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毛沢東、実践論、矛盾論

2012年07月25日 | マ行
 ★ 実践論

 01、反省的認識とは一般に、実践過程を必然的に伴っており、そしてそれによって制約されるものである。ここにいう「反省的認識」とはもちろん外的現象から内的本質を捕らえる、いわば「外的反省による認識」を意味する。だから、このような反省的認識とは、内化の運動として規定することができよう。

 毛沢東の『実践論』における業績といえば、一般に、ただこうした反省的認識の実践的構造を明らかにした、という点にあるであろう。すなわち、毛沢東はいう。

 「マルクス主義者は、人類社会の生産活動は、低い段階から高い段階へと一歩一歩発展してゆく。したがって、人間の認識もまた、自然界に対してであれ、社会に対してであれ、やはり低い段階から高い段階へ、すなわち浅いところから深いところへ、一面から多面へと一歩一歩発展してゆくものと考える。」

 ここで明らかに毛沢東は、実践過程の発展に認識過程の発展が対応するものである、ということを説いているのであろう。(許萬元『ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』大月書店)

  感想・矛盾論についての批評の「原注」にある実践論についての批評は大分否定的になっている。

 02、読者・今思い出したのですが、毛沢東の『実践論』にも「理性的認識から実践に向わなければならない」というような、当為的解釈があったのではありませんか。

 牧野・ええ、そうなんです。自称マルクス主義の哲学では昔から当為的解釈が無自覚に通用していたのですが、戦後の日本でこの当為的解釈を強めた力の一つは、私も毛沢東の『実践論』だったと見ています。

 断っておきますが、私は『実践論』の意義を全面否定するものではありません。あれはまだまだ水準の低いものですが、中国革命の当時においてはあれでも巨大な実践的意義を持ったこと、理論内容の点でも唯物論的認識論の根本はかなりしっかりおさえた原則性の高いものであること、それが普通は「認識論」と呼ばれているテーマに「実践論」という名前を付けたことに端的に現われていること、この三点はしっかりおさえておかなければなりません。

 しかし、毛沢東はやはりへーゲルを直接研究していないので、細かい点にはいくつか問題があり、この理論と実践の統一の問題についても問題を残しています。毛沢東は要するに、あの本の前半ではこれを「一致している」という事実命題に取り、後半では「統一させるべきだ」と当為命題に取っているのです。ということは、この問題について毛沢東は首尾一貫していないということであり、なぜそうなったかと言うと、こういう問題があることすら自覚していなかったからです。私の今夜の話をよく聴いて、それからもう一度『実践論』を読み直してみるとはっきりするでしょう(1) 。

 (1) 毛沢東がこれを発表した本当の目的についてはこの論文を書いた当時は気づいていませんでしたが、本書所収の「毛沢東『実践論』(牧野紀之訳)の註解の中に書きました。
(牧野紀之編著『理論と実践の統一』(論創社)377-8頁)

 ★ 矛盾論

 01、それまでにも矛盾の普遍性と特殊性ということは言われていまして、そして特にその普遍性については、ブハーリンの問題やデボーリン批判の中で、
 ・どこにでも矛盾があ-ること(矛盾の遍在性)と
 ・矛盾は過程の始めから終わりまでつねにあるのであって、過程の一時期にのみ現れるものではないこと(矛盾の貫通性)
として確認されていたのですが、毛沢東の功績は、矛盾の特殊性の問題を深めて、主要な矛盾と矛盾の主要な側面という観点を明確に打ち出したことだろうと思います。

 欠点は矛盾の個別性というものに気づいていないことことです。

 矛盾の個別性とは、あらゆる矛盾は結局一つの矛盾に流れ込み、又そこから出ていくということです。

 それは「自我」です。(牧野『ヘーゲルの修業』40頁)

 02、毛沢東は唯物弁証法を『矛盾論』としてとらえた。これはレーニンが弁証法を「対立の統一にかんする学」と定義した命題に完全に即応したものであった。そしてこの『矛盾論』も前著〔実践論〕と同様、実践的見地のもとに書かれている。そのため、『矛盾論』では「矛盾の特殊性」にかんする考察が主要な部分をなし、矛盾をいかに処理すべきか、という問題に主要な関心が注がれている。毛沢東にしたがえば、現実過程は複雑な多くの特殊矛盾の複合体であり、根本矛盾を軸とした主要矛盾と従的矛盾という形で1つの重層構造を形成しており、過程全体には根本矛盾が貫徹しているが、過程のそれぞれの段階には主要矛盾の主要な側面が支配的役割を演じている。

 このように、『矛盾論』が現実過程における多くの特殊矛盾の複合的な重層的構造を解明した点で、それはまったく独創性に富んでおり、今日のフランスの「構造主義的マルキスト」の一人であるアルチュセールによって、まったく異なった立場からではあるが、あらためて感動的にむかえいれられたとしても、けっして偶然ではないであろう。

 さらに、毛沢東は矛盾の処理にかんする実践的課題について、敵対的矛盾にかんしては原則的に敵対的方法で処理し、非敵対的矛盾にかんしては原則的に非敵対的方法で処理すべきだと説く。だが、敵対的矛盾と非敵対的矛盾とは一定の条件のもとで相互に転化しあうものとされ、したがって敵対的矛盾も条件しだいで非敵対的に処理でき、また逆に、非敵対的矛盾も条件によっては敵対的に処理すべきだ、と説かれている。

 とはいえ、今日の理論的水準から次のような欠陥が指摘されうる。第1に、毛沢東の『矛盾論』が実践的課題に直接に即応した現象的特殊矛盾の解明に主力が注がれているために、矛盾の現象論的類型化にとどまり、類型化された諸矛盾がさらに相対主義的にのみ説かれているだけで、確固たる必然性の見地が欠けている。

 だから、何が主要矛盾であるか、敵対的矛盾か非敵対的矛盾か、という問題は純然たる条件論法か機能主義に帰着してしまい、論者たちがしかるべき条件をいろいろ持ち出して勝手に主張をやっても、それを決定づけるものは何もないことになろう。

 第2に、弁証法的矛盾の本質、他の諸法則との関連を理論的にほりさげる、という問題は未展開のままに残されている。また、「矛盾の普遍性」や「矛盾の同一性と闘争性」が古典家たちの命題のくりかえしに終わった観がある。

 (原注)『矛盾論』のこうした欠陥は『実践論』そのものに根ざしていることも否定できないであろう。『実践論』はレーニンが大局的に指摘した「直観→思考→実践」の論理を具体化せず、そのまま認識においてなんらの必然的中間項もなしに感性から広義の理性への飛躍が述べられている。しかし、そうした理性は実際にはまだ感性的素材にとらわれた経験的理性かあるいは感性に対立させられただけの悟性的な理性でしかないであろう。毛沢東の『実践論』が依然として経験主義的性格を克服できず、『矛盾論』において経験的矛盾のたんなる類型化とその実践的有用性の問題に終始しているのもけっして偶然ではないであろう。(原注終わり)

 第3に、毛沢東の『矛盾論』は彼の『実践論』との統一において理解されるべきものだと思われるが、毛沢東自身はかならずしも両者の関連を明らかにせず、あたかも別個のもののように叙述している、という欠陥をもっている。だから、現象的矛盾についての感性的認識と矛盾の本質論的・理性的認識との次元的差異と連関についてはほとんどふれられていない。このことは毛沢東弁証法においても、依然として「認識論としての弁証法」というレーニンの問題提起が未展開のままになっていることを示している。(許萬元「弁証法」、増補版『ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』大月書店268-270頁)

      関連項目

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毛沢東の名言

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