また昨日の続きです。
「二日後、義父が保証人になってくれたおかげで本契約を結ぶことができた。(中略)
(そして由花と)面接をすると、果たして現れたのは、身長百八十センチの大女だった。(中略)
『一生懸命働かせてもらいます』
『うん。頑張ってください』
ついそう答えていた。これで断る勇気もない。(中略)
退職日が来て、和宏は十日ぶりに元の職場を訪れた。総務部でいろんな書類にサインをして、その場で社員証を返却した。『長い間、ご苦労様でした』とかしこまって言われ、ああ、これで自分は大興堂と無関係の人間になったのだと、一抹の寂寥感(せきりょうかん)が湧いてきた。(中略)
夜になると、社内の有志が送別会を開いてくれた。参加人数は十名ほどだった。セレモニーの類(たぐい)が苦手なので、和宏にはありがたかった。どうせ会いたい人間とは、この先も関係が続いていく。(中略)
会社の近くの店が会場だったので、途中、女子社員たちが冷やかしに来た。『中井さん、会社辞めたら雇ってくださいね』みなが口々に言う。花束を手渡され、ジンときてしまった。
各部署に散っている同期が二次会から現れ、最後は即席の同期会となった。同期入社は十二人いたが、今では七人しかいない。
『おれたちが下請けにしてることを、今度はおまえがやられるんだぞ』
『ああ……そうだな』言われてみればそうだと思った。
『キックバックを要求されたらどうする』
『まあ、払うだろうな』
『ほら、そのいやそうな顔。クライアントはカチンとくるぞ』
『じゃあこうか』
福助のような笑顔を作り、みなにウケる。(中略)
すぐ近くのオフィスに引っ越すだけなのに、大袈裟に全員と抱擁した。十五年間、ずっと競争させられてきた。その仲間たちだ。
タクシーに乗って、見送られた。手を振りながら、和宏はこの先、人を大切にしようと強く思った。最後にものを言うのは、損得より人情だ。
六人分の机と椅子と、作業用テーブルと、応接セットを入れたら、殺風景だった空間がいきなり会社らしくなった。(中略)
数日遅れて、岡崎が正式に社員となった。入社年次が浅いため、簡単に辞められたらしい。(中略)
昨日は望月から国際電話があった。仕事が長引いて帰国が遅れるらしい。相変わらず呑気そうな声で『最後だから経費遣いまくります』と言っていた。(中略)
『始業時間は何時ですか』由花が聞いた。
『何時にしようか』
『社長が決めてください』
『ああ、そうだな』
社員に初めて『社長』と呼ばれ、お尻の辺りがこそばゆくなる。
『常識的な線で午前九時にするか。終業は午後六時。昼休みは……』
和宏は答えながら、これからはすべて自分が決めていいのだと思い、胸がふくらんだ。(中略)
和宏は早速挨拶回りに出ることにした。まずは大興堂時代に仕事をした企業の担当者に会いに行く。引継ぎのときに起業のことは話してあるので、今度は売込みだ。(中略)
『御社にふさわしい事業プランのご提案です。わたくしへの祝儀と思ってぜひお目通しを願います』
『おお、いきなり』先方が驚いている。
『小さな会社ですのでフットワークが命です。自社の企画課か何かのつもりで、気軽に呼びつけてください』
『はは、ずいぶん腰が低いじゃない。ま、お手並み拝見させてもらいますよ』
概(おおむ)ね好感触だったが、中には早くもリベートを求める担当者もいた。(中略)
そして、いちばん当てにしているフジヤマ飲料へ行った。ここには大学時代の先輩がいて、イベントを任せてくれる約束になっている。和宏としては、できるだけ早く仕事を現実化し、会社の運転資金としたい。
ところが、応接室に現われた先輩は、やけに態度がよそよそしく、貧乏ゆすりをしながら、『例の件だけどな、ちょっとまずいことになった。まあ、長いスパンでやろう』と耳を疑うことを言った。(中略)
『どういうことですか』
『うちの上が、大興堂の原田部長に言いくるめられたらしく、中井の会社と取引するのは少し待てって━━』
『えっ。原田部長が?』
和宏は絶句した。同時に血の気がするすると引いていく。なぜイベントの件を知ったのか……。
『たぶん、なにがしかのリベートが回ったんだと思う。だから、予算一億の例の企画、大興堂がやることになった』
小川の顔が浮かんだ。しまった。奴に話していた。『それはないでしょう。企画書を書いたのはぼくですよ』目を剥いて抗議した。
『おれもそう思う。でも原田さんに言わせると、大興堂に在職中、提出されたものは大興堂の企画だという主張だ』
『そんな無茶苦茶な』(中略)なんということか。船出を前にして最大の誤算が起きてしまった。
『独立する人間はな、たいてい古巣からの嫌がらせに遭(あ)うんだよ(中略)中井、気を落とすな。この穴埋めは必ずする』先輩が肩をたたいた。
『お願いします』頭を下げ、辞去した。(中略)」(また明日へ続きます……)
「二日後、義父が保証人になってくれたおかげで本契約を結ぶことができた。(中略)
(そして由花と)面接をすると、果たして現れたのは、身長百八十センチの大女だった。(中略)
『一生懸命働かせてもらいます』
『うん。頑張ってください』
ついそう答えていた。これで断る勇気もない。(中略)
退職日が来て、和宏は十日ぶりに元の職場を訪れた。総務部でいろんな書類にサインをして、その場で社員証を返却した。『長い間、ご苦労様でした』とかしこまって言われ、ああ、これで自分は大興堂と無関係の人間になったのだと、一抹の寂寥感(せきりょうかん)が湧いてきた。(中略)
夜になると、社内の有志が送別会を開いてくれた。参加人数は十名ほどだった。セレモニーの類(たぐい)が苦手なので、和宏にはありがたかった。どうせ会いたい人間とは、この先も関係が続いていく。(中略)
会社の近くの店が会場だったので、途中、女子社員たちが冷やかしに来た。『中井さん、会社辞めたら雇ってくださいね』みなが口々に言う。花束を手渡され、ジンときてしまった。
各部署に散っている同期が二次会から現れ、最後は即席の同期会となった。同期入社は十二人いたが、今では七人しかいない。
『おれたちが下請けにしてることを、今度はおまえがやられるんだぞ』
『ああ……そうだな』言われてみればそうだと思った。
『キックバックを要求されたらどうする』
『まあ、払うだろうな』
『ほら、そのいやそうな顔。クライアントはカチンとくるぞ』
『じゃあこうか』
福助のような笑顔を作り、みなにウケる。(中略)
すぐ近くのオフィスに引っ越すだけなのに、大袈裟に全員と抱擁した。十五年間、ずっと競争させられてきた。その仲間たちだ。
タクシーに乗って、見送られた。手を振りながら、和宏はこの先、人を大切にしようと強く思った。最後にものを言うのは、損得より人情だ。
六人分の机と椅子と、作業用テーブルと、応接セットを入れたら、殺風景だった空間がいきなり会社らしくなった。(中略)
数日遅れて、岡崎が正式に社員となった。入社年次が浅いため、簡単に辞められたらしい。(中略)
昨日は望月から国際電話があった。仕事が長引いて帰国が遅れるらしい。相変わらず呑気そうな声で『最後だから経費遣いまくります』と言っていた。(中略)
『始業時間は何時ですか』由花が聞いた。
『何時にしようか』
『社長が決めてください』
『ああ、そうだな』
社員に初めて『社長』と呼ばれ、お尻の辺りがこそばゆくなる。
『常識的な線で午前九時にするか。終業は午後六時。昼休みは……』
和宏は答えながら、これからはすべて自分が決めていいのだと思い、胸がふくらんだ。(中略)
和宏は早速挨拶回りに出ることにした。まずは大興堂時代に仕事をした企業の担当者に会いに行く。引継ぎのときに起業のことは話してあるので、今度は売込みだ。(中略)
『御社にふさわしい事業プランのご提案です。わたくしへの祝儀と思ってぜひお目通しを願います』
『おお、いきなり』先方が驚いている。
『小さな会社ですのでフットワークが命です。自社の企画課か何かのつもりで、気軽に呼びつけてください』
『はは、ずいぶん腰が低いじゃない。ま、お手並み拝見させてもらいますよ』
概(おおむ)ね好感触だったが、中には早くもリベートを求める担当者もいた。(中略)
そして、いちばん当てにしているフジヤマ飲料へ行った。ここには大学時代の先輩がいて、イベントを任せてくれる約束になっている。和宏としては、できるだけ早く仕事を現実化し、会社の運転資金としたい。
ところが、応接室に現われた先輩は、やけに態度がよそよそしく、貧乏ゆすりをしながら、『例の件だけどな、ちょっとまずいことになった。まあ、長いスパンでやろう』と耳を疑うことを言った。(中略)
『どういうことですか』
『うちの上が、大興堂の原田部長に言いくるめられたらしく、中井の会社と取引するのは少し待てって━━』
『えっ。原田部長が?』
和宏は絶句した。同時に血の気がするすると引いていく。なぜイベントの件を知ったのか……。
『たぶん、なにがしかのリベートが回ったんだと思う。だから、予算一億の例の企画、大興堂がやることになった』
小川の顔が浮かんだ。しまった。奴に話していた。『それはないでしょう。企画書を書いたのはぼくですよ』目を剥いて抗議した。
『おれもそう思う。でも原田さんに言わせると、大興堂に在職中、提出されたものは大興堂の企画だという主張だ』
『そんな無茶苦茶な』(中略)なんということか。船出を前にして最大の誤算が起きてしまった。
『独立する人間はな、たいてい古巣からの嫌がらせに遭(あ)うんだよ(中略)中井、気を落とすな。この穴埋めは必ずする』先輩が肩をたたいた。
『お願いします』頭を下げ、辞去した。(中略)」(また明日へ続きます……)