- 松永史談会 -

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松永湾の眺望から

2016年09月09日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

神村・西山の川本金一さんのお宅近くから見た松永湾。霞んでいるが浦崎半島の山並みが視認できる。
近景に邪魔なものが映り込んでいるが一度金毘羅さんからの眺望を見に行こう。
金毘羅さん辺りには活断層(長者ヶ原断層、横ずれ断層)の断層線が走っているらしい
裏写真上の赤矢印は戸崎。その手前の高圧鉄塔の立地する低山は福山市神村町・本郷町境の大平山




ちょっと変わり者の合理主義者粟村さんは最近ゴルフ好きの娘婿のためにゴルフ場(№14番ホール)脇に当たる、この西山に土地買ったといっていたが粟村さんのことだから畑の脇に小屋を建てそこを鴨長明風の方丈庵化するのだろうか。

日野外山にあった鴨長明の伝方丈庵跡探訪

方丈石という巨岩と「方丈庵」伝説との混同があるような気がするが、ここがふつうに言われている鴨長明の伝方丈庵跡なのだ。日野から供水(こうすい)峠を下って炭山経由で近江石山(石山寺)方面、日野の尾根筋をそのまま北上すると上醍醐寺(真言系の修験道の拠点)。長明は王朝国家期には摂関家の山荘(たとえば藤原道長ゆかりの浄妙寺)の御膝元にあって当時繁華な町場を形成していた旧巨椋池池畔の岡屋千軒(宇治市)を訪れたり、戸山を起点としてあちこち行脚している。

図中の⑲「戸山」(日野外山)・・・・・・鴨長明の方丈庵のあったところだが、この古図では「東岩屋殿」(山科神社の巨大磐座を指す)「龍谷」(風水用語だが、延喜御陵=醍醐天皇陵東方の北醍醐小学校裏手急崖谷、水が枯れているがかつての水垢離or瀧行場のような感じのところで、その手前に龍神さんを祀った神祠(@北醍醐小学校東方の山地内【鳥居マーク】)が建つ。この神祠の手前に洛東用水が通過)などの洛東地区における注記の付け方から類推してなにがしかの信仰上の聖域として「戸山」を書き入れたのだろうか。周知のように上醍醐寺の醍醐水、伏見・御香(ごこうの)宮の御香水、供水(こうすい/こうずい)峠の供水など名水関連の場所だ。

地震といえば慶長伏見大地震(1596)。伏見城天守や東寺、天龍寺等が倒壊


わたしは関西地方での在住期間(40年間)が長かったので故郷のことより、そちらのことの方が詳しい。
勧修寺(かじゅうじ)といえば居宅から近かったこともあって何度か門跡(元皇族:山階宮家の筑波)さん会っていろいろ大石順教さんのことなど伺ったことがあるが、今から考えると大塚全教(身障の尼僧)さんの話題も出てきたのだが、彼女がわたしが門跡の筑波さんにお会いする一年前に亡くなられていたこともありこの尼僧が沼隈郡東村出身の人物であることを最近まで知らなかった(最近確認したのだが、お墓は福山市東村町大谷にある実家付近の菩提寺境内墓地の、ちょっと離れた傍にある)。
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