- 松永史談会 -

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天野藤男「田園趣味」、大正3年

2013年10月06日 | 教養(Culture)
田園趣味、
天野藤男 著






[目次]
標題
目次
第一章 序説 / 1
一 美しき田園 / 1
二 清き農夫の心 / 3
三 農民は自然の寵児 / 4
四 天候と農民 / 8
五 田園趣味 / 12
六 都市と田園 / 17
七 田園趣味の開発 / 24
第二章 田園四季 / 27
一 春より夏へ / 27
二 夏より秋へ / 30
三 秋より冬へ / 36
四 冬より春へ / 41
第三章 田園小品 / 45
春之部 / 45
夏之部 / 57
秋之部 / 71
冬之部 / 79
第四章 少年の日記 / 83
一 永田先生 / 83
二 勿体ない親心 / 86
三 思ひ出多きこの日記 / 93
第五章 田園日記 / 103
一 徂く春の日記 / 103
二 草花日記 / 109
三 田園日記 / 117
第六章 小品四篇 / 130
一 郊外 / 130
二 清見潟の朝釣 / 140
三 午後三時 / 157
四 花ものがたり / 165
第七章 田園小説 / 180
一 旧師 / 180
二 白木蓮 / 206
第八章 説論三章 / 227
一 赤毛布論 / 227
二 小学校と田園趣味 / 236
三 田園都市私論 / 280

天野はジョン・ラスキンの影響を受けている。
天野登場の時代背景
天野の故郷、静岡県庵原村と報徳運動家片平信明
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田澤 義鋪(よしはる1885-1944)

2013年10月06日 | 教養(Culture)
広島県沼隈郡出身の青年団の父:山本瀧之助の影響を受け社会教育運動に生涯をささげた元内務官僚。
山本瀧之助を東京の日本青年館落成時(大正14年)において山本の胸像を飾り、新日本青年運動の先覚者(第一人者)として顕彰したのは田澤か丸山鶴吉だった。当時丸山鶴吉(内務官僚出身、明治42年入省で田澤と同期)は田澤と同様にその理事を務めていたので、山本顕彰の陰では郷友意識旺盛なこの丸山鶴吉の存在が大きく関与したことだろ。丸山は明治神宮外苑に造成されたこの青年館の落成に関しては自叙伝で言及しているが、山本に関しては言及はない。
山本の故郷には彼の顕彰碑が立っているが、顕彰文は田澤のものだが、式典には丸山が立ち会っている。表立たないのが丸山流。
1944年(昭和19年)3月、四国善通寺での講演の際、日、本軍の勝利を信じる聴衆を前に「敗戦はもはや絶対に避けがたい」「この苦難を通らなければ平和は来ない」と言い残し壇上で突如意識不明となり倒れる。そのまま同地で療養するも、11月に59年の生涯を閉じた。そういう昭和の西郷さんだった。
田澤の盟友が下村湖人。ここで紹介する書籍も湖人執筆による田澤に関する伝記文学の名品(昭和29年刊)。「下村湖人全集 第六巻 」の「人生随想 この人を見よ」も田澤の人物伝。



田澤26歳の時(在任期間は長く、明治43年ー大正3年)に静岡県安倍郡郡長として赴任。隣郡に天野藤男(1887-1921)。庵原村には明治初年より片平信明という報徳思想の信奉者の活躍があったので、天野にはその影響の方が大きかったか?

発行者は丸山鶴吉:日本青年館内、財団法人田澤 義鋪記念会の代表。田澤と丸山とは内務省の同期入省(1909年、若干前後するかもしれないが、ほぼ同期入省)。丸山は田中義一内閣当時は野に下り、日本青年館の理事。当時の当館の理事長は井上準之助。田中内閣が総辞職し、浜口雄幸内閣が成立すると井上は大蔵大臣、丸山は警視総監に就任。なお、田中義一は1910年(明治43年)、在郷軍人会を組織し、大正3年ドイツ視察を経て、青年団の結成を痛感。
すなわち、日清戦争、日露戦争を経験することにより、地方部落の若者たちの間に、国家的意識、愛国心がたかまってきた。戦役中に各地の青年会は、出征軍人の歓送迎や餞別の供与、戦地への慰問状の発送、留守家族に対する耕作その他の労働補助や金品の贈与、軍部への献金など注目すべき活動をする。こうした地方の青年会の果たす役割に政府は、地方改良運動の一環としても重要視しはじめる。 こうしたなか、陸軍省軍事課長の田中義一は欧米各国の青年団活動の実情を調査し、それをもとに我が国でも町村の青年会を母体として「少年団」を作る必要があるとのべた。(大正3年10月)

青年団の組織化に関しては軍部と内務省とでは路線対立があったらしく、丸山は軍部中心の青年の組織化運動が力を得ていった事に対し青年教育という面から何とも口惜しい限りだったと著書に於いて述懐している。
地方改良運動と青年政策@東京大学
田澤に関する大学院生の論考
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