- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

文化論としての古写真考(1)

2008年02月15日 | 断想および雑談
そもそも写真というのは古くは遺影写真などの形で仏間などの鴨居の上に飾られたり、額縁に入れて壁に掛けられたり、人生の節目・節目を記録してアルバムの中で保管されるなどしながら、まるで故人や離散した家族の形見のようなものとして扱われてきたものだ。キリストの図像(アイコン)や弘法大師のそれと同じような感覚で、毛沢東や明治天皇の肖像写真=偶像を飾ったりする風習は洋の東西を問わず、広く世界に見られる。
ミイラにすれば死者はあの世で永遠に生き続けるといわんばかりのあっと仰天な論理の同形物が亡き人物の肖像写真には込められる。

廃屋の壁を飾る家族写真@アメリカ・サンアントニオ
<marquee behavior="alternate" onmouseover="this.stop()" onmouseout="this.start()"></marquee>


写真を撮影するとその人は死ぬとインドネシアのあるムラの老人が語っていたが・・・・。これなどは故人は遺影写真の中で生きていると考え、遺影写真のようなものを撮られる(ポートレート撮影自体がブラックマジックのようなものとして受け取られる)と、自分は故人=死亡することになる。こんな感覚というのは、紛れもなくある種の呪術的観念(レヴィ・ブリュールのいう原始的心性の一種)の発露といえるだろう。


家族のピクニック写真(アメリカ合衆国テネシー州、両親・おば、子供の自分=NYにこの30数年在住、1940年代? 当時東テネシー地方では紅茶を飲む習慣はなかったらしく、父親が持つのはコーヒーだとか・・・)、さま変わりした中国雲南の祭壇事情、文化大革命期?、そしてインドネシアのマルク地方(香料諸島の中心・テルナテ)の王様(スルタン)とその廷臣たちの集合写真。
<marquee behavior="alternate" onmouseover="this.stop()" onmouseout="this.start()">     </marquee>


アマゾン川流域のあるインディオは狩の獲物の足跡に槍を突き刺すと、その影響が獲物に及んで逃げ足が鈍ると観念し、狩猟の時にはパフォーマンスとしてバンド(この場合ムラ人たち)が総出で槍を突き刺す真似を儀式として執り行う(フレーザーのいう感染呪術)。日の丸が日本国の一部であるような感覚で、そして特定故人の肖像写真がその人物の髪の毛や爪と同じ、身体の一部として分類されるとそれは単なる物体以上のものになる。要は意味づけの問題なのだが、意味づけが特定の個人を含め局域にとどまるか公共空間全般(例えば民俗社会や国民国家全域)に及ぶか、もし後者の場合、法律に規定されているか、否か・・・・。

プライバシーといった身体感覚がいまどきの法的衣装を纏うと肖像権といったものになるが、これと前述した古めかしい人形(ひとがた)としての肖像写真の観念とは意外に隣接性があることなのだ。



普通のポートレート写真と人形(ひとがた、古くは御霊信仰と結びつく)としての肖像写真は同じ一枚の写真をめぐる意味付けの違いに過ぎないのだが、両者の差異は寺院内の信仰対象としての仏像(A)と博物館内に展示された美術品としての仏像(B)位大きな開きがあるのだろう。おそらく運慶やティルマン・リーメンシュナイダー(Tilman Riemenschneider、1460~1531)をしてあれほどの名品を作らせたものは、想像するところ、神仏を畏敬する観念だったろうと思う。あれだけのものを創るというのは、形を変えたある種の”信仰告白”に違いないと・・・、多分に期待を込めて、思うのだ。

ところで、
オランダのDocman(Alkmaar在住)は古写真のコレクターだ。彼は第二次世界大戦で戦場となった祖国を離れ、ブラジル・アメリカへ移住した親族たちを訪ね昨年旅をしている。いつ何を、何処でといった写真に関する詳細なDocmanメモは第三者にとってはとても参考になる。
Flickrでは実に様々なグループ-Old Photos
Historic and Old Photos など-に写真がプールされているゾ

ここで話題を元に戻すが、わたしたち俗物が古写真を見る感覚は完全に(B)に近いものだ。
どのように古写真を客観するのか・・・、鑑識学的にか、それとも後述する吉見のように文化政治論的にか、それとも・・・ということになるのだ。ただその場合でも、いつ何を、何処でといった基本情報が不明な写真の場合は史資料としてはかなり扱いにくくなるだろう。
 


Docmanのコレクションは彼の一家にとって家族の絆を確かめ合うためのかけがえのない財産なのだろうな~。

 <marquee behavior="alternate" onmouseover="this.stop()" onmouseout="this.start()">  </marquee>インドネシアの南マルク地方に出現したイスラム教徒の監視小屋とオサマ・ビンラディンのポスター


最近の古写真研究では例えばG.Bateson&M.Mead夫妻の撮った映像資料を扱ったものがある。しかし、アカデミズムの分野での古写真・映画研究などは未だ皆無に近い。
Sullivan, Gerald(1999)、”Margaret Mead, Gregory Bateson, and Highland Bali: Fieldwork Photographs of Bayung Gede, 1936-1939”.......夫妻が撮影した200枚の写真を引き合いに出しつつ、Margaret Mead, Gregory Batesonの文化人類学的方法を回顧展望したもの。




吉見俊哉『博覧会の政治学』などは視覚的インパクトに訴えて民衆の心を捉えようとした企業や国家を古い絵葉書写真などを上手に活用し手際よく論じていた。このようなテクストを詩学(Poetics)的に扱うか、政治(Politics)論にそうするか・・・・、両者の間には一つの大きな分水嶺が横たわっているのだが、両者の緊張関係の中で古写真を見つめるというのがよいのだろうか・・・。



古い絵葉書(Old poctcard & vintage postcard関係のグループ)
古い絵葉書  



<marquee behavior="alternate" onmouseover="this.stop()" onmouseout="this.start()"> </marquee>

古い絵葉書を売るパリの街角の露店・・・・・・・・・・・古いもの(Vintage)が格好いい

The *New* Vintage Portraits(モノクロ・セピア、擦れなどを意図的に使った現代の古風なポートレート)


<marquee behavior="alternate" onmouseover="this.stop()" onmouseout="this.start()" scrollamount="2"></marquee>

装い・作風としての「古写真(レトロ感覚の写真)」が、欧米の若い写真家の間で静かなブームを呼んでいるのだ。
 


コメント