工藤栄一監督・共同脚本の'83年作品『逃がれの街』をスカパーの日本映画専門チャンネルで見ました。島田紳助に兄貴と慕われる水谷豊が、16歳の恋人・甲斐智枝美を恋人の母(草笛光子)のヤクザのヒモ(財津一郎)に奪われ、そのヒモを殺し、そのヤクザの敵討ちに現れたヤクザも返り討ちし、男の子を拾い、その子の伯父を冬の白馬に訪ねますが、子の引き取りを拒否され、伯父を傷つけ、結局警察に射殺されるという話で、殺伐とした画面を音楽で叙情的に処理しようとしたところが見られ、殺される直前の財津一郎の指がブランブランになるところが印象に残りました。
さて、昨日の続きです。
動揺した私はトイレに駆け込むが、客は次々に現れ、トイレから飛び出した私は、その対応に追われ、化粧もできないままだ。私は最も輝いていた高校時代の知人で、今もSNSで交際が続いている友人たちの顔を思い出し、自信を取り戻そうとする。やがてフットサル帰りであるはずの夫の知人が、背広姿で現れる。そして私はマンションではなく邸宅の玄関にいることに気づき、続々とリムジンで現れる盛装した男女は私のことを褒めそやし、私の携帯に電話してきた夫も「パーティは大成功だ。お前、すごいよ」と言ってくれる。私が今夜のことをSNSで私を待ってるみんなに報告するのは、もうちょっとあとになりそう。だって、ホームパーティはまだまだこれからなのだから。
『ハイパーリアリズム点描画派の挑戦』 「当現代美術館ではこのたび、『ハイパーリアリズム点描画派の挑戦』展を開催します。ハイパーリアリズム点描画派とは、点描画の技法を駆使して大画面のハイパーリアリズム絵画を制作した一派で、今、目の前にある物を写し取るため、対象は都市風景画か静物画に限られ、季節や時間による対象の変化も描き込み、それに相当の労力が費やされるため、画家は一生に一作しか残せず、またそれは皆未完の物になるのでした」。美大を卒業したが、今は食品会社に勤めているぼくは、この展覧会に行くが、いつものように絵画を身近から見るため乱闘となり、絵画を汚さないように付けることを義務化されているマスクに血を吐く。「当現代美術館ではこのたび、日本人2人目にして現段階ではさいごのハイパーリアリズム点描画家とされる篠原博の没後1年を記念し、『“今”と“リアル”を超える――ハイパーリアリズム点描画派の軌跡』展を開催します。本展覧会では、篠原の8年に及ぶ画業の成果である『当現代美術館展示室B』を初公開します。美大を卒業した後、食品会社に勤めていた彼がこの絵を描くきっかけとなったのは、当館で開催された『ハイパーリアリズム点描画派の挑戦』展でした」。
『ある遅読症患者の手記』 ぼくの世界の本は生きている。書店に並んでいる間は休眠状態にあり、薄くて透明な膜を破り取り、表紙を開くと、芽が出て、やがて真っ青な花が咲き、その頃には読者はその本から手に入れうる最大の快楽に心を震わせている。そして花が咲ききって傷み出すまでに本を読み終わり、本が閉じられると、花は咲いた状態で永遠に生きる。しかしぼくのような遅読者は、花が咲ききってもまだ本を読み終わらず、そうすると、花はしおれ、字も溶け出し、本も崩壊し、その本の血によって、遅読者の顔や手には真っ黒い痣が残ることになる。痣は時間が経てば少しずつ薄くなって、いつかは完全に消えるという。しかし、ぼくはそれを待てず、知識と冒険を求めて新たに本を買い、痣を増やしてしまう。そして今、こうして書いてきたぼくのノートが本になったら、ぼくはその本を必ず手に取るだろう。そしてぼくはぼくの本を死なせることになる。ぼくの腕の中で、ぼくの本はおぞましい真っ黒な血を吐き、ぼくはその血にまみれて(後は真っ黒な血に染まったページが3ページ続きます)
どれも想像力豊かな作品だと思いましたが、個人的な趣味で言うと、残酷な場面が横溢する多くの作品よりも、ファンタジックな『ホームパーティはこれから』が一番好きでした。
→「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)
さて、昨日の続きです。
動揺した私はトイレに駆け込むが、客は次々に現れ、トイレから飛び出した私は、その対応に追われ、化粧もできないままだ。私は最も輝いていた高校時代の知人で、今もSNSで交際が続いている友人たちの顔を思い出し、自信を取り戻そうとする。やがてフットサル帰りであるはずの夫の知人が、背広姿で現れる。そして私はマンションではなく邸宅の玄関にいることに気づき、続々とリムジンで現れる盛装した男女は私のことを褒めそやし、私の携帯に電話してきた夫も「パーティは大成功だ。お前、すごいよ」と言ってくれる。私が今夜のことをSNSで私を待ってるみんなに報告するのは、もうちょっとあとになりそう。だって、ホームパーティはまだまだこれからなのだから。
『ハイパーリアリズム点描画派の挑戦』 「当現代美術館ではこのたび、『ハイパーリアリズム点描画派の挑戦』展を開催します。ハイパーリアリズム点描画派とは、点描画の技法を駆使して大画面のハイパーリアリズム絵画を制作した一派で、今、目の前にある物を写し取るため、対象は都市風景画か静物画に限られ、季節や時間による対象の変化も描き込み、それに相当の労力が費やされるため、画家は一生に一作しか残せず、またそれは皆未完の物になるのでした」。美大を卒業したが、今は食品会社に勤めているぼくは、この展覧会に行くが、いつものように絵画を身近から見るため乱闘となり、絵画を汚さないように付けることを義務化されているマスクに血を吐く。「当現代美術館ではこのたび、日本人2人目にして現段階ではさいごのハイパーリアリズム点描画家とされる篠原博の没後1年を記念し、『“今”と“リアル”を超える――ハイパーリアリズム点描画派の軌跡』展を開催します。本展覧会では、篠原の8年に及ぶ画業の成果である『当現代美術館展示室B』を初公開します。美大を卒業した後、食品会社に勤めていた彼がこの絵を描くきっかけとなったのは、当館で開催された『ハイパーリアリズム点描画派の挑戦』展でした」。
『ある遅読症患者の手記』 ぼくの世界の本は生きている。書店に並んでいる間は休眠状態にあり、薄くて透明な膜を破り取り、表紙を開くと、芽が出て、やがて真っ青な花が咲き、その頃には読者はその本から手に入れうる最大の快楽に心を震わせている。そして花が咲ききって傷み出すまでに本を読み終わり、本が閉じられると、花は咲いた状態で永遠に生きる。しかしぼくのような遅読者は、花が咲ききってもまだ本を読み終わらず、そうすると、花はしおれ、字も溶け出し、本も崩壊し、その本の血によって、遅読者の顔や手には真っ黒い痣が残ることになる。痣は時間が経てば少しずつ薄くなって、いつかは完全に消えるという。しかし、ぼくはそれを待てず、知識と冒険を求めて新たに本を買い、痣を増やしてしまう。そして今、こうして書いてきたぼくのノートが本になったら、ぼくはその本を必ず手に取るだろう。そしてぼくはぼくの本を死なせることになる。ぼくの腕の中で、ぼくの本はおぞましい真っ黒な血を吐き、ぼくはその血にまみれて(後は真っ黒な血に染まったページが3ページ続きます)
どれも想像力豊かな作品だと思いましたが、個人的な趣味で言うと、残酷な場面が横溢する多くの作品よりも、ファンタジックな『ホームパーティはこれから』が一番好きでした。
→「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)
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