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ロシア型マルクス主義と日本型マルクス主義(松田道雄)

2016年11月12日 | マ行

  ロシア型マルクス主義と日本型マルクス主義(松田道雄)           

    はじめに

 思想と教条との相違は、その生活力にある。思想は創造する頭脳のなかに生まれ、その生国の土壌によってやしなわれ、他国にうつされ、そこで、おなじ過程で成長していく。したがって、思想は、その成長の過程にしたがって、なにほどか土壌のにおいを身につけている。教条は、これに反して聖職者によって儀式に使用される器具の一種である。教祖のいだいた思慮のなかから、儀式の必要に応じて、成立の背景を無視して部分がとりだされ、みがかれ、信徒の礼拝のためにそなえられる。世界宗教が、ある国の総本山によって統率されるという状況においては、教条の画一性は総本山の権威のシンボルである。

 したがって、思想には「型」がありうるが、教条には「型」はゆるされない。

 ここにあえてロシア型マルクス主義と日本型マルクス主義とを対比するのは、生活力のある思想としてのマルクス主義を、二つの国で比較したいからにほかならない。

      一

 十九世紀のロシアにおいて、マルクス主義は革命の思想であった。

 支配権カを打倒すべき勢力が、現存の権力よりも正当な存在理由をもっていることを弁護する革命思想は、もともと西欧に発したものである。ロシアにおける最初の権力批判者であったラディーシチェフが、フランス革命の思想をうつしたことからもわかる。

 ロシアの革命思想の生育すべき土壌の特徴とでもいうぺきものをあげるならば、西欧にたいする後進牲をまずあげねばならない。そして、この後進性を克服しようとするロシアの知的エリートの内部統一の欠損も重大な特徴である。さらに、ロシアが西欧と地つづきであり、支配権力からいえば、革命家の知的交流をはばみえないし、革命家にすれば亡命によって思想の純粋培養ができるということも、特異な点としなければならない。

 西欧にくらぺて、ロシアが後進国であるということは、西欧から移入する革命思想がロシアでは、大きな「時差」を示すという結果になった。市民的自由を前提にした西欧の社会主義の革命思想は、ロシアにはいってくると、市民的自由そのものの存在しないということで戸まどいせねばならぬ。

 ロシアの革命家たちが、最初に決定しなければならなかった問題は、ロシアは、はたして西欧の通過した道を、もう一度あゆまねばならぬかということであった。

 西欧において、市民革命によって打ちたてられたブルジョア体制が、社会主義者によって、もう一度革命されねばならぬということは、ブルジョア体制そのものの「悪」を証明しているではないか。

 それならば、とロシアの革命家はかんがえた、われわれは資本主義段階をとびこそうではないか。

 ロシアには、西欧諸国においては、すでにほろび去った農村共同体がまだ存在する。社会主義が理想とする共有と協同の社会は、ロシアにおいては、ここにのこっている。この共同体を、資本主義によってむしばまれないうちに、社会主義に突入すればよい。ロシアの革命家たちは、ロシアの後進性そのものをてこにして西欧に追いつこうとしたのだ。

 ロシアが西欧においつくためには、ロシア独自の道をえらぶべきであるという結論には、ロシアの革命家は一挙にして到達したわけではない。最初の革命家であるベリンスキーもゲルツェンも、はじめは西欧の道を追うことを信じた。彼らは、当時のロシアの最高の知的レベルにおいて論争し、論敵のスラブ主義者とわかれ、西欧の道をえらんだ。だが、一八四八年の西欣の革命の敗北によって、ゲルツェンはロシア独自の道へかえってきたのだ。

 ロシアの農村共同体を基礎にして社会主義の社会をつくりだそうとする農民社会主義が、十九世紀の六十年代から八十年まで、ロシアの革命家の頭脳を支配した。

 国家権力から解放されれば、農民は、その創意にもとづいて自由な共同体の連合をつくるだろうというバクーニンの思想が、出発点となった。「すべての将来の政治組織は、自由な労働者の自由な連合、農民または工場の職人のアルテリの連合以外の何ものでもあってはならぬ。それゆえ、政治的解放の名において、われわれは何より国家の徹底的な破壊をのぞむ…」

 彼らの直接にむきあったものはツァーリをシンボルとする国家権力であった。しかし、彼らは農民の蜂起を期待しながらも、革命的インテリゲンチアと農民との結合について具体的な方法をもったわけではなかった。人民から孤立した革命家は、少数者でできるもっとも効率のいい方法に訴えざるをえない。とくに、西欧の資本主義の発達のもたらす「悪」をみて、ロシアでブルジョアに先んじられまいとする焦燥感にかられたトカチョフは、亡命地のジュネーブで一八七五年に、ロシア向け非合法新聞『警鐘』の初号にかいた。

 「兄弟愛と平等とを打ちたてるためには、第一に社会風習の現在の条件を変更しなければならない。人間の生活に不平等、敵意、羨望、競争をもたらすすべての制度を破壊しなければならない。それらには反対の制度の基礎をおかねばならぬ。第二に人間の本性自身を変更し、教育せねばならぬ。この偉大な任務をはたす人たちは、もちろん、これを理解し、解決にむかって真に努力する人たちである。すなわち、知的にも道徳的にも発達した人たちである。すなわち少数者である。この少数者は、よりよく発達した知力と道徳とによって、多数者の上に知的、道徳的権力をもつし、またもたねはならぬ。……
 
 一般に現代社会においては、とくにロシアにおいては、物質的な力は国家権力に集中されている。したがって真の革命──物質的な力による道徳的な力の現実的変形──は、ただひとつの条件によってのみ達せられる。すなわち、革命家による国家権力の掌握である。いいかえれば、革命の当面の直接目的は政権を奪取し、現在の保守的国家を革命的国家に転化することでなければならない。

 したがって、革命的国家の活動は二重でなければならぬ。革命的破壊的活動と革命的建設的活動とである。

 前者の本質は闘争である、したがって暴力である。闘争は、つぎの諸条件を結合しえたときにのみ成功する。すなわち、中央集権、厳格な規律、迅速、決断、行動の統一性である。あらゆる譲歩、動揺、妥協、闘争力の分散は、闘争力のエネルギーをよわめ、活動力をまひさせ、勝利のチャンスを闘争からうばい去る。」

 トカチョフの少数者革命の理論はネチャーエフ事件をひきおこし、ドストエフスキーをして『悪霊』をかかせることになった。だが、陰謀的な暴力をよろこばない分子は、ネチャーエフらに反対して、一八六九年に結成されていたチャイコフスキー団に結集した。チャイコフスキーらは、ロシアの多くの都市にサークルをつくり、民主主義の啓蒙をおこなった。この運動が最高潮に達したのは一八七四年の「人民の中へ(ヴ・ナロード)」のカンパニアであった。三〇〇〇人の学生が農村のなかに工作隊としてはいっていった。ここからロシアの革命家はナロードニキとよばれることになった。しかし、この啓蒙運動は農民の無関心につきあたって挫折した。

 農民によって実現されるべき農民社会主義が農民にうけいれられないとなったら、革命家たちは、自己の組織以外にたのむところはない。ふたたび、強力な中央集権的な組織に革命家たちは結集することになった。この頃の組織は完全な非合法をまもりとおしたために、歴史家に文献的な手がかりを残さなかった。

 一八七六年ごろに成立した「土地と自由」という革命家集団は、たしかに中央集権的な党としての性格ももっていたが、そのなかにはさまざまの潮流がまじっていた。「土地と自由」のメンバーの思想の多様性は、ようやく生まれてきた労働者の組織(一八七五年の「南口シア労働者同盟」、一八七八年の「ロシア労働者北部同盟」)と関係がある。

 ロシアの「マルクス主義の父」プレハーノフが「土地と自由」のなかに参加したのは、まさにこのような時期であった。鉱山専門学校の学生であったプレハーノフは、古い世代の革命家とちがって、はじめからエ場労働者との接触のなかで成長した。彼がロシア語訳の『資本論』をよんだのは一八七五年か七六年と推定されているが、それによってマルクス主義を完全にうけいれたのではない。一八七九年に彼が「土地と自由」第三号にのせた彼の最初の論文「社会の経済的発展法則とロシアにおける社会主義の任務」は、農民社会主義とマルクスの二番煎じ(煎じたのはロシアにおけるマルクス主義の紹介者ジーべルだが)との混合であった。だが、このなかでプレハーノフは、ある個人が権力をにぎって上から命令によって社会変革をおこなおうという革命家は時代おくれだということをはっきりいっている。

 したがって「土地と自由」が、農民のなかの宣伝の不成功の欲求不満を個人的テロによって発散させようとする傾向をつよめてきたとき、プレハーノフはがまんできなくなる。農民よりも労働者に、革命のてこを求むべきではないかという、彼の体験が、古い型の革命家に反発させたのだ。

 成員のなかの意見の不一致によって、「土地と自由」は一八七九年に合意解散をするが、テロ支持派は「人民の意志」を結成し、正統派を主張するものはプレハーノフを中心に「黒土再分割」にあつまった。「黒土再分割」派の同名の機関誌の第一号にプレハーノフの一八八〇年にかいた「人民の声は神の声」は、「黒土再分朝」派の綱領としてうけとられた。そこで彼はいう。

 「わが党の実践的任務にかんするわれわれの見解は二つからなりたつ。科学の一般的指示とロシアの歴史と現状との特殊条件である。われわれは社会主義をもって人類社会の科学の最後のことばとする。社会主義によって所有と労働との集団主義が勝利することは、社会経済構造の進歩のアルファでありオメガである。われわれは、『自然は飛躍しない』という表現が、狭義の自然現象にあてはまるように、人間社会の進歩の過程にもあてはまるとする。」

 プレハーノフのこのことばのなかに、テロによって飛躍的に権力を奪取しようとする革命家へのつよい反対が感じられる。農民の力が信じられないでやるテロを否定するというのなら、いったいロシアの革命家は何を信じればいいか。プレハーノフは進歩の科学への信頼をよびかけている。

 それでは、どうして革命をやるのか。プレハーノフはつづけていう。

 「社会革命の党は、人民を国家への積極的な闘争に導き、人民のなかに自立と活動をそだて、人民を闘争に組織し、あらゆる小さな機会をとらえて、人民の不満をかきたて、ことばと行為とによって人民に現在および本来の社会関係の正しい見方をつたえることを目的とせねばならぬ。これによって党は、人民を、上からの「黒土再分割」を寝て待つことをやめさせ、下心ら『土地と自由』を積極的に要求するようにさせねばならぬ」

 革命は人民の下からの運動でなければならない。そうなれば「黒土再分割」のような少数革命家の組織は、人民の運動と、どういう関係にたつのか。ここでプレハーノフははじめて大衆団体としての党の問題につきあたる。

 『黒土再分割』第三号(一八八一)にプレハーノフは「『黒土再分割』編集部への手紙」をのせていう。

 「ゆえに、すべてのロシアの社会主義者の党が、その努力の最大の目的が人民のなかにおける社会革命の組織の創出であることをみとめ、ついで、この組織が政府と上層階級に提出する当面の要求のなかに、政治的自由の要求が入れられたとき、はじめて『黒土再分割』の任務はおわったとしてよい」

 「黒土再分割」の組織は、人民の党ができて公然と政治的自由の要求をかかげるまでの暫定的なものとされたのだが、事実では、「黒土再分割」の組織は、プレハーノフやアクセリロットの亡命によって、その年のうちに消滅した。プレハーノフのスイスヘの亡命は、実は機関誌の『黒土再分割』の発刊に先だつ一八八〇年の一月であった。

 ジュネーブで、プレハーノフは西欧の市民的自由の空気を心からの満足をもって吸いこんだ。ここでは労働者は集会をやっても、文書をだしても警官につかまることはない。また、ここへは西欧の社会主義者がやってきて社会主義政党の話をしてくれる。市民的自由のなかにおいて労働者の党は、はじめて自由にたたかえる。プレハーノフはそう感じた。一九一八年までロシアの土をふむことのなかった彼が、西欧のマルクス主義の旗手になったこともむりはない。

 プレハーノフのマルクス主義理論の「原蓄〔原始的蓄積〕」は一八八〇年から八二年まで精力的におこなわれた。しかし、ナロードニキのプレバーノフがマルクス主義者になることは、容易ならぬ努力を必要とした。それはバロンのいうように後進国にマルクス主義を適用する最初の試みであった。

 西欧で生まれた社会主義であるマルクス主義がどうして、西欧とはことなる段階にあるロシアに妥当するのか。マルクス主義が正しいとすれば、いままでのナロードニキの努力のすべてはぜロでないか。

 自然科学者としてたとうと一時おもったことのあるプレハーノフの合理主義的な性格から、この困難な問題への解き口がでてきた。マルクスのいう社会発展の法則を、自然科学のおしえる自然法則と同一化することである。

 ポノマリョフ監修の『ソ連邦共産党史』によって「ロシアのマルクス主義者の最初の著書」といわれた『社会主義と政治闘争』(一八八三年)はプレハーノフのナロードニキヘの訣別の辞である。

 そこで彼はいう。

 「ダーウィンがおどろくぺく簡単かつ正確な、種の起源についての科学的理論で生物学をゆたかにしたのとおなじに、科学的社会主義の創始者たちは、われわれに、生産力の発展と、生産力とたちおくれた『生産の社会的条件』との闘争とのなかで、社会組織の種の変化の原理をしめした。」

 農民への絶望からテロにうつろうとする革命家からわかれて「黒土再分割」の綱領をかいたときにいった「人類社会の科学の最後のことば」をプレハーノフはマルクス主義のなかにみつけた。

この発見が、ロシアの内部で専制と死闘をつづけている革命家たちをどんなに元気づけたか。小状況におけるたたかいがどんなに失敗しても、大状況は自然法則のように進歩にむかってすすんでいるからだ。

 プレハーノフがジュネーブについた一八八〇年から、ボルシェビキの党ができる一九〇三年まで二十年以上もあるのだが、このあいだに、彼がロシアの革命組織に言いのこした人民を基盤とした党はどうなるのか。

 『社会主義と政治闘争』のなかで党に言及されているところをひろいあげてみよう。

 「さいわいロシアの社会主義者は、もっとしっかりした土台の上に希望を托すことができる。彼らは、彼らの希望を何よりもさきに労働者階級に托すことができるし、また托さねばならぬ。他の階級もそうだが、労働者階級の力は何よりも、その政治的意識の明確性、その堅固さと組織性とにかかっている。この労働者階級の力の諸要素は、わが社会主義インテリゲンチアの影響のもとにあるべきだ。インテリゲンチアは当面の解放運動において労働者階級の指導者とならなければならぬ。労働者階級の政治的経済的利益およびこれらの利益の相互関係を説明してやらねばならぬ。ロシアの社会生活のなかの労働者階級の独自の役割にむかって準備してやらねばならぬ。インテリゲンチアは、あらゆる力をつくして、ロシアに憲法のできた最初の時期に、わが労働者階級が、一定の社会的政治的綱領をもった独自の党として登場するようにしなければならぬ。」

 プレハーノフは労働者階級が独自の党をもって政治の舞台にでるのは、ブルジョア革命によって市民的自由がえられたあとの時期であるとかんがえていた。プレハーノフの党についての、このかんがえを最初に指摘したのは、粛清された「党史」の著者ポポフであった。彼はつけくわえていう。

 「この時期まで、『社会主義的インテりゲンチア』は将来の労働者党の要素を用意する事だけを仕事とせねばならなかった。もちろんこのことはインテリゲンチアの指導下に、労働者階級が専制との革命的闘争に参加することを除外するものではない」。

 革命は何ものがてこになるにしても、これを指導するものはインテリゲンチアであるという思想は、プレハーノアもレーニンもふくめて、ロシアの革命家のかたい信念であった。革命における労働者階級のヘゲモニーの思想が、一八九八年にアクセリロットから発したという説もあるが、ジノビュフは『党史』のなかで、一八八九年バリの第二インターナショナルの席上でプレハーノフが、「ロシア革命は労働者階級の革命としてのみ勝利するだろう、そうでなければ勝利することはないだろう」といったのを、その最初にかぞえる。

 プレハーノフにおけるプロレタリアートのヘゲモニーの思想が、インテリゲンチアによる党の指導と矛盾しないことは、第二回党大会における彼のレーニン支持によってわかる。

 エンゲルスのいう「歴史的必然性」に賭けたプレハーノブにとって、ロシアにも資本主義は発達するという論証にすすむことは、論理的にも当然である。彼はこの課題を一八八四年の「われわれの相違」でときはじめ、それはレーニンの『ロシアにおける資本主義の発達』にひきつがれる。社会主義者が、みずからの社会に資本主義の存在を論証しなければならぬというのは先進国ではありえないことだった。資本主義の「存在証明」にさきだってプレハーノフは『社会主義と政治闘争』のなかで西吹の歴史法則にしたがって、ロシア労働者階級とブルジョアジーとの革命における関係を予見していう。

 専制の打倒と社会主義革命とは本質的にことなったことであり、社会主義政府の早期の可能性はロシアでは信じがたい。ブルジョアジーとともに専制にむかってたたかうが、労働者階級に、ブルジョアジーとプロレタリアートとの敵対性をおしえることをやめないというドイツの共産主義者の例にしたがうという理論は今日いう革命二段階説である。ブルジョア革命に協力はするが、政権をとってはならないとする、のちのメンシェビキ理論の萌芽がここにある。

 プレハーノフが労働者党の結成をいそがなかったことは、はじめて組織された国外のマルクス主義者グループ「労働解放団」のためにプレハーノフがかいた綱領をみてもわかる。はじめの綱領(一八八四年)には、「社会主義者は労働者階級に、来たるぺきロシアの政治生活に積極的に有効に参加する可能性を提供すぺきだ」としかかいてない。第二草案(一八八七年)にいたってはじめて「ロシアの社会民主主義者は、この基礎にたって革命的労働者党の創立を第一の最大の義務とする」ということになる。

 労働者階級の党をはやくつくらねばならぬということでイニシァチーフをとったのは、レーニンであった。レーニンは一八九五年秋に非合法につくった「労働者階級解放闘争同盟」を革命党の萌芽と考え(邦訳全集第二巻三三六頁〉、その年に逮捕された獄中で「社会民主党綱領草案」をかき、シベリア流刑中、想をねって、刑期がおえた一九〇〇年、党をつくる目的でスイスに亡命した。

 レーニンの職業的革命家による中央集権の党の思想は、マルクス主義にそれまでなかったものであり、ロシアの後進性に適応した理論である。彼の党の理論は「何をなすぺきか」のなかに定式化され、事実上の結党大会である一九〇三年の第二回大会で、参加者は、示された綱領草案の事務的な用語の背後にレーニンの「何をなすぺきか」の思想をよみとった。おおくの反対者は、これをマルクスの理論の侵犯として反撥した。たとえば七月二二日の第九次会議において「経済主義者」のアキーモフはいう。

 「このことは党の任務の章でいっそうはっきりする。そこで党とプロレタリアとは、完全にひきはなされ対立させられる。党は積極的に行動する集団的な人物であり、プロレタリアは、その上に党が作用する受動的な媒体である。だから提出された草案で党という名詞はいたるところ主語としてかかれ、プロレタリアという名詞は補語としてかかれている。

 まったく同様に政権の奪取の章も他国の社会民主主義の網領とくらべてちがって編集されている。それは、つぎのように解されうる。いや、実際プレハーノフによってつぎのように解釈された。指導組織の役割は、それによって指導される階級をうしろにおしやり、指導組織を指導される階級からひきはなすことだと。それだから、われわれの政治的任務の規定は、『人民の意志』派のと全くおなじだ」

 アキーモフの反撥はレーニンにとっては何でもなかった。レーニンは『何をなすぺきか』のなかで、そのことはとっくに明言しているのだ。

 「われわれのあいだでは革命運動の歴史がろくに知られていないために、ツァーリズムにたいして断固たる戦争を布告する戦闘的な中央集権組織を考えたりすると、なんでも『人民の意志主義』だと呼ばれるのである。しかし、一八七〇年代の革命家がもっていたみごとな組織は、われわれがすべて模範としなければならないものであるが、あの組織をつくりだしたのは『人民の意志』派ではなく、『土地と自由』派であり、これがのちに『黒い割替』派と『人民の意志』派とに分裂したのである。(邦訳大月版全集五巻511頁)。

 レーニンは『何をなすぺきか』のなかに示した革命党の組織原理が、ツァ-リズムにたいして「断乎」としてたたかってきたロシアの革命の組織の伝統を継承するものであることを宜言している。第二回大会においてプレハーノフが終始レーニンをバックアップしたのも、少数インテリゲンチアによる労働者階級の指導という彼の理論、ナロードニキとしての彼の体験からしてむしろ当然であった。ここでロシアのマルクス主義の旗手のあいだで完全なバトンタッチがおこなわれた。職業革命家の中央集権的な秘密組織としての党の理論は、その後のロシアのマルクス主義の背骨としていまにいたっている。マルクス主義がロシアの土壌にうつされて、もっとも大きな「発展」をみせたのは、この党組織の理論であり、そこにロシアの革命運動の伝統が生きているとすれば、レーニン主義をロシア型マルクス主義といっていいだろう。

      二

 一九二六年、日本共産党の結成以来、日本のマルクス主義は、ソ連からの移入品だけが正統とされるにいたった。したがって現在、正統を呼号するマルクス主義は、さきにいったロシア型マルクス主義である。そのなかに日本型をみいだす仕事は、戦前の部分については鶴見氏らの「転向」においてこころみられた。だが、ここでは、福本によって日本にロシア型マルクス主義が移入されるまえに、鎖国状態のなかで成長した日本のマルクス主義をかんがえてみたい。ロシア型マルクス主義が日本にはいってきたとき、もっともはげしくたたかれた「古くなった」マルクス主義者山川均のなかに、私は日本型マルクス主義をみたい。

 ある思想が、どんな条件をそなえればマルクス主義とよんでいいかは、容易に一致をみないことだろう。定義の仕方によっては、「私は過去一○年間マルクス主義の原理を説き続けてきた」と一九一八年に宜言した片山潜(『日本における労働運動』岩波文庫三六八頁)をマルクス主義者ということもできるかもしれない。だが一九〇三年に

「炭坑の中しかも二千尺の深い炭坑の中で働く所の人間是も 天皇陛下の赤児である。吾々今日此石炭の恩沢を受ける者、今日識者を以て任ずる所の者は、我労働者、たとい九州の隅で働くにしても東京の街に於て働くにしても彼等の為めに救助の方法を講ずると云うことは、日本国民として又識者として必要であります。」(『社会主義』明治三十六年十一月号、八頁)

 という演説をやっている片山潜と、そのとき不敬罪によって巣鴨監獄で三年目の重禁命にたえている山川均とを、おなじ尺度ではかる定義には賛成できない。

 マルクス主義は革命の思想である。こう限定すれば、日本における革命思想家は、一九〇三年に創立された平民社を中心にしてしか存在しなかったから、そのなかから生まれ階級闘争の理論によって初志をつらぬこうとした人たちにしぼられてくる。そういう意味で私は山川均を日本に生まれたマルクス主義の代表とかんがえる。

 ロシアと日本との革命思想の発生をくらぺて、もっともめだつ相違は、日本では明治二十年代において知的エリートの統一があって反権力運動のブランクがあったことである。ロシアでは十九世紀の初めから一九一七年まで、ほぼ一世紀にわたる反権力の思想の連続があった。日本では明治維新における変革につづく急速な近代化が知的エリートを「完全雇用」にちかい状態にもっていくことに成功し、編成がえの摩擦として自由民権運動がおこったものの、指導者のおおくは権力の体制のなかにくみこまれた。

 体制からはみでた知的エリートが平民社に結集したときには、「原蓄」はすでにおわって資本主義体制が確立されていた。さらに、ロシアとちがって日本の島国としての地理的条件は、日本の革命家の亡命先をアメリカにだけ局限した。それはダイジェスト版マルクス主義をもたらしただけでなく、アメリカにおけるアナーキズムがロシアに十月革命がおこるまで日本の革命思想に大きい影響をおよぼすことになった。

 いまひとつ、日本のマルクス主義がながい苦難ののちに一本だちしたとき、十月革命がおこって、そのショックをうけた。

 以上のような事情が日本のマルクス主義をロシアのマルクス主義とちがった形のものにつくりあげたといっていい。以下、そのいくらかの特徴をひろってみたい。

 反権力の知的エリートの層がうすかったということから、日本のマルクス主義は、創造的な仕事よりも、翻訳にその力をそそがねばならなかった。弾圧のひどさが、翻訳しかゆるさなかったということもあるが、マルクス主義のなかでの国際的水準に達する理論を『平民新聞』『直言』『大阪平民新聞』『社会主義研究』のなかにみつけることは困難である。わずかに十月革命以後の山川の論文にみるぺきものがあるだけである。

 マルクス主義とアナーキズムとの分離が、ずっとおくれたということも、それが、弾圧によって小さなサークルのなかにとじこめられていたということによって説明されるだろう。

 キリスト教社会主義の『新紀元』からも自己を区別し、改良主義の『社会新聞』とも対立して、解散させられた『日刊平民新聞』の代用として大阪でだされた『大阪平民新聞』(のち『日本平民新聞』と改題)には、日本のマルクス主義者が集まったが、ここでも、社会主義と無政府主義とは区別されていなかった。(森近運平、「春寒余録、」『日本平民新聞』明治41年3月5日号)

 したがって、どういう方法で権力とたたかうかについて明確なかんがえをもてなかったのもむりはない。一九〇七年に幸徳秋水は、東京の社会主義運動の沈滞の「重大なる原因」として「社会主義実現の手段及び運動の方針に関する意見の未だ一定」しないことをあげている。(『大阪平民新聞』明治四十年九月五目号)

 無政府主義と完全な分離がおこなわれるのは、ようやくさかんになった労働組合の運動におされて、「もはや札つきの社会主義者の団体ではない」、「多数の労働運動者、文化団体の代表者、進歩主義的な思想家」が参加して、一九二〇年に日本社会主義同盟を結成してからあとである(荒畑寒村『自伝』二六八頁)。プレハーノフが『社会主義と政治闘争』によって無政府主義の申し子のナロードニキから訣別してから四十年ちかくたってからである。

 アナーキズムとの訣別はおくれたけれども日本のマルクス主義者は支配権力としてのブルジョアとは、その生誕の日から対決せねばならなかった。日本の社会主義者は、日本は西欧の道をとるべきか否かという問題をかんがえる余裕はなかった。西欧化しつつある状況のなかにはじめからおかれていたからだ。大逆事件の犠牲になった大石誠之助は、社会主義の日本的な道について論じた数少い一人である。彼は「日本に於ける社会改革の運動は徹頭徹尾日本社会と言う畑地に自発誕生せるものでなくてはならぬ」という田添鉄二のことばに反対していった。

 「余が思うに、我等が運動の対象は現在日本の経済社会と産業制度であって其君臣の間に立入り国体の歴史を論ずるが如きは我等の問題の外である。……近世泰西に放ける資本主義の濁流が滔々として我国に注入し、古来の愛すぺき風俗と習慣とを破毀し尽して、今のいわゆる紳士閥(ブルジョア)なるものは我国が未だ嘗て歴史に於いて見たる事なき侮辱と掠奪とを平民の頭上に加えつつあるではないか。‥…然るに田添君が今に於いて尚お日本の歴史に執着し、我等の改革運動が日本に自発したものでなくてはならぬ、欧米社会運動の翻訳であってはならぬというは、恰も敵が舶来新式の機関砲を採って平民軍に当るに対し、我等はどこまでも昔の弓矢甲胃を以て之を防がねばならぬというが如く、あまりに愚直にして亦迂闊きわまる説ではあるまいか。…‥資本家の運動方法がすでに万国的のものとなった今日に於いて、我らは如何で小さき日本的の手段を以て之に対抗することができようか」(禄亭生「読緑蔭漫五」『大阪平民薪輔』明治四十年月九二十日号)。

 彼ら明治の社会主義者たちは、明治の末期をもって「資本家の全盛時代」(日本平民新聞』明治四十一年五月五日号)と感じ、それにたいして、山川均は「主力と主力との決戦」における労働者の「実際の武器」としての「総同盟罷工」を提唱したのだった。(同上十二月二十日号)

 日本の社会主義は生まれた日から資本主義とたたかってきたということは山川均にとっては自明のことであった。それだからこそ、昭和のロシア・マルクス主義の徒が、コミンテルン綱領によりかかって、日本を、スペイン、ポルトガル、ポーランド、ハンガリー、バルカン諸国なみの「中位の資本主義的発展段階にある国」とし、日本の革命を社会主義革命に転化するブルジョア・デモクラシー的革命だといったとき、反対したのは当然である。平民社から大逆事件をくぐりぬけ、大震災であやうく抹殺されようとしながら四分の一世紀をたたかったのが、ブルジョア・デモクラシーをもたらすためであるとは、ばかもやすみやすみいえという気持だったろう。山川均が日本の革命一段階説を固執したのは明治以来の革命家の心情にたってのことであった。

 山川の一段階説をさらにつよめたものは、十月革命のインバクトであった。彼はロシア革命の成功を「ブルジョア・デモクラシー制度が根底をおろす前に、之を無産階級革命に推し進め」たためであるとかんがえた(「普通選挙と無産階級の戦術」無産階級の政治運動、一七二頁)。したがって、日本でもブルジョア・デモクラシーの安定をさけるべきであるとしたのだった。

 無政府主義と分離し、革命一段階説を抱いて、サークルの中で純粋培養されたマルクス主義をひっさげて山川は大衆と近づこうとした。これが一九二二年の「無産階運動の方向転換」である。

 「日本における今日までの社会主義運動は、ごく少数の運動であった。……日本の社会主義は、今日にいたるまで、一度もまだ大衆的の運動となったことはない。……日本の社会主義運動は、過去二十年間を通じて、常に階級闘争と革命主義との上に立っていた。…‥われわれは思想的には純粋の革命主義者となった。…日本の無産階級運動──社会主義運動と労働組合運動──の第一歩は、まず無産階級の前衛たる少数者が、進むぺき目標を、はっきりと見ることであった。われわれはたしかにこの目標を見た。そこで次の第二歩においては、われわれはこの目標に向って、無産階級の大衆を動かすことを学ばねばならぬ。……『大衆の中へ!』は、日本の無産階級運動の新しい標語でなければならぬ。……われわれの運動は大衆の現実の要求の上に立ち、大衆の現実の要求から力を得て来なければならぬ。」

 山川は「無産階級が小ブルジョア進歩主義のうちに溶け去ることなしに、独立した無産階級の政治勢力に結晶する」(「政治勢力の分布と無産階級の政党」前掲書三三〇頁)ために、「組合に組織せられた工業労働者と農民とを中堅とする」「全無産階級党たる目標に近い」政党を普選をまえにしてつくろうとした。

 まさにこのときに、福本がロシア・マルクス主義をカバンに入れて帰朝し、山川を小状況に終始する組合主義者として刻印をうったのであった。
 (『思想』1964年12月号から)

 説明

 本を整理していたら、この雑誌を見つけました。テーマは「現代とマルクス主義」となっていました。自分の頭で考えている人の文章だけパラパラとめくってみました。この論文は面白いと思いました。保存しておく価値があると思いましたので、ここに載せます。
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