四元良隆&牧祐樹監督の2021年作品『テレビで会えない芸人』を「あつぎのえいがかんkiki」で観ました。
パンフレットの「ストーリー」に加筆修正させていただくと、
「鹿児島テレビ放送の副調整室、いわゆるサブ。複数のモニターに映し出されたのは、芸人・松元ヒロ(66歳)。かつては数々の番組に出演し人気を博したが、今、テレビで彼を見ることはできない。松本ヒロは、なぜ「テレビで会えない」のか? 「今のテレビは気楽に見られるもののほうが好まれる…」「やっぱり際どいネタを扱っているからでしょう…」「社会の“空気”なんですかね…」「クレームとかトラブルとか…まあ予防線は張っておきたいという…」。そう話す声の主は、報道制作局長、制作担当局長、制作部長といった鹿児島テレビの現場を取り仕切る幹部たち。
松元の舞台は年間120本。毎年春と秋に開催するソロ公演「ひとり立ち」はいつも満員。チケットは入手困難。これほど人気があるのに、なぜ━━。2019年3月、鹿児島テレビのクルーが取材を始めた。「番組で使っていいところ、悪いところってあると思います?」と尋ねる監督に、「それを考えながらテレビに出るのがイヤなんです」と松元。この日、車で向かったのは東京・西東京市の貸スタジオ。「ひとり立ち」の春公演を数週間後に控え、稽古の真っ最中だ。「チケットは、ほぼ完売です。最初のころは本当にテレビに出たくてやっていた。今はテレビに出なくても、わたし生きていけますよ、というのがすごく嬉しいんです」。131冊目になるギャグノートにはアイデアが書きこまれ、新聞の閣僚一覧の切り抜きなどが貼り付けてある。演目は毎回、新しいネタを入れて構成され、政治など時事問題の風刺から本や映画を題材にいsたものなど多岐にわたる。
5時間に及ぶ稽古の合間に、妻・俊子さんの手作りおにぎりをほおばる。「カミさんが作ったメシじゃないとダメなんです。食べ物は保守的」とスタッフを笑わせた、大学時代、映画のチャールズ・チャップリンに憧れた松元。パントマイム教室で俊子と出会い、26歳のときに結婚。経済的な困難も二人で乗り越えてきた。1983年、31歳でコミックバンド「笑パーティー」を結成し、テレビ番組「お笑いスター誕生!!」ではダウンタウンなどを抑えて優勝。37歳のときに立ち上げた社会風刺コント集団「ザ・ニュースペーパー」では、日々のニュースを笑いに変え、テレビにも出演した。しかし、一人息子の大地さんはいつの間にか松元が出る番組を見なくなっていった。「どうせ同じことをやっているだけなんだし」。そんな息子の一言が松元を変えた。「息子に胸を張れない仕事はよくない」。テレビで面白いことをただ言うだけだったら自分じゃなくてもいい、もっとはっきりとモノを言いたいと、46歳のときに独立。松元のソロ活動に俊子さんも協力した。「最初から信念や思想があったわけじゃないんです」と夫婦二人、笑ってみせた。
松元が舞台直前に必ず足を運ぶ場所がある。東京・渋谷ぬある理容室「ウッセロ」。店の壁に額に入った永六輔の言葉が飾ってある。「生きているということは誰かに借りをつくること 生きてゆくということはその借りを返してゆくこと」。「ザ・ニュースペーパー」を観た永が、松元を自身のラジオ番組に呼んだ。テレビ創成期から活躍した永だったが、晩年はテレビから距離を置き、旅をしながらラジオを中心に活動を続けた。その永が常連だった店で散髪してもらう松元。「いつもこれで自信をもって舞台に立てるんです」。
迎えたソロ公演の初日。東京・新宿の紀伊國屋ホールに向かう車中、ハンドルを握る松元にネタで笑いにすることの境界線を訊くと、「人間性の否定はしたくない。でも、権力者が弱者を笑うなら、弱者の立場からその人を笑いたい。そういう意味では覚悟をもっています」と答えた。この日の400席も完売。会場内は、松元のステージを楽しみに待つ大勢の客で賑わっていた。幕が上がった。大きな拍手が松元を迎える。松元が政治や社会情勢を小気味よく斬るたびに会場は沸き、麻生太郎のモノマネをしながら連発するジョークに何度も拍手と笑いが起きる。続いて、今回のメイン、ノンフィクション「こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち」(渡辺一史)を題材とした演目へ。本番直前まで、どう表現すべきか苦悩していた演目だ。「必要なことは人に手伝ってもらうこと。健常者だって、みんな、助け合いながら生きているだろう!」。松元が発する主人公のセリフは力強く、最終稽古のときの迷いは微塵も感じられない。会場に溢れる温かな拍手を背に、舞台を後にする。楽屋には、息子・大地さん(39歳)の姿があった。父の仕事について、「他にはいないから何をしているか説明しづらいけど、そんじょそこらのお笑い芸人よりは誇れます」と話した。
(明日へ続きます……)
パンフレットの「ストーリー」に加筆修正させていただくと、
「鹿児島テレビ放送の副調整室、いわゆるサブ。複数のモニターに映し出されたのは、芸人・松元ヒロ(66歳)。かつては数々の番組に出演し人気を博したが、今、テレビで彼を見ることはできない。松本ヒロは、なぜ「テレビで会えない」のか? 「今のテレビは気楽に見られるもののほうが好まれる…」「やっぱり際どいネタを扱っているからでしょう…」「社会の“空気”なんですかね…」「クレームとかトラブルとか…まあ予防線は張っておきたいという…」。そう話す声の主は、報道制作局長、制作担当局長、制作部長といった鹿児島テレビの現場を取り仕切る幹部たち。
松元の舞台は年間120本。毎年春と秋に開催するソロ公演「ひとり立ち」はいつも満員。チケットは入手困難。これほど人気があるのに、なぜ━━。2019年3月、鹿児島テレビのクルーが取材を始めた。「番組で使っていいところ、悪いところってあると思います?」と尋ねる監督に、「それを考えながらテレビに出るのがイヤなんです」と松元。この日、車で向かったのは東京・西東京市の貸スタジオ。「ひとり立ち」の春公演を数週間後に控え、稽古の真っ最中だ。「チケットは、ほぼ完売です。最初のころは本当にテレビに出たくてやっていた。今はテレビに出なくても、わたし生きていけますよ、というのがすごく嬉しいんです」。131冊目になるギャグノートにはアイデアが書きこまれ、新聞の閣僚一覧の切り抜きなどが貼り付けてある。演目は毎回、新しいネタを入れて構成され、政治など時事問題の風刺から本や映画を題材にいsたものなど多岐にわたる。
5時間に及ぶ稽古の合間に、妻・俊子さんの手作りおにぎりをほおばる。「カミさんが作ったメシじゃないとダメなんです。食べ物は保守的」とスタッフを笑わせた、大学時代、映画のチャールズ・チャップリンに憧れた松元。パントマイム教室で俊子と出会い、26歳のときに結婚。経済的な困難も二人で乗り越えてきた。1983年、31歳でコミックバンド「笑パーティー」を結成し、テレビ番組「お笑いスター誕生!!」ではダウンタウンなどを抑えて優勝。37歳のときに立ち上げた社会風刺コント集団「ザ・ニュースペーパー」では、日々のニュースを笑いに変え、テレビにも出演した。しかし、一人息子の大地さんはいつの間にか松元が出る番組を見なくなっていった。「どうせ同じことをやっているだけなんだし」。そんな息子の一言が松元を変えた。「息子に胸を張れない仕事はよくない」。テレビで面白いことをただ言うだけだったら自分じゃなくてもいい、もっとはっきりとモノを言いたいと、46歳のときに独立。松元のソロ活動に俊子さんも協力した。「最初から信念や思想があったわけじゃないんです」と夫婦二人、笑ってみせた。
松元が舞台直前に必ず足を運ぶ場所がある。東京・渋谷ぬある理容室「ウッセロ」。店の壁に額に入った永六輔の言葉が飾ってある。「生きているということは誰かに借りをつくること 生きてゆくということはその借りを返してゆくこと」。「ザ・ニュースペーパー」を観た永が、松元を自身のラジオ番組に呼んだ。テレビ創成期から活躍した永だったが、晩年はテレビから距離を置き、旅をしながらラジオを中心に活動を続けた。その永が常連だった店で散髪してもらう松元。「いつもこれで自信をもって舞台に立てるんです」。
迎えたソロ公演の初日。東京・新宿の紀伊國屋ホールに向かう車中、ハンドルを握る松元にネタで笑いにすることの境界線を訊くと、「人間性の否定はしたくない。でも、権力者が弱者を笑うなら、弱者の立場からその人を笑いたい。そういう意味では覚悟をもっています」と答えた。この日の400席も完売。会場内は、松元のステージを楽しみに待つ大勢の客で賑わっていた。幕が上がった。大きな拍手が松元を迎える。松元が政治や社会情勢を小気味よく斬るたびに会場は沸き、麻生太郎のモノマネをしながら連発するジョークに何度も拍手と笑いが起きる。続いて、今回のメイン、ノンフィクション「こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち」(渡辺一史)を題材とした演目へ。本番直前まで、どう表現すべきか苦悩していた演目だ。「必要なことは人に手伝ってもらうこと。健常者だって、みんな、助け合いながら生きているだろう!」。松元が発する主人公のセリフは力強く、最終稽古のときの迷いは微塵も感じられない。会場に溢れる温かな拍手を背に、舞台を後にする。楽屋には、息子・大地さん(39歳)の姿があった。父の仕事について、「他にはいないから何をしているか説明しづらいけど、そんじょそこらのお笑い芸人よりは誇れます」と話した。
(明日へ続きます……)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます