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文藝別冊『KAWADE夢ムック 大島渚 〈日本〉を問いつづけた世界的巨匠』

2013-08-22 18:13:00 | ノンジャンル
 中川信夫監督の'69年作品『妖艶毒婦伝・お勝兇状旅』をスカパーの東映チャンネルで見ました。筋立てや登場人物は前作の『妖艶毒婦伝・人斬りお勝』とあまり変わりありませんでしたが、残虐さが薄れ、画面も凡庸になった印象でした。

 さて、'13年に刊行された文藝別冊『KAWADE夢ムック 大島渚 〈日本〉を問いつづけた世界的巨匠』を読みました。大島渚さんが亡くなってから作られた本です。
 目次をそのまま書き写させていただくと、[未発表講演・対談、単行本未収録エッセイ]として、「大島渚・講演 ニューヨーク1972『なぜアメリカに来られなかったのか』」、「大島渚×アレクサンドル・ソクーロフ 母・家・日本」、「『日本の夜と霧』と『新演』の人々」、「変革の論理を」。そして、ベルナルド・ベルトルッチ、ヴィム・ヴェンダースの弔辞、マーティン・スコセッシの手紙。そして以降は寄稿文で、篠田正浩「座興軸は逆だったが出発点は同じだった」、松本俊夫「地殻変動のカオスの中で」、吉田喜重「同時代を模索した映画人 大島渚監督を悼む」、高橋治「新たな破壊者の時代」、小山明子「自分の第一作を原点に」、福田善之「『日本の夜と霧』と演劇」、小池信雄「早大劇研から見た『日本の夜と霧』」、湯浅譲二「湯浅譲二的映画音楽作成法」、葛井欣士郎「ATGに貢献してくれた最高の監督」。そして[大島渚とともに]の副題のもとで、小笠原清「創造社時代の助監督として」、呉徳洙「なぜ在日にこだわったのか」、野々村政行「大島組のカメラマンとして」、成田祐介「『愛の亡霊』と『御法度』の助監督として」、川津祐介「『一緒にやろうね』と大島さんは言ってくれた」、緑魔子「『帰って来たヨッパライ』に出演して」、大久保鷹「風景論としての『新宿泥棒日記』」。[対談]として、足立正生×四方田犬彦「『日本』と対決しつづけた前衛」。[監督から見た大島渚]という副題のもとに、山際永三「大島渚さんとその時代」、伊藤俊也「大島さん、と呼びかけてみる」、内藤誠「吹き来る風が私に云ふ」、金井勝「大島渚監督が与えてくれたもの」、テオ・アンゲロプロス「挨拶」、李長鎬「あなたはどんな世代ですか?」、呉子牛「敬意を表する 大島渚監督に」、婁イエ「大島渚に」。[論考・エッセイ]として、色川大吉「大島渚さんとのこと」、松田政男「出会いと訣れ」、海老坂武「回想の中の大島渚」、菅孝行「大島渚と1960年代」、今野勉「大島渚とテレビ」、原將人「国家と対峙する映画 大島渚論」、アンニ「自分を問い続ける映像思想家」、友常勉「キュニコスの勝利」、ファン・ホドク「『もっと朝鮮人らしく』、芝居としての『在日』 大島渚、法を超える文法」、マニュエル・ヤン「青春とブルジョア革命の戦場 大島渚映画の拠点としての学生運動」、高橋宏幸「演劇と運動、そして大学と党」、酒井隆史「『日本の夜と霧』をめぐる覚書」、アルベルト・トスカーノ「出口なき左翼のために 『日本の夜と霧』」、宇野邦一「『春歌考』の閃き」、ニコル・ブルネーズ「文体のシンプルさ、政治的な急進性 大島渚『日本映画の百年』」、デニス・リム「大島渚、因習打破の映画監督、80歳で死す」、ジェフリー・ノエル=スミス「讃辞」、キム・ソンウク「大島渚回顧展の記憶」。そして巻末にフィルモグラフィーが掲載されています。
 この本を読んで特記しておきたいことは、大島さんが6歳の時に父を亡くしていること、「自分が作品をつくる時、やはり表現したいからつくるんですけれども、それと同時に隠したいというところもあります」「自分がかくしているものを発見するために映画をつくるのかもしれない」という大島さんの発言、1927年にソヴィエトが革命十周年の時に城戸四郎が二世市川左団次らと日本の歌舞伎を代表してモスクワに行ったこと、「子供が社会悪を背負うという点で『少年』と『生まれてはみたけれど』が通底している」という篠田さんの発言、『日本の夜と霧』で台詞が噛んでもフィルムを回したのはフィルムが無駄になることを監督が嫌ったからだという小山さんの発言、大島監督が大友克洋の『童夢』を映画化する計画があったこと、映画監督にとっては一作一作が一里塚であり記念碑でもあるが、テレビ界では長いシリーズの中で制作のチャンスが繰り返し訪れるということなどでした。それにしても、これほど画面に言及しない映画の本も珍しいと思いました。

 →Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto