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奥田英朗『ヴァラエティ』その4

2018-07-10 07:13:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
「夜十時を過ぎて家に帰ると、久美子が庭の物置の整理をしていた。(中略)
 ダイニングルームで、鮭茶漬けをすすった。熱いお茶が胃袋に沁(し)みる。
『仕事は順調だから心配しなくてもいいぞ』
 和宏が言った。本日に限っては大嘘(おおうそ)だが、こう言うよりほかはない。
『そう。よかった』(中略)
 今日、会社に帰ってから小川の携帯に電話を入れた。原田と小川がどういうつもりなのか、聞かずにはいられなかったからだ。小川は明るさを装った口調で、『ぼくもよく知らないんです』とごまかした。『会社は順調ですか』と白々しい言葉も吐いた。こいつはもう原田の犬だと判断して、元同僚に探りを入れてもらうと、原田は『中井がおれの顔に泥を塗った』と周囲に言い触らしていて、どうやら逆恨み状態にあるらしいことが判明した。(中略)
『何よ、パパ。ため息なんかついて』久美子が言った。
『うそ。ため息なんかついた?』
『今ついたじゃない。フウって』
『お茶漬け食べて一息ついたからだろう』なんとか取り繕った。
この先、会社のことは家に持ち込めないな、と和宏は自分に言い聞かせた。暗い顔をしていたら、久美子があれこれ勘(かん)ぐりそうだ。(中略)

翌日、和宏は、元同期からさらによくないニュースを聞いた。契約社員の望月に、正社員にならないかと持ちかけているというのだ。(中略)
相談相手がいないので、どうしてもいろいろな想像をした。一連のいやがらせは、独立起業してテリトリーを荒らす人間はこういう目に遭うという、社内への見せしめなのだろうか。だとしたら、今後も妨害をしてくることになる。ちっぽけな代理店など、それでアウトだ。生き残る道は大興堂の下請けになるしかない。もしかして、原田の目的はそれなのか。和宏を軍門に下らせ、溜飲(りゅういん)を下げたいのだろうか。
すっかり意気消沈した。(中略)
『社長、社長』由花の声がした。『どうかしたんですか』机の前に塔のように聳え立っていた。
『ううん。どうもしないけど、なんで?』
『呼んでも返事をしていただけないので』
『ああ、いや、ごめん。何かな』
『当社のホームページ作りですが、何かあらかじめ指示はありますか』
『とりあえず自分でやってみて。あとでチェックする』
 ここで落ち込んではいられないと、和宏は自分に気合を入れた。企画書を携えて、営業に出る。前に進むしかない。自分は社長だ。

 起業して思うことは、社長は孤独だということだった。弱音を吐ける相手がいないのである。(中略)
 そして行く先々で、和宏は健康を気遣われた。(中略)要するに、和宏に倒れられて困る人間が家族以外に増えたということなのだ。(中略)
 単発の仕事はいくつか得られたが、フジヤマ飲料の代替となるような契約は望むべくもなかった。フリーのプランナーでも請けられる仕事ばかりだ。和宏は毎日デスクで電卓をたたき、青くなった。
 こうなると社員のコネでも欲しくなる。だから採用面接に少なからず期待をかけたのだが、やってくるのは見事にクズばかりで、途中から履歴書を一瞥(いちべつ)しただけで『はいご苦労様』と言いたくなった。(中略)
 望月とはいまだ連絡が取れなかった。やはり大興堂の正社員になる道を選んだのだろうか。それにしても電話一本よこさないとは━━。見損なったと一人で憤慨(ふんがい)した。
 食欲がなくなり、体重が落ちた。一日で二キロも落ちるのだ。女たちのダイエットとは、いかに平和な趣味であることか。
 当然、夜は寝つきが悪い。隣の布団で寝る久美子がいつまでも寝返りを打つのが気になり、ますます眠れなくなった。(中略)
 社長はつらい。植木等が唄った『サラリーマンは気楽な稼業(かぎょう)ときたもんだ』という台詞は実に正しいと思った。売り上げゼロでも損を出しても、給料をもらえるのだ。
 そんな和宏の苦境を察したのか、岡崎が自ら企画を立て、独自のルートで営業を始めた。
『学生時代の仲間に不動産業界が多いので、物件検索サイト運営のサポートで営業かけたいんですが、動いてもいいですか?』
『いくらだって動いてくれ』
 由花も自分から意見を言った。
『わたし、背の高い女の子のネットワークならありますが、牛乳のキャンペーンとか、タワーマンションの販促とか、何かに使えませんかね』
『それ、いただきます』
 和宏は感激し、おれは絶対に社員を守るぞと決意した。

 努力の甲斐(かい)あって、少しずつ仕事の約束が取れてきた。当初の見込みは大きく下回っているが、半年でアウトだったのが一年ぐらいはもつ算段が立つようになった。
 社員募集にクズが殺到したせいで採用を見送ったのが幸いした。人件費は馬鹿にならない。(中略)」(また明日へ続きます……)