川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』その９

　また昨日の続きです。
　（中略）廊下に出るとさっきまであたりを満たしていた青さは遠のき、それとはまったく質の違う濃い闇が目の中に広がっていった。（中略）一歩進むごとに暗さは増し、胸がどきどきと鳴った。（中略）やがて廊下は突き当たり、足の指先で探ってみると左側に敷居があった。さらに足を伸ばすと、絨毯の感触がした。（中略）それから、何も見えないことに気がついた。はっきりした恐怖に急きたてられ、鼓動はさらに速まった。（中略）そして、なんとか冷静になろうと深呼吸をした。（中略）そこにどれくらいのあいだ立っていたのかはわからない。しかし暗闇に目が慣れる気配はなかった。（中略）部屋の奥へ入っていった。足の裏に絨毯の感触を覚えるだけで、物には何も当たらなかった。三歩進んでから、わたしはゆっくりとしゃがみこみ、膝をついた。（中略）さらに時間をかけて体を後ろに倒し、仰向けになった。（中略）
　（中略）それにしてもあの老女はこんな一軒家でいつから一人暮らしをしていたのだろう。（中略）六年ものあいだ斜め向かいに住んでいてその姿をずっと目に入れてきたはずなのに、解体されるまえのこの家がどんなだったかがまるで記憶にないのだ。（中略）思いだせるのは塀だ。（中略）錆の浮いた鉄製の大きな門があった。たしか、その横には古い看板がかけられていた。子ども向けの英語塾の看板で、ずいぶん昔のものだ。（中略）わたしは数人の子どもたちに英語を教える、まだ若い時分の老女を思い浮かべてみた。（中略）午前十時に外国人教師は家にやってくる。（中略）その日は、いちばん好きな曲を持ってきたのでちょっと聴いてみないかと老女を誘い、大切に取りだしたレコード盤をターンテーブルに載せて、そっと針を落とす。ふたりは（中略）ベートーヴェンを聴く。ピアノ・ソナタ三十二番、第二楽章。（中略）それからふたりは数えきれないほどくりかえし、その曲を聴くことになる。最後の一音が去ってしまうと、ふたりは二階へ戻り、学校が終わって子どもたちがやってくるまでのあいだそれぞれに事務作業をする。呼び鈴が鳴り、子どもたちの声がする。ふたりは笑顔で迎え入れ、発音し、文法を教える。子どもたちは概ね静かで、ふざけることもなく鉛筆を持ち、ノートに文字を書きつけている。（中略）この子どもたちの中に、老女の子どもはいたのだろうか。いない気がする。老女は十年ほどまえにこの家で父を看取ってから、おそらくずっとひとりでこの家に住んでいる。（中略）春になると、老女と外国人教師は授業のあいまによく縁側にふたりで並んで、藤の木を見上げた。Wisteria、外国人教師は、ふと藤の花房と自身のあいだの空白に呼びかけるように呟くことがあった。そしてある日、おなじようにふたりで藤の花を眺めているときに、きみのことをウィステリアと呼んでもいいかと老女に尋ねる。「いいけれど、どうしてウィステリアなの」「わからない」外国人教師は微笑んで言った。「ただ、きみの本当の名前はウィステリアなんじゃないかと思ったんだ」「本当の名前？」「うん。人にはみんな本当の名前というものがあって、わたしにはそれがわかるんだ。（中略）」「その藤の木はどう？　わたしの名前に関係はある？」「それはあるかもしれない」（中略）「きみたちは見分けがつかないくらい、よく似ているから」（中略）藤の木の根っこのすぐそばにあるひょうたんのかたちをした池には、そんなに大きくない数匹の鯉が泳いでいる。（中略）風の強い日には降り積もる花びらで水面は真っ白になり、ふたりは網を使って幾度となく掬いあげなければならなかった。それが三度目を迎えたある春の午後、外国人教師が縁石のうえでバランスを崩し、とっさに手をつかもうとしたウィステリアも一緒に池に落ちてしまう。（中略）楽しそうに笑っている外国人教師を見つめながらしばらくウィステリアも笑っていたけれど、その笑顔を見つめるうちに、これまで知らなかった感情が彼女の胸にやってくる。本場の先生が本当の発音で教えてくれる━━この英語教室の評判は年々あがり、このあたりに住む裕福で教育熱心な母親たちはこぞって自分たちの子どもを通わせたがった。（中略）ある日外国人教師はウィステリアに相談を持ちかけた。ふたりじゃだんだん無理になってきたよ。けれどウィステリアはそれを断った。（中略）仕事を終え、外国人教師が家を出るのはだいたいいつも夜の七時頃だった。ときどき一緒に家で夕食を摂った。ウィステリアが外国人教師を送りがてら、ふたりで駅前の蕎麦屋で食べるということもあった。けれど、どんなに遅くなっても外国人教師がそのまま家に泊まっていくことはなかった。（中略）（また明日へ続きます……）

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