うたことば歳時記

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

『富岡日記』 高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2021-01-09 18:37:48 | 私の授業
富岡日記


原文
 さて私共一行は、皆一心に勉強(努力すること)して居りました。中に病気等で折々休む人もありましたが、まづ打揃ふて精を出して居ります。何を申しましても、国元へ製糸工場が立ちますことになって居りますから、その目的なしに居る人々とは違ひます。その内に一等工女になる人があると大評判がありまして、西洋人が手帖を持って中廻りの書生(見回りの男工?)や工女と色々話して居ますから、中々心配でなりません。
 その内に、ある夜取締の鈴木さんへ呼出されまして、段々(順に)申付けられます。私共は実に心配で、立ったり居たり致して居りますと、その内に呼出されました。「横田英 一等工女申付候事」と申されました時は、嬉しさが込上げまして涙がこぼれました。一行十五人(その以前坂西たき子は病気で帰国致されました) の内、たしか十三人まで申付けられましたやうに覚えます。呼出しの遅れました人は泣出しまして、依怙贔屓(えこひいき)だの顔の美しい人を一等にするのだのとさんざん申して、後から呼出しが来て申付けられました時は、先に申付けられた人々で大いぢめ大笑ひ、しかし一同天にも昇る如く喜びました。残った人は皆年の少い人で、中には未だ糸揚げをして居た人もありました。月給は、一等一円七十五銭、二等一円五十銭、三等一円、中廻り二円でありました。
 一等工女になりますと、その頃は百五十釜でありまして、正門から西は残らず一等台になりました。私は西の二切目の北側に番が極(き)まりまして、参って見ますと、私の左釜が前に申述べました静岡県の今井おけいさんでありましたから、私の喜びは一通りではありません。また今井さんも非常に喜んで下さいました。その日から出るも帰るも手を引合ひまして、姉妹も及ばぬほど睦(むつま)しく致して居りました。・・・・
 この台へ参りましてから、業も実に楽になりました。繭は一等でありますから大きい揃ったので、たちも宜(よろ)しゅうありますから、毎朝繰場(くりば)へ参るのが楽しみで、夜の明けるのを待兼ねる位に思ひました。皆同じことだと存じます。

解説
 『富岡日記(とみおかにつき)』は、富岡製糸場操業開始以来、伝習工女として勤務した横田英(えい)(結婚後は和田英、1857~1929)の、一年三カ月にわたる富岡製糸場勤務の回想録です。これは明治四十年(1907)から明治四二年に、病気の母を慰めるために書かれました。『富岡日記』という書名は後に付けられたもので、原題は「明治六七年松代出身工女富岡入場中之略記」といいます。富岡を出てから三十年後の記述ですから、多少の記憶違いはあるでしょうが、身内のために出版公表を意図せずに書いたものですから、信憑性(しんぴようせい)の高い歴史史料です。
 富岡製糸場建設は、幕末以来、輸出品の第一位である生糸の品質向上を目的とした、国家的期待を背負った大工事でした。明治初年の総輸出額における生糸類の割合は、四割を維持していましたから(明治1~5年56.8%、6~10年45.6%、11~15年43.2%、『横浜市史』による)、明治時代の近代化は、生糸輸出の利益によって実現されたと言っても過言ではありません。富岡製糸場が完成したのは明治五年(1872)七月のこと。機械はフランスから輸入し、指導者もフランス人でした。
 工女たちは、初めは士族の子女が中心でした。それは工女を募集しても応募が少なく、政府が士族や華族に働きかけたからで、井上馨の姪も工女となっています。英は、士族の娘は「上品で意気な風」であると記しています。士族の矜持がそうさせたのでしょう。
 英の実家の横田家は、信州松代藩十万石真田家に仕える中級武家でした。英は松代を発つ時に父から言われた言葉を、次のように記しています。「さてこの度(たび)国の為にその方を富岡製糸場へ遣はすについては、よく身を慎み、国の名、家の名を落さぬやうに心を用ふるやう、入場後は諸事心を尽して習ひ、他日この地に製糸場を出来(しゆつたい)(完成)の節、差支(さしつか)へこれ無きやう覚え候やう、仮初(かりそめ)にも業を怠るやうのことなすまじく、一心に励みまするやう気を付くべく・・・・」というのです。父は松代に製糸場を開設するつもりでしたから、指導的な立場になって帰って来ることを期待する、横田家の事情もあったでしょう。英も期待に応えて、目標を自覚しつつ勉励しています。また横田英らが退所する時には、初代場長の尾高惇忠(あつただ)(渋沢栄一の従兄)が、これから英たちが働く新たな製糸場内に額装して飾るようにと、「繰婦勝兵隊」(繰婦は兵隊に勝(まさ)る)と大書した書き物を贈ったことに対して、英は「私共身に取りましては折紙(価値の高いことの証明)とも申すべき御書物(おんかきもの)を頂き」と喜んでいます。このように十代の乙女たちが、国家的使命を自覚する気概や矜持を持っていました。英と共に松代からやってきた工女は全部で十六人。一番若くて十三歳(異説あり)、最年長で二五歳、英は十七歳でした。
 英がそのような自覚を持っていたことについては、多分に横田家の教育的家風の影響がありそうです。家を出発するに際して、姉や下男が別れの和歌を詠んでくれたり、弟の横田秀雄が後に大審院長となったり、同じく弟の横田謙次郎(小松謙次郎)が後に貴族院議員や鉄道大臣になるなど、横田家の教育水準は大層高いものでした。秀雄の子の正俊は、後に最高裁判所長官にまでなります。
 ここに載せたのは、横田英らが念願の一等工女を申し付けられた場面です。一等工女と認められるには、一日に四~五升の繭を糸に引かなければならないのですが、英はついには八升も取るほどに腕を上げたと書いています。
 生糸の一本は、数個の繭から同時に取り出す数本の極微細な糸から成っています。ですから一度に糸を採る繭の数を増やせば、繭の使用量は増えるのですが、多すぎると生糸が太くなったり切れやすくなります。英によれば、生糸一本につき同時に四~五個の繭から糸を取るのがよいとしています。一つの繭の糸の長さは、私が実際に計測したところ、約千三百mありました。そして透けて中の蛹(さなぎ)が見える程に繭が薄くなると、蛹(さなぎ)が釜に落ないうちに新しい繭に付け替えます。また糸が切れると、つなぎ目がわからないようにつながなければなりません。工女一人は大枠を二~三個受け持ち、それぞれに小枠が四個ありますから、同時に十本前後の糸を取っています。糸を切らずに、また釜の湯の中に蛹を落として湯が汚れないようにするには、細心の注意が要求されました。
 月給は一等工女で一円七五銭と記されています。明治四年(1871)制定の新貨条例により、一円金貨には金が一・.五g含まれるものとされていました。現代の金の価格が仮に一gで八千円とすると、一円金貨は一万二千円ですから、月給一円七五銭は約二万一千円程度のことです。社会状況が全く異なり、換算する物により異なりますから、単純な比較はできませんが、現代の感覚なら決して十分なものではありませんでした。しかし給与の低さに不平を漏らす場面は見当たりません。気の休まる暇もない大変な仕事であるにもかかわらず、文章の行間からはみ出す様な、最先端の技術を習得する喜びの方が優っていました。もっとも指導するフランス人の首長であるブリューナの月給は六百円、賄料月百五十円という厚遇で、工女の給料とは雲と泥との差がありました。
明治の日本の近代化を陰で支えた製糸・紡績女工達の労働環境については、後の『女工哀史』や『あゝ野麦峠』に語られる、悲惨な実態がありましたが、最初はこのように工女達が勤労に矜持を持ち、かつ希望に胸を膨らませて励んでいた時期があったのです。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『富岡日記』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。