マキペディア(発行人・牧野紀之)

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牧野本へのレビュー

2017年06月05日 | マ行
   

 久しぶりにアマゾンで牧野本へのレビューを読んでみました。前回見た時からかなり間隔が空いたせいか、初見のものが主となりました。私は感覚的に、本が出てすぐ批評を書く人には「レビューオタク」とでもいうのか、レビューを書くのが趣味みたいな人が多く、後になってから書く人は、読んでから、「これはやはり批評を書いておくべきだ」と思って書く人が多い、という印象を持っていますが、今回もその「印象」は変わりませんでした。

4番と6番はかつて1度読んだことがありましたが、放置しておきましたので、今回引用しました。4番さんの批評は、批評者の方が私より文法論に詳しいようで、私には「批評の批評」はできません。哲学でも文法でも同じですが、私のスタンスは「自分の問題の解決に役立つか否か」です。

ヘーゲル哲学は私の生活に、特に他の分野での研究に役立っています。又、政治運動や自治会活動にも有効です。金もうけには、今の所、大した成果をもたらしてくれていません。残念。これが私の哲学が不人気な理由でしょう。

関口文法をまとめた事は大いに役立っています。今準備しています『小論理学』の訳注を見れば誰にでも納得がゆくでしょう。

『精神現象学』では他の訳書と比較して「分りやすいか否か」を判断していらっしゃるようで、正しい態度だと思いますが、もう1歩進んで、段落毎にたいてい付けてある「内容上の小見出し」が適当か否かをお考えになることをお勧めしたいと思います。特に近刊予定の『小論理学』ではこれをお勧めします。教師は「文脈を読め」と言いますが、「文脈を読むための技術」を具体的に教えておらず、自分自身も文脈が読めていない場合が多いです。内容上の小見出しを付けるのはその練習の1つです。これは本当の意味での「頭の体操」に成るはずです。将棋の藤井4段は詰将棋で力を付けたそうですが、内容上の小見出しを考えることは「文脈を考えるための詰将棋」みたいなものです。きっと役立つだろうと思います。

評の対象本は──(罫線)で挟んでおきました。雪美人さんは『精神現象学』と『哲学の授業』との2点について批評を書いています。後者について批評をいただいたのは初めてです。

今回のレビューを読んで、しっかり読んでくださる方がいらっしゃることが解りましたので、『小論理学』の校正を更に念入りにやって、少し遅れてでも好い本を出したいという気持ちが高まりました。
                    2017年6月5日    牧野紀之

     牧野本へのレビュー(最近の物。アマゾンから転載)

1、現代ではこれぞ決定版と呼べる労作
    ──『精神現象学』について──
2017年3月27日、投稿者・HIEN

◆本書はいくつかある『精神現象学』の全訳の一つだが、間違いなくその中で最良の一冊である。

◆なぜ最良か。それは頭からすらすらと通読できる翻訳が本書だけだからである。たとえば長谷川訳が決してそういうできのものではないことは、長谷川訳の方のレヴューにも書いておいた。確かにカッコの挿入は多いが、そのことによって明らかに読みやすくなっており、また挿入の註も実にかゆいところに手が届く、誠実な内容になっており、基本的には本文の理解に資するものばかり。この組版やカッコの挿入が読みにくいという人は、先入観に囚われて真面目に本に取り組んでいない人だとしか思えない。私はまだ本書を読み切れていないが、忙しい中に本書をたぐり、序論の第二段落までを読むことがとりあえずできた。しっかりと「分かった」という実感を持ってである。こういう実感は長谷川訳ではついぞ持ち得なかったものだし、樫山訳にいたっては意味不明で最悪なものだと思っている(牧野はこの点について、樫山は金子訳を無理矢理置き換えようとして日本語がおかしくなっていることを指摘していたが、実に納得がいく)。金子訳も取り寄せたが、訳注のための資料として参照するためのものとして考えている。

◆たとえば私は序言第二段落までを読んで、これが「序論の序論」だということや、例の「序文の存在意義」(序文など必要ないといっているのにヘーゲル自体がここで序文を書いている矛盾がある)ことについて、他の著者では納得のいかない解釈だったものが、本書では実にしっくりといった。他の著者は不真面目だから、ヘーゲルが慌てて書いたのでここは矛盾しているのだ、ということばかりしか言っていなかったので、長らくそのように考えていたのだが、そういうことではなかった。序文は必要だけれど、序文だけ読めばよいというようなものとして必要とされるべきでない、と書いてあると私には理解された。「事柄 Sache」があるのは結果=目的においてではなく、結果と過程=実現が一体になってのものであって、なるほどまさに弁証法(的全体性)である。別方向からいえば、全体性とは地理的平面的であるだけなのではなくて、生成的=継起的(≠時間)的なところがあり、それが記述的歴史観に対する論理的歴史観として現れているわけだが、こういうところからはハイデガー(もしくはドイツ観念論)的な時間論を理解する上でも有用な気がするし、学びを多く感じている。

◆私はヘーゲル研究者ではないので、原文を参照しながら正しい訳文を追求するプロジェクトにはコミットしない。ではなぜヘーゲルを読むのか。なんとなくである。直感である。ここに大事なものがあるという感じがするからである。あくまでイメージだが、カントがスタティックだとすれば、ヘーゲルにはダイナミズムがある。このダイナミズムが重要だという直感があるのである(カントももちろん重要だが)。

◆決定的な理由は「なんとなく」だが、補足的な理由は無数にある。たとえば私は弁証法の総合的効果は非常に重要だと思っていて、詳述はしないが、これは有るタイプの文学批評理論や法解釈理論にいまなお決定的な影響を与えており、そのような全体化の駆動因の起源としてヘーゲルが重要であると思っていた。また、当然ながらマルクス・エンゲルスはヘーゲルを重要な参照項としており、史的唯物論や物象化論の理解、また共産主義批判のためにも必要な知的源泉である。またフランス現代思想的にはコジェーヴのヘーゲル読解がジャック・ラカンやフーコーに影響を与えていることは周知のところであり、ハイデガーやアーレントの「動物」論を読み解く上でも本書の存在意義はいまだ大きいと推測している。それからお座敷学問的な意味ではなく、リアルな実存主義的問題として、現状に様々な苦労や制約を私も抱えているわけだが、そこにおいて「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」(法哲学)という例のテーゼを理解したいと思ったのも重要な動機である。なぜ理解したいのか。それは、理解しないと(現実に対して)諦めもつかないからである。これは私の全く別口の見解だが、諦めうるものに対してだけ忍耐が可能になるのではないかと思う。反証可能性命題だけが科学的である(とされている)ように。

◆余談がすぎたが、引き続き本書を読み進めていこうと思う。現象学を読み終えたら、マルクスに戻りたいと思っている。一応、社会がどうあるべきかにも私は興味があるのであって、テクノロジーが発展する以前の哲学者は、逆に現代であるからこそ読みがいがありそうだ。だが、牧野の小論理学が出版されるようであれば、そちらを読みたいとも思う。大論理学やその他のヘーゲル書についても牧野訳があればと思うのだが、そういうわがままはもう望めないだろう。十年後くらいにもう少しまともにドイツ語を使えていれば望ましいと思っているが、英語だけで精一杯である。著者の『辞書で読むドイツ語』なども読んだが、実に素晴らしい本で、ドイツ語に浮気したくなる気持ちを押さえねばならない。ああ、もっと学生時代に真面目に勉強していればよかったが、制約のある社会人時分でも、何を始めるにも遅くはないと思っている。

2、牧野紀之はもっと評価されるべき哲学者だと思います
    ──『精神現象学』について──
  投稿者・雪美人、2016年12月31日

詳細で読みやすいと思う。ただこれは牧野氏の読んだ現象学である。牧野はヘーゲルに比べれば小さい存在だなどと考えるのは笑うべき権威主義だ。ヘーゲル哲学にあってはヘーゲルさえ一つの契機であると思う。現代日本に生きる初学者としての私にとっては、わかりやすさは最も大事だ。これを読む前に加藤尚武編の精神現象学入門を読んだが、さっぱりわからなかった。そのものより難解な入門書とは何なのか。古典の入門書とはたいていこの類だが、牧野氏の訳注はヘーゲルの記述から全く離れた例を引いて説明してくれる。そもそも理解とは個別のものを一般化して自分の中に取り込み、それを自由に元のものとは違う個別のものとして展開するということではないのか。入門書を執筆する先生方は牧野氏の姿勢から学んでほしい。生活の中の哲学という牧野氏の考えに非常に興味がわく。「職業としての学問」ではない、狭い専門人ではない現実的な人間を見据えながら論理性において曖昧さを許さない学問感に深く敬意を表します。この本はできれば哲学を志す若い学生に読んでほしいと思います。

3、精神現象学を学ぶには最も良い訳だと思う
    ──『精神現象学』について──
   投稿者・Takayoshi K。2015年10月18日

今まで、樫山・長谷川・金子各氏の翻訳を読んだが、牧野氏の訳が最も分かり易かった。
 ヘーゲルは言葉の意味するところが文脈により異なるため、論理展開を追って理解してゆく必要がある。牧野氏の訳は注釈を交えながら丁寧にその展開の内容を示してくれる。確かに余分と思われる例示もあるが、そこも含めて自分としてどう受け止めるか考える材料となる。
 金子氏の訳も良いと思ったが、金子氏の訳とも対比しながらより分かり易い内容となっており、お勧めできる翻訳である。

4、唯一の真の認知文法(反「生成文法」)!
    ──『関口ドイツ文法』について──
   投稿者・kimko379、2015年11月23日

関口存男(つぎお)が「意味が文法を作る。」と喝破した。また、関口が名詞性・動詞性・形容詞性・副詞性などの本質を史上、初めて定式化した。故に、関口文法は事実上、最初の認知文法であったのである。また、今日ある認知文法は、ゲシュタルト文法、創発的文法、構文文法、「場所の言語学」など、全体論的・カオス理論的な偽「認知文法」であるが、関口文法は、その様な偽物ではない。この本は、その関口理論をまとめてくれている名著である。
この本の誤植は「マキペディア」内のリンクを参照されたい。
なお、牧野氏は改訂版を執筆中との事であるが、この初版も牧野氏と出版社(未知谷=みちたに)に何年も待たされた物なので、改訂版も、いつ出るか知れたものではない。

5、哲学らしくないが真の哲学だと思います
   ──『哲学の授業』について──
   投稿者・雪美人、2017年1月15日

哲学の入門編かと思ったら全く違っていた。専門学校での哲学の授業から得た思索かと思って読み進み最終章に至って、これは確かに哲学だとわかった。

著者は、対話こそ一切の教育の基本であると言っている。そして対話には、その時その場にふさわしいやり方、技術的方法があると言いたいのではあるまいか。その方法の追求は内容の追求とは別にあるものではない、と言いたいのではあるまいか。そう思いもう一度、第一章を読んでみた。学生時代の研究室の「自由な話し合い」は酒飲み話とどこが違うのかわからなかったと言う。あまりにも秩序が無さすぎるという。痛烈な皮肉だ。

著者はいたるところで現在の哲学界を批判している。特に大学教授に大変手厳しい。それがどういう意味かは初学者である私には関係がないが、哲学はものを考える手段としてとても有用であると考え、その能力を手に入れたいと思う人間にとっては本書は、目標を、遠いがはっきりと確認できるような良書である。

6、ヘーゲルの「論理学」が分かる
  ──鶏鳴版『小論理学』下巻について──
   投稿者・1066-1154。2012年2月24日

何も言えないほどに、十分な訳注と、本文の原文を補ってくれることで、日本語として「文脈」が出てくる名翻訳。上巻は、エンチクロペディの序文などで、「論理学」の本文は、下巻。抽象的世界の論理学が、多様な世界のエッセンスとして登場する。自然哲学も、精神哲学、わけても「法権利の哲学」の論理構造も、本書(論理学)に由来する。ただ、ヘーゲルの尋常でない点は、このような抽象的世界であっても、具体的、現実的な「思考」の展開・運動として赤裸々に現れ、これがまた、後続の哲学部門のバックボーンを成して、さらに豊かに展開される点だ。実証主義に汚染された「社会科学」は、往々、ヘーゲルの哲学を汎論理主義、流出論と、位置付ける安易な解釈を行い、自身のポジションを低いレベルで納得し、悦に浸るという度し難い愚行を繰り返す事例は枚挙に暇ないが、とりわけ、真の思考力(論理力・弁証力)があってこそ、帰納や、実証なども意味を持ち得るわけで、それなくしては、単なる事実の累積・賽の河原にすぎない。絶版であるが、上下巻とも積極的に勧めることができる名著・名訳で、翻訳者の些か奇態な意見主張などは目をつぶっても、メジャーな出版社が買い取り、求め安い値段で、一般読者に紹介してほしい。哲学することを学ぶなら、「純粋理性批判」「方法序説」「省察」など高名でもいざ読んでみると、論点や意味の重要性を把握するのは初学者の手に余るが、本書は、却って分かりやすく、しかも思考の訓練に最適で、「哲学入門」として、ぜひ読んでほしい一書である。

、語学学習指南書
   ──『辞書で読むドイツ語』について──
   投稿者・田舎教師、2016年6月23日

本書はドイツ語学習についての本ですが、その内容は単にドイツ語だけに留まらず、広く語学学習一般に通じるものです。
 ただし、話すことより、辞書を引き、正確に文書を読んでいくことの重要性が語られているため、語学学習に対する学習者の考え方により、適・不適があるでしょう。
 私にはとても参考になりました。

8、タイトルほどには
   ──『辞書で読むドイツ語』について──
    投稿者・さとる、2016年12月8日

タイトルほどに意欲を盛り上げるものではありませんでした。版を重ねているモノなので期待しました。


9、牧野節全開
   ──『理論と実践の統一』について──
   投稿者・不良塾講師。2015年2月22日

 牧野紀之は学会や権威に背を向けて自ら「生活の中の哲学」を追究してきた人物である。その立場から、講壇マルクス主義哲学や倫理学にもメスを入れてきた。この本も「そもそも実践とは何か」といったことを論じている。このようなことを追究しない自称マルクス主義者の怠慢を暴きだすことになっている。
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