ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

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教育の広場、第 231号 「マオ」を読む

2006年06月22日 | マ行
第 231号 「マオ」を読む

 ユン・チアンさんとその連れ合いらしいジョン・ハリディさんの共著『マオ』(土屋京子訳、講談社、上下)が出て、大きな反響を呼び起こしているようです。

 私もかつて毛沢東を信奉していた時期のある者として、これについて何も言わないわけにはいかないと思います。

 もちろん、毛沢東の宣伝のうまさとそれによる神話の虚偽性を指摘するならば、逆に本書の信憑性についても少しは疑ってかかる必要はあるでしょう。実際、たんなるプロハガンダだと言っている人もいるようです。しかし、私にはそうは思えません。

 本書を読んでの第1の感想は、一体何を信じたらいいのか、という絶望に近い気持ちです。「実践によって証明された」などという言い方も考え方も正しくないことは、既に私も指摘していることです。

 最近も『99パーセントは仮説』と言った本も出ているようです。

 しかし、生きている以上、何らかの情報を真として何らかの考えに基づいて行動していかなければならないのです。どうしたらいいのか、それが問題です。

 そこで第2に考えた事は、やはり、説明責任を果たしていない人なり事柄は、している事自体がどんなに正しいように見えても、まず信用してはならない、ということです。公生活では「有言実行」しか認められないと思います。

 日本では伝統的に「不言実行」の徳が認められてきましたが、政治家でも大学教員でも、その他のいかなる公人でも、今後はそのような態度は「徳」とは認められないと思います。まして何でも発表できるインターネット時代です。

 漱石の『三四郎』には「偉大な暗闇」とあだなされる広田先生が出てきます。これにはモデルがいるという説もありますし、高橋秀夫さんは『偉大な暗闇』(講談社文芸文庫)という立派な評論を書いています。

 そこで「偉大な暗闇」とは、何も著作を著(あらわ)していないから頭の中に何が詰まっているか分からない(暗闇)が、素晴らしい学問が詰まっているはず(偉大な暗闇)だという意味のようです。

 しかし、これはカントの物自体に対するヘーゲルの批判を知っていれば間違いだと分かります。カントは「現象していない物自体とはどんな物か分からない」としましたが、ヘーゲルは「現象の総体の中に物自体が出ているのだ」としました。出てこなかったものは無かったのです。つまり、暗闇は偉大ではありえないのです。

 分かりやすい譬えを挙げるならば、試合で負けたスポーツ選手について、「彼は本当は実力があるのだ」と言ってみても、何の意味もないのと同じです。

 私もこの歳まで生きてきて、自分についても知人についても人生の総決算というものを考えます。そして、実績が全てということを考えます。「本当は~だったんだ」といった言い訳は成り立たないのです。

 随分長く論じましたが、最近、大学教員の発言を検討する際、大学のホームページでのその人の頁を確かめるようにしています。研究業績、授業実績、社会活動等についてどれだけ十分な説明をしているかを見るのです。すると、ほとんどの方が説明責任を十分には果たしていないことが分かります。

 第2に、それは又、反対意見を認めず弾圧する人や運動は認められないということでもあると思います。私はかつてキューバに期待する気持ちを表明しましたが、そしてその気持ちは今でも変わりませんが、キューバなりカストロのやり方でどうしても理解できない点、納得できない点は、政治犯がいるということであり、キューバには言論の自由がない(らしい)ということです。

 自分のしている事が正しいと思っているならば、どうして自由な批判を認めないのでしょうか。

 第3に、これと関連して、批判に対して答えないのも「原則として」間違っていると思います。批判には答えるに値しないものもありますが、学問的な批判には答えるべきだと思います。それが本人の成長につながりもします。

 最近というよりは少し前からですか、立花隆さんに対しては多くのしっかりした批判があるのに、立花さんは全然答えていないようです。これで支持者を失った面もあるようですが、全体としては、ジャーナリズムで今でも生きています。こういう人を生かしておくジャーナリズムも問題だと思います。

 長谷川宏さんのヘーゲルの翻訳は私も批判していますが、他の多くの研究者も批判しています。それなのに、長谷川さんは答えていません。その訳書のまえがきの中で「注解を書きたい誘惑に駆られたが、訳文そのものだけで説明するのが本当の翻訳だと考えて注解を付けなかった」という趣旨のことを述べています。批判に答えないのは、翻訳そのものが反批判になっているとでも言うのでしょうか。

 NHKのラジオドイツ語講座の講師たちも批判に対して答えない人が多いです。こういうのを見ていると、小泉首相や私の所属する静岡県や浜松市の知事や市長のように、はぐらかし回答でも回答するだけましかな、とさえ思えてきます。

 最後にもう一点。「諸君」の6月号では「マオ」などを題材として座談会をしています。その中で中西輝政京都大学教授の次の言葉が気になりました。

 「理想が論理として間違っていなくても、現実に適用したところでとんでもないことになったら、その理想は間違いだったと烙印を押さなくてはいけない」

 氏にはかつてスノーの「中国の赤い星」にいかれたり、石坂洋次郎の「青い山脈」に共感したりした1時期があったそうですが(私も同じ)、こういった「現実」を知って、その「理想」自身をも疑うようになったのでしょう。

 「理想はそうだが現実はそうはいかない」という「理論」はよく聞きます。私は以前から「この考えは間違っている」と思ってきました。現実と合わない理想がどうして「論理として間違っていない」と言えるのでしょうか。

 私は、現実と合わない理想や理論は「理論として間違っているはずだ」と思います。逆に言うならば、自己を実現する力を持っている理論だけが本当に「正しい理論」なのだと思います。

 中西さんたちは、共産主義憎しの感情ばかりで、それを「理論的に」検討してそれの間違いを明らかにしようとしていないようです。これでは学者失格だと思います。ひどい現実を引き起こした理論の「理論的な間違い」を明らかにすることは学者の大切な仕事だと思います。

 この座談会を読んでいて賛成できない点は、共産主義に不賛成は自由ですが、ではこの人達はどういう社会を目指しているのか、それが分からないことでした。

 対案を示さない主張も、自分はどういう社会のために戦っているかを言わない主張もやはり無意味だと思います。