マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

議論の認識論

2009年05月28日 | カ行
 普通「認識論」というと「個人の認識」を問題にしています。しかし、議論を「集団的認識」と考えると、それと区別して「個人的認識論』と名付ける必要があるでしょう。ともかく、一人で考える個人的思考ではなく、集団的思考としての議論を認識論的に整理してみたいと思います。

 人間は客観的真理を認識できるか。これは認識論の根本問題の1つです。できないとする不可知論ないし懐疑論の立場に対して、私は「出来る」とする合理論の立場に立ちます。これは今は論じません。前提します。

 しかし、人間はいっぺんにその真理に到達することはできません。人間の認識には歴史的制約と個人的制約とがあります。つまり、所与の時点における特定の認識はいつも有限であり、多かれ少なかれ間違いを含んでいます。完全無欠ということはありえません。

 ここから第1の結論が出てきます。議論で勝った方が正しいとは限らない、ということです。そして、行動規範が出てきます。「相手を言い負かすことを目的としてはならない」です。あるいは、「相手を言い負かそうとするな」です。そして、「自分の考えを主張して相手を負かせたいなら、行動で主張せよ」です。

 多くの人は相手を言い負かそうとしています。これが議論における最大の根本的な間違いでしょう。そして、実際には議論で勝つのは真理ではなくて、口がうまくて押しの強い人ですから、多くの人は「議論なんて嫌だ」という感想を持ち、議論を避けるようになるのです。

 では、議論で勝った方が正しいとは限らないとするならば、どうしたらいいのでしょうか。議論の目的は「お互いに、自分の考えを自分にはっきりさせ、それを契機にして更に反省を深め、自分の考えを発展させること」です。この目的をしっかり自覚すれば好いのです。

 私は、ブログを発表する場合でも授業で話をする場合でも、事前にかなり考え、メモを取り、推敲してからにしているのですが、それでも、発表したり話したりした後で、また新しいことに気づくことがよくあります。人と議論した場合はなおさらです。多分、外に出すことで自分を客観視できるようになるからでしょう。

 私は俳句をやりませんが、聞いた話では、俳句の上達の秘訣は「人に見せる」ことだそうです。これも、多分、同じ事なのでしょう。

 しかし、実際には、これでは済まない場合もあります。組織として、あるいは互いの間で何らかの結論を出さなければならない場合もあります。その時はどうしたら好いでしょうか。

 その組織のルールに従って決めればいいでしょう。議論はきちんと行い、記録を残しておくことです。そして、関係する事態が一段落した時点で反省して、どの意見が正しかったか、考えればいいと思います。もちろん、この場合でも、その反省時点での「相対的な真偽」しか分からないことは自覚しておくべきです。その後、再度新しいことが判明するかもしれませんから。

 さて、このように大きな枠組みを確認しますと、第2に問題になることは、議論の方法です。議論の目的が上記の通りだとするならば、その目的をより良く実現する方法を追求するべきです。

 学校での議論などを振り返ってみればすぐに分かりますように、一部の人しか発言しない、という問題があります。これでは、発言しない人の自己反省は深まりません。外国の学校では多くの人が手を挙げて発言すると言われていますが、全員ではありません。任意の団体でもこの現象は見られます。どうしたら好いでしょうか。

 1つの方法は、書き言葉を使うことです。紙などに書いて意見を出す方法も大切だということです。アンケートを取るとか、機関紙を出すとかです。この方法では、それをまとめる人(たいてい先生とか幹部)の負担が大変ですが、或る程度は仕方のないことです。仕事なのですから。また、最近はネットも発達していますから、コピペ(コピーして貼り付ける)で編集することもできます。

 もう1つは、会議や話し合いにおける司会技術の重要性です。学校では司会者が発言者を指名する機械に成り下がっていますが、それではいけません。議論を整理したり、態度の悪い人に注意したりするのは司会者の権利であり、義務でもあります。本当の司会技術を学ぶべきです。

 いずれにせよ、人間は議論を通して成長するのですから、参加者全員が成長する本当の議論の方法は何か。これを繰り返し反省することが大切です。それは、学問の方法についての反省が大切なのと同じです。これには終わりはないでしょう。

 第3に、と言うより、最後になってしまいましたが、議論を考える際の最大の問題は議論する人同士の上下関係でしょう。対等でない間柄での議論とは、例えば先生と生徒とか、専門家と素人とか、上級者と下級者とか、親と子とかの間での議論です。

 これについては、「対等な関係でなければ議論をしてはならない」というのが原則でしょう。なぜなら、対等でない間柄で議論をするのは、卑劣な人にのみ有利だからです。

 この原則は、必ずしもご理解いただけないかもしれません。一般には、深く考えないで、「誰とでも議論できるのが正しい」と信じられているからです。この誤解は、「議論」を「話し合うこと一般」と混同していることが原因です。両者は分けるべきでしょう。議論は「真偽を争う」ことで、話し合いはもっと広い概念です。

 上下関係のある間柄では「議論」はしてはなりませんが、「話し合う」ことは必要です。この場合はその話し合いは、テーマによって更に2つに分かれます。そのテーマが「態度」ないし「やり方」に関する議論か、それとも特定の内容についての話し合いか、です。分かりやすく、形式についての話し合いか、内容についての話し合いか、と言うことにしましょう。実際には、両者は絡み合っていることが多いと思います。しかし、一応は分けて考えます。

 さて、上下の関係が前提されている場合は、そこに最低の「尊敬と信頼の関係」がなければ形だけの上下関係になります。前者の場合(態度ややり方が問題になる時)はこの前提が問題になっているわけですから、当事者同士で話し合うのは難しいでしょう。と言うより、原理的に間違いでしょう。これは両者の上に立つ人か第3者の出番です。あるいは、関係を断つしかないこともあります。

 学校や大学での授業に対する不満の場合を考えてみると分かりやすいでしょう。最近は授業アンケートを取る所が多くなりましたが、これには問題があります。塾や予備校では経営主体がアンケートを取って、それに基づいて、講師と話し合う所が多いと思います。これなら適当でしょう。講師と話し合わないでアンケートを絶対視する経営者は不見識です。講師の言い分も聞くべきです。

 しかし、学校では多くの場合、匿名で自由記述のアンケートを取り、そのまま講師に渡して、「返事をしろ」とか「話し合え」と言います。これはトップの責任放棄でしょう。それなのにこれが理解されていません。かつて朝日新聞紙上で大学での「授業アンケート」にまつわる問題点を指摘した教授とそれに反論した学生がいましたが、両者ともに、学長のリーダーシップに気づかないお粗末意見でした。

 私見では、統計処理する場合は無記名で好いが、自由記述なら記名にするべきです。そして、私が実行しているように、「『この授業が根本的に不適当だ』と思うなら、それは大学(学長)に言ってほしい。『根本的には適当だが、部分的に改善してほしい』という場合だけ私に直接言ってくれ」とするべきでしょう。

 念のため注しておきますと、こういう態度の問題、やり方の問題では、上に立つ人に問題のある場合が多いですが、「下に立つ者の態度」に問題のある場合もあります。ヘーゲルは、「哲学以外の分野では、それぞれの問題について発言するにはそれについて勉強しておかなければならないと知られているが、哲学についてだけは誰でも勝手に発言して好いと思い込んでいる人が多い」、と歎いています。

 さて、後者の場合、つまり上下の違いのある間柄で「内容」についての話し合い、つまり例えば講師の教えた理論が学問的に正しいかといったことを話し合う時にはどういう問題があるでしょうか。

 この場合にはとかく、「上に立つ人」が自分の立場を悪用して自説を押し通そうとする間違いがあります。しかし、こうなると、「態度の問題」になってしまいます。これはすでに論じました。

 逆に、「アメリカに行ったら、偉い先生から、学問では君と僕とは対等だから、自由に議論してくれと言われた」という話もよく聞きます。これはどこまで本当か分かりませんが、本当だとしても、正しくないと思います。

 下に立つ人は、上の人に対して、「教えを受ける」という態度で質問するべきでしょう。そして、自分の発言に対する相手の反応を見て、その人が本当に尊敬に値するか、考え直せばいいと思います。尊敬できなくなったら、その人のもとを去るべきでしょう。そして、議論したければ、「対等の立場で」すればいいと思います。

 内容に関する議論では、最初に確認しましたように、理由の如何にかかわらず勝った方が正しいとは限らない、ということです。ですから、互いの意見を出し合ったら終わりにすればいいと思います。授業などでは先生の考えを採用して先へ進めばいいでしょう。それは、「先生の意見が正しいから」ではありません。授業というものは先生の考えで進めるものだからです。
規律の問題と真偽の問題を混同してはいけません。

 私が多くの間違いを通して得た教訓(まだ完全には実行できていない教訓でもあります)は次の通りです。「上に立つ者は、下の人の意見に対して、原則として、その場では反論してはならない。ひたすら好く聞くことに徹するべきである。そして、その真意を好く考えた上で、時間をおいてから、言葉で返事をするか態度で返事をするか選ぶと好い」です。

 特に、子供に対してはこういう態度を取りたいと思っています。最近は学問のある母親が多いですから、子供と「話し合って」、というより「論争をして」、子供を言い負かす母親も少なくないようです。そして、これが「民主的な親」だと思い込んでいるようです。これは間違いです。

 「反論しよう」と思って聞いていると、冷静に客観的に聞けないということが第1の理由ですが、第2に、それ以上に、子どもの場合は特に、親が「反論しよう」と思って聞いていると、それが伝わってしまって、「お母(父)さんは僕の(私の)話を聞いてくれない」という印象を持ってしまって、だんだんお母(父)さんと話したくないという気持ちになってしまうのです。

 最後の最後に、「役人との議論は無意味だ」ということを書きます。これは、行政と関わることが多くなった最近、気づいたことです。特に幹部はごまかすことしか考えていないと思います。身分が安泰で給与に無関係なら、彼らは何も考えないようです。「生きた屍」という感じです。主体性ゼロです。話し合う意味がありません。これを変えるには、トップを本当の市民派に代えるしかないと思います。

     参考項目


内容を生み出す形式(2018年09月07日
教師の間違いをどうするか(2008年07月30日
議論のない教育(2018年09月10日

話し合いのない社会(2009年05月30日
議論は真理にとってのみ有利である(2005年07月30日
論争的報道番組のあり方(2005年06月12日
独断論と不可知論(2018年09月06日
ラウンド制(2018年09月05日

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