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島尾敏雄『離脱』その1

2019-06-22 12:23:00 | ノンジャンル
 文芸月刊誌『群像』創刊70周年記念号「群像短篇名作選」に載っていた、島尾敏雄さんの1960年作品『離脱』を読みました。いくつかの場面を作品から抜粋すると……

 ぼくたちはその晩からかやをつるのをやめた。どうしてか蚊がいなくなった。妻もぼくも三晩眠っていない。(中略)
 その日、昼さがりに外泊から帰ってきたら、くさって倒れそうになっているけんにんじ垣の木戸にはかぎがかかっていた。胸がさわぎ、となりの金子の木戸からそっと自分の家のせまい庭にまわって、玄関や廊下をゆさぶってみたがかぎははずれそうにない。仕事部屋にあてた四畳半のガラス窓は、となりとの境の棒くいをたてただけの垣のすぐそばで、金子や青木の方からまるみえだが、ガラスの破れ目に目をあてて中を見ると、机の上にインキ壺がひっくりかえったままになっている。はっといきがつまり裏の台所にまわった。(中略)そのへんにありあわせた瓦のかけらで台所のガラス窓を一枚たたき割ると、じぶんのかっこうが犯罪者のそれと重なり、足の底からふるえがのぼってきた。ながしには食器がなげ出され、遂にその日が来たのだと思うと、からだもこころも宙吊りにされたようで、玄関につづく二畳のまから六畳を通って仕事部屋につっ立ったぼくの目に写ったのは、なまなましい事件の現場とかわらない。机と畳と壁に血のりのようにあびせかけられたインキ。その中にきたなく捨てられている僕の日記帳。(中略)そして妻の前に据えられ、ぼくにどこまでつづくか分らぬ尋問のあけくれがはじまった。

 「いったい、どういうのかしら」と妻は、くりかえし責めたててきた同じ問いかけのところにもどってきては、そう言う。「あなたの気持はどこにあるのかしら。どうなさるおつもり? あたしはあなたには不必要なんでしょ。だってそうじゃないの。十年間もがまんをしつづけてきたのですから、ばくはつしちゃったの。もうからだがもちません。見てごらんなさいこんなにがいこつのようにやせてしまって。あたしは生きていませんよ。(中略)」「おまえ、ほんとにどうしても死ぬつもり?」
「おまえ、などと言ってもらいたくない。だれかとまちがえないでください」
「そんなら名前でよびますか」
「あなたはどこまで恥知らずなのでしょう。あたしの名前が平気でよべるの、あなたさま、と言いなさい」
「あなたさま、どうしても死ぬつもりか」
「死にますとも。そうすればあなたには都合がいいでしょ。すぐその女のところへ行きなさい。(中略)」
「とにかく死なないでほしい」
「あなた、口だけでそんなことを言ってもね、あたしが死なないでもいいような保証ができる? 今までのあたしとはちがいますよ。お金がかかるわよ。あなたのような三文文士にあたしが養いきれるかしら」
「努力します」(中略)

 問答は昼もなく夜もなくつづき、妻は家事にとりかかることを思い出さない。(中略)尋問がとぎれると、こどもらの空腹が気になり、六つの伸一におかねを渡して、ごはんのかわりになるようなおまえとマヤの食べたいものを買っておいでと使いに出すと、笛のついたあめや焼麦の駄菓子など買ってくる。これじゃごはんにならないねえ伸一と言いながらちゃぶ台に座らせるが、いつのまにか棒あめをくわえくわえ外に行ってしまう。(中略)
「あなた軍隊ではそんなことばかり覚えてきたの」と妻は言うが、それは軍隊で、でなくて軍隊の前からだ。学生のころの或る日から、きたないことばかり考えはじめた。だがぼくはみたされたことはない。そこに傾く姿勢がリアリストにみせかけることができると思いこんでいた。妻の服従をすこしも疑わず、妻はぼくの皮膚の一部だとこじつけて思い、自分の弱さと暗い部分を彼女にしわよせして、それに気づかずにいた。(中略)
 夜がくると、こどもらは昼間着せられたもののまま、ふとんをかぶせられた。頬のあたりにおびえをのこして伸一もマヤも親たちのそれまでにはなかった異様な対峙を横目に見て、でもすぐ眠りにおちてしまう。それはいくらかぼくをなぐさめる。(中略)
「ほら、かわいそうでしょう。そのこどもたち。でもあたしはもうこどものせわはしませんよ。どうぞあなたがしてください」
 と言っていたかと思うと、いきなり立ちあがり、台所の板のまに坐りこんで動かない。妻からはなれてはいけないと思い、くっついて行っていっしょに坐っていると底の方から冷えてくる。からだに悪いと言っても耳をかさない。(中略)
 妻は「ちょっとおつかいに行ってきますからね」と言って玄関を出て行った。ぼくはうっかりそのまま出してしまった。(中略)そして切符売場の窓口にのぞきこむように何か話している妻のすがたが見えると、冷えた身うちにいきなり熱い血が逆流してくる。

(明日へ続きます……)

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