- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

遅ればせながらの『山本瀧之助日記1~4』

2014年02月24日 | 断想および雑談
鈴木貞美『生命観の探求』を返却し、こんどは『山本瀧之助日記1-4』を借り出した。山本(最後列、向って左から二人目、左端は村田露月)はわたしの祖父とは郡役所時代は同僚だった。阿武郡長の記念写真(我が家所蔵)は明治45年4月7日条に「午前、役所にて撮影」とあるものだろうか。いやいや、後述するように送別式後に退官記念写真というのも変な話なので・・4月7日の写真撮影はやはり別の写真の話なんだろうという気もする。阿武郡長退職の件に関してはいろいろ慰留に回り,白足袋着用で畏まって送別の辞を述べた山本からすればこの退官記念写真のことも日記に記す程度の大きな話題だったはず。
因みにわたしが神原敬太郎の2女の婿:倉田久士(元町長)から貰った同じ画像資料では明治45年3月阿武信一郡長の退職記念写真と説明が付されていた。3月というのは山本日記からはどうも考えにくい時期・・・・・、阿武郡長の送別式は4月3日で、新郡長(小林正敏)の着任は4月13日のことだった。

図書館でその日記を借り出してみたのだが、断片的にでも地方史や民俗学研究の史料として使えそうな感触が得られ、これは予想外に面白そう。明治21年から昭和4,5年までの40年間の記録だ。

たとえば日記の中に登場する「地神講」だが、これは、岡山県から広島県にかけて存在する地神信仰のありようを知る手掛かりになる。ジャガイモのことをジャガタラ芋。大正8年6月23日条:役所でやることがなく、机の上に帆足理一郎『教育哲学概論』、加藤一夫の『民衆芸術論』などをおいていたとの記述も・・・・。大正6年6月13日には永井潜『生物学と哲学の境』を50ページほど読んだとある。


大正11年1月28日条:富士川の『金剛心』、帆足の『哲学概論』を読む。山本が日記で上げた本に洛陽堂刊が多いのは何故? まさか・・・・この辺は勘ぐればSuspicious!・1月13日は沼田笠峰『若き婦人の行くべき道』とある。





今回は図書館で山本瀧之助日記1~4を借り出したが、意外と使い道が多そうなので近く入手予定。

洛陽堂と山本瀧之助関係を後者の書いた日記を手掛かりに見ていくと、いろんなことがおぼろげながら浮かび上がってくる。

大正10年分は『一日一善日記』、洛陽堂刊、
大正11年  新式懐中ノート
大正12年  青年修養日記  青年公論社刊
大正13年/大正14年  当用日記     積善館刊
大正15年 当用日記             博文館刊

大正9年11月23日
午前十時洛陽堂行き。 
午後二時、亀之助を赤十字病院に見舞う・・・本人は半ば意識不明。
24日 天野藤男と亀之助を見舞う。
12月1日 洛陽堂により亀之助の様態を聞く・・・・小康状態との返事。
赤十字に見舞う。
12月12日亀之助死亡の電報。宿にて東向遥拝。
12月14日午後2時河本主人葬式遥拝

大正10年5月15日洛陽堂へ泊る。
7月1日 洛陽堂へ行き。店の主人(河本俊三)より紛議を聞く。夜洛陽堂に泊まる。
5日神田の店の主人(河本哲夫?)にホーエル中将からの手紙を見てもらう。
10月16日 午後1時蓮華寺の河本氏追悼会へ出る

大正11年4月16日 洛陽堂へ
4月25日 洛陽堂より雑誌たくさん届く。
大正11年5月10日 帆足理一郎『人生詩人ブラウニング』第4版を発行。

震災直後の大正13年には河本哲夫経営の新生堂より刊行。


7月29日 洛陽堂へ寄り、7時半に帰る。
大正11年9月1日~10月31日 創業15年記念セール時の洛陽堂(河本俊三経営)の出版目録

大正11年11月16日 中村順三『米国史講話』を刊行
河本俊三時代の洛陽堂の刊行書、天金仕立てで豪華、函・装丁は亀之助時代を踏襲。巻末に出版目録が付されているが津田左右吉『文学に現れたるわが国民思想の研究』・『古事記及び日本書紀の新研究』、太政官翻訳『日本西教史』、山本秀煌『日本基督教史』、中山昌樹『ダンテ神曲』などだけ非常にすっきり。




これは閉店(倒産前在庫一掃)セール?大正11年「東京洛陽堂出版目録・・・・この時期(大正11年11月段階)に新刊書を出していることなど勘案すると、いやむしろ・・・・再生プランの中で行われたセールだろ。


しかし、大正12年4月至ると状況が一変する。
すなわち
大正12年4月5日 洛陽堂などへ手紙。洛陽堂へ調印して送る
5月15日 洛陽堂へ行く。
そして
大正12年7月8日 洛陽堂より山本の著書33冊:「早起」5冊、『地方青年団体』5冊、「模範日」5冊、『一日一善講話』4冊、「着手ノ箇所」5冊、「団体訓練」4冊、『一日一善』5冊
これが洛陽堂の閉店/倒産を示唆する動きだったのだろうか。
ちなみに『早起』は大正14年に希望社から・・・。
高島平三郎編『精神修養の泉』に関して甲子出版社に大正十二年八月ニ日「版権譲渡」、甲子出版社同十三年五月一日同シリーズを発行。これは出版権を引き継いで印刷・発行を続けてくれる出版社が見つかった幸運なシリーズとなった本だったわけだ。



大正12年10月15日 関東大震災の見舞い品を蓮沼・妹尾・石黒・五百木・井上・田澤・河本・後藤に送るつもりだったが、27日田島産の魚介類の見舞い品を送った石黒・五百木・蓮沼・妹尾・後藤・田澤。井上・河本には結局送らなかった。
以後山本瀧之助日記から洛陽堂関係の記載は消え、例えば山本著『早起』は大正14年段階には希望社刊となる。

「著者が嘗て洛陽堂から出版した著書・・・・・・」、「前洛陽堂主の兄弟である新生堂主人は一つに読書子の不便を嘆き、その処女出版として・・・」

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藤本慶祐「平叙日本仏教」

2014年02月24日 | 断想および雑談
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