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自由、die Freiheit

2011年03月17日 | サ行
 語の由来

 01、福沢諭吉は『西洋事情』を書くにあたってリバーティという言葉を、「自由」と訳した。はじめは「御免」と訳そうとした。「殺生(せっしょう)御免の場所」といえば、魚つりなどしてよろしき場所ということだからほぼあたらずとも遠からずだが、それではなんだか権力者から御慈悲でゆるされているようで語感がおもしろくない。福沢はこれを仏教語からとって自由とし、自由は万人にそなわった天性であると説明した。さらに政治の自由、開版(出版)の自由、宗旨の自由などを説いた。

 権理(right)は、福沢は最初「通義」といっていたがどうもちがうと思い、この訳を用いるようになった。「人間の自由はその権理である。人間はうまれながら独立して束縛をうけるような理由はなく、自由自在なるべきものである」というように福沢はその幕末における著述で説明している。(司馬遼太郎『峠』新潮文庫中巻418-9頁)

 感想・多分、「自分に由る」という事でこの訳語を選んだのでしょう。『例文仏教語大辞典』(石田瑞麿著、小学館)には「禅宗で、自らに由る」とあります。

  参考

 01、自己意識の自由は観念内の自由であり、純粋観念を真理としており、生命の充実がない。これは自由の概念であって、生きた自由そのものではない。(精神現象学153頁)

 02、概念は実体の真理である。そして、実体の規定された関係様式が必然性なのだから、自由は必然性の真理であり、概念の関係様式である。(大論理学第2巻214頁)

 03、自由、それは概念の持つ同一性である。(大論理学第2巻218頁)

 04、もしここで規定されたような面が、即ち自分の置かれた状況や自分の立てた規定がどんなものでも捨象出来るという面が自由だと思われているとするならば、それは否定的な自由であり、悟性的な自由である。それは「空虚の自由」である。(法の哲学第5節への注釈)

 05、自由の具体的概念──自己を制限する事の中で尚自己の許に留まること。その感覚的な例は、友情と愛情である。(法の哲学第7節への付録)

 06、恣意の中では、全てを捨象しうる反省と内的に与えられた内容や素材への依存(即ち外的に与えられた内容や素材への依存)との2契機が含まれている。つまり、本来は目的として必然的な内容が、同時にその反省にとっては可能的な内容と規定されている。だから、恣意は「意志として現れた偶然性」なのである。(法の哲学第15節)

 07、恣意は「矛盾としての意志」である。(法の哲学第15節への付録)
 08、自由の主観性、知と意志(法の哲学第258節への注釈)

 09、形式的で主観的な自由、即ち個々人が、個人として、普遍的な事柄に関して、自分自身の判断なり考えなり提案なりを持ち、それを発表する自由は、「世論」と言われる合成物の中に現れる。(法の哲学第316節)
 10、自由というのは、私に対してよそよそしいものが1つもない所にある。(小論理学24節への付録2)

 11、自由とは、自己の他者の中にあって尚自己の許にあること、自己に依存すること、自己自身の規定者であることに存する。(小論理学24節への付録2)

 12、自由と必然性とを互いに抽象的に対立させている時には、それはただ有限性に属するだけであり、有限なものに関して妥当するだけである。(小論理学35節への付録)

 13、真に内的な必然性、それは自由である。(小論理学35節への付録)

 14、私の行為の中では私の為すことは自分の考え、自分の確信に従っているという意味での主観的自由が本質的原理である。(小論理学81節への付録1)

 15、無の最高の形式は自由である。(小論理学87節への注釈)

 16、この解放は、独立して(自覚的に)現存しているものとしては自我であり、その全体性にまで展開されたものとしては自由な概念であり、感覚としては愛であり、享受としては至福である。(小論理学159節)

 17、主体が他の主体と隣り合っていて、互いに制限し合い互いに妨げ合いながら自分で楽しみ得る小さな場所を与え合うという考えは、自由についての否定的理解にすぎない。(歴史における理性111頁)

 18、自由の自己意識が理性なのだが、自由は思考と同一の根を持っている。動物は思考せず、人間だけが思考するように、又人間だけが、しかも思考する者であるが故に自由を持っている。(歴史における理性175頁)
 19、自由を意識するという事には次の3点が含まれている。第1に、個人が人格として、即ちその個別性において捉えられること、第2に、個人が自己内で普遍な者として、即ちいかなる特殊性も放棄し捨象することの可能な者として捉えられること、第3に、それと共に、個人が自己内で無限な者として捉えられることである。(歴史における理性175頁)

 20、人間は皆、理性的である。この理性性の形式的な面が「人間は自由でる」ということである。このことは人間の本性である。(ズ全集第18巻40頁)

 21、オリエント世界とギリシャ世界とゲルマン世界における自由は、それぞれ、次のように規定出来る。オリエントでは只1人の人(専制君主)のみが自由であり、ギリシャでは若干の人が自由であり、ゲルマン的生活では万人が自由である、即ち「人間は人間であるが故に自由である」という命題が妥当している、と。(ズ全集第18巻122頁)

 22、自由の形式的規定──主体が、自己に対立して立っているものの中によそよそしいもの、限界や制限を少しも持たず、その中に自己自身を見出すこと(バッセンゲ編「ヘーゲル美学」第1巻104頁)

 23、かくして、〔人権としての〕自由とは、他人を傷つけないならば何をし、何を営んでも好い、という権利である。(マルエン全集第1巻364頁)

 29、解放とは全て、人間の世界つまり人間の諸関係を人間自身に連れ戻すことである。(マルエン全集第1巻370頁)

 30、自由と必然の関係を初めて正しく解決したのはヘーゲルである。ヘーゲルは「自由とは必然性の洞察だ」と言った。「必然性が盲目なのはそれが理解されない限りでの事でしかない」(小論理学147節への付録)、と。自由というのは、自然法則から離脱していると妄想することではなくて、自然法則を認識することであり、それによって自然法則を自分の目的のために計画的に利用する可能性[能力]を獲得することである〔自由の第1規定〕。

 これは、外なる自然の法則との関係で言えるだけでなく、内なる法則(肉体及び精神の法則)との関係でも同じである。この2つの法則は頭の中では分けて考えることが出来るが、実際には分けることが出来ない。つまり、自由意志とは物事の認識に基づいて[自分の行動を]決定する能力のことにほかならない。だから、或る問題についての個人の判断は、その内容がより大きな必然性に基づいて為されていればいるだけ、それだけ自由なのである。(略)要するに、自由とは、自然必然性の認識に基づいて人間自身及び外なる自然をコントロールすることである〔自由の第2規定〕。(マルエン全集第20巻106頁)

 感想・自称マルクス主義の哲学やその受け売りをこととする人々の間では、「自由とは必然性の洞察である」(第1規定)という形でスローガンみたいに使われていますが、間違いです。エンゲルスの真意は最後の「自由とは、自然必然性の認識に基づいて人間自身及び外なる自然をコントロールすることである」(第2規定)です。前者だとすると、「理解」つまり「理論」だけで「実践」がなくても好いということになりかねません。一方では、「理論と実践の統一」を当為的に解釈するくせに、他方ではここのように「理論だけでいいのだ」という結論になる言葉を振り回す。「自分の頭で考えないマルクス主義」は困ったものです。

 31、あらゆる自由の第1条件が欠けています。即ち、すべての官吏は、その一切の職務上の行為について、普通裁判所で、また普通法に従って、全ての市民に対して責任を負う、ということが欠けています。(エンゲルスからベーベルへの手紙1875年3月18-28日)

 32、ドイツ哲学の用語としてのFreiheit(自由)は、「心ゆくまで本質を発揮し、自由自在に独自の振舞いをなし、本領の全幅が繰り広げられ、本来の面目が完全に現れつくす」ことをいう。これが例えばヘーゲルの言う「自由」である。(大野勇二「高級独文和訳教室」27-8頁)

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