動こうとしなかったのだった。姉のようなタイプには、早々に自分の部屋を与えたほうがいいのだ。ということで両親は、父が帰国してすぐに家探しを始めた。夏枝おばさんは、僕らを毎日、近所の神社に連れて行ってくれた。新居が見つかるまでの数週間、姉の中で「葬式ごっこ」というのが流行った。いずれ捨ててゆくこの家に、姉なりの郷愁を感じていたのかもしれない。そこで父が姉に買ってきたキツネのぬいぐるみが早々と土に埋められることになった。それを知った母は激怒した。「あんたには悪魔がついてんのか!」母は母なりに、姉に愛情を注いでいた。しかしそれは姉が望んでいたものではなかった。姉は、私は悪魔の子なのだ、という、いかにも姉の好きそうなストーリーを、でっちあげてしまったのだ。(明日へ続きます……)
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