とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

M-1を初めて見ました

2020-12-23 07:26:06 | TV
 ちょっと前のことになってしまいますが、先週の日曜日「M―1」を初めて見ました。特に見るつもりもなかったのですが、見始めたらやめられなくなってしまいました。とてもおもしろかったです。

 ネットでも様々な意見が寄せられていて、これが漫才なのかという否定的な意見もあるようです。たしかに決勝に残ったものは漫才と言っていいのか疑問に感じるところもあります。しかし番組を見ている限りあの結果は納得できるものでした。

 そして感じたのは、生の演芸番組というのは現場の雰囲気という偶然的な要素によって大きく変わってくるということです。順番や、審査員のコメント、司会者の態度など様々な要素が絡み合って、現場の雰囲気が大きく左右され、見ている人の評価も大きく変わってきたように思えます。

 これは批判しているわけではありません。演芸は客観的な評価とはなじみません。生の中で、読めない一発勝負だからこそ芸人の実力が出てくるのです。その現場の雰囲気をつかんだ芸人が一番いい演芸ができたのだと思います。

 審査している人も大変だよなとも感じました。M-1に関してはネットで審査員に対しての様々な意見があることを知っていました。しかしあのような雰囲気の中で審査をしていくことは大変なことなんだということもわかりました。自身のテレビのエンターテイメントの中に取り込まれ、審査する立場と演じる立場の両方を担わなければならないのです。すごいことです。


 テレビのよさが出ている番組だったと思います。
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現代文共通テスト対策講座③ 評論③「読解力事件」

2020-12-20 08:32:32 | 国語
 国語の現代文の共通テスト対策のミニ講座をしています。評論文の講座の3回目。「読解力」についてです。

 まずは以下の問題に答えてください。

問1

「仏教は東南アジア、東アジア、キリスト教はヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニアに、イスラム経は北アフリカ、西アジア、中央アジア、東南アジアにおもに広がっている。」

この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢のうちから1つ選びなさい。

「オセアニアに広がっているのは、」

①ヒンドゥー教   ②キリスト教 ③イスラム教   ④仏教


問2
 
「アミラーゼという酵素はグルコースがつながってできたデンプンを分解するが、同じグルコースからできていても、形が違うセルロースは分解できない。」

この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢のうちから1つ選びなさい。

「セルロースは(   )と形が違う。」

①デンプン  ②アミラーゼ  ③グルコース  ④酵素


 10年ほど前「東ロボくん」プロジェクトというロボットに東大を合格させるとう実験が行われました。中心になったのが新井紀子さんです。「東ロボくん」は東大に合格するレベルまではいきませんでしたが、MARCHレベルの大学ならば合格できるまでに行きました。そこで実験は終了しました。「東ロボくん」プロジェクトの中でわかったことは、ロボットが苦手としているのが国語だということです。ロボットには今のところやはり読解力がないということがわかったのです。

 コンピューターはある種の刺激に対して、より正解に近いな反応を示すことはできるようになります。しかしその刺激の意味を理解しているわけではありません。人間の作り出したデータを大量に取り入れることによって、より正解に近い反応を示しているだけに過ぎないのです。だからコンピューターの能力がいくら高くなっても、人間の代用にはなりません。

 しかしこのプロジェクトが思わぬ副産物を生み出しました。それは子どもたちの基本的な読解力が思っていたほど高くないということがわかったのです。

 上記の問題の問1は20%の高校生が間違えたそうです。問2の問題はなんと40%の高校生が間違えたそうです。論理的な思考力が育っていないのです。これは日本の教育界に大きなショックを与えました。

 この結果、国語の論理を問う問題が増えてくることが予想されます。

 その意味で次のような問題も考えられます。これは野矢茂樹氏の『論理トレーニング』からです。

問3 { }内の接続詞はどちらが適当か選べ。

「ディズニー作品の中では、擬人化された動物たちは、すべて白い手袋をつけていなければならない。ミッキーもミニーも、犬のグーフィーも、牝牛のクララベルも、悪役の義足のピートも、みな白い手袋をはめている。{しかし/ただし}、ミッキーが飼っている犬のプルートーなど、擬人化されないで、そのままものをいわない動物として登場するときには、その必要はない。その場合の動物はどうぶつなのであって、言葉も話さないかわりに、靴も履かず、服を着ることもない。すなわちディズニー世界にあっては、動物たちが昇格して人間化する条件としては、白い手袋が不可欠なのである。かくしてミッキーマウスは、入浴中でも海で泳ぐときでも、手袋を脱ぐことはない。」

 以上のような日本語の基本的な論理力を問う問題が出てくる可能性もあると考えています。
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現代文共通テスト対策講座② 評論②「PISA調査と新テスト」

2020-12-19 08:32:38 | 国語
PISA調査と新テスト
 何も考えてこなかった(わけでもないのでしょうが、それに近かった)教育界が変わり始めたきっかけはPISA調査という、国際的な学力調査でした。この調査で日本人の学力が落ちているという結果が出て、教育改革を推進する方向に強い力を与えました。日本人の科学の力が落ちてきている、同時に日本人の読解力が落ちてきている。しかも中国や韓国に負け始めている。これでは国際競争に負ける。そう日本人みんなが思い始めました。

 それを改善するためにどうしたのか。

 まずは「ゆとり教育」の見直しが始まりました。みなさんがたは「ゆとり教育」というのがどういうものか、よくわからないと思いますが、教科書も薄くなり、学校の授業時数も少なくなりました。

 時間割の中に「ゆとりの時間」というものも生まれました。「ゆとりの時間」に何をしていたのか。本来は今みなさんが行っているような総合的な探求をさせたいというのが文部科学省の意図だったのだと思いますが、文科省の発信力がないために、現場の教員が何をしていいのかわからなく、結局「ゆとり」のある楽しい遊びの時間になってしまったのです。

 これでは当然学力が落ちます。国際学力調査の成績が落ちてもしょうがありません。PISA調査の結果が出ると反動がやってきます。文科省は学力向上を目指します。ただし文部科学省もかつての自分たちの失敗を認めるわけにはいきません。そこで生まれた言葉が「新しい学力観」です。

 「新しい学力観」とは何なのか。答えは簡単です。PISA調査でいい成績が出る学力のことなのです。ちょうど高校で大学入試向けの授業だらけになるように、国全体でPISA調査向けの勉強一辺倒になります。

 それが新テストの正体です。ですから国語の試験もPISA調査向けのテストになってしまいます。

 では国語のPISA調査に特徴は何なのか。それは図表の読みとりと複数テキストです。だから図表の読み取りと複数テキストが新テストに出ることになります。

 しかしこれは本当はおかしいのです。なぜPISA試験に図表が出るのかを考えれば、世界各国で言語が違い、言葉の読解の問題は作りにくいからです。言語にはそれぞれの特徴がありますので、特定の言語を想定した問題を作ると他の言語では難しいというケースも考えられます。英語では簡単な問題でも日本語にすると難しいということが十分ありうるのです。どんな言語の国でも同じような条件の問題を考えると図表が一番いいのです。そのため図表の問題がPISA調査の特色となりました。

 しかしそれは国際的な比較をするために苦肉の策なのであり、本来の読解力というのは言語による読解に決まっています。あたまの悪い文科省はそんなことも気が付きません。本末転倒していることがわからないのです。
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現代文共通テスト対策講座① 評論①[なぜ「現代文」の教科書に出てくる評論文が難しいのか]

2020-12-15 17:58:09 | 国語
 現在3年生の現代文の講習をしています。その時にお話ししていることを紹介します。

[なぜ「現代文」の教科書に出てくる評論文が難しいのか]
 現代文の教科書に採用されている評論文は非常に難解です。私が読んでいても「この文章は何がいいたいんだろう。」と思われる文章がたくさんあります。なぜ、国語の教科書に出てくる文章はこんなにむずかしいのでしょうか。これはおそらく大学入試のせいだと思います。特に、センター試験型の解答がすべて選択式の問題になったからです。

 大昔の国語の試験問題はもちろん選択問題もありましたが、多くは記述式の問題でした。記述式の試験は受験生にとって大きな労力を強いるものです。ところが選択式の問題というのは、どれを選べばいいかを考えるだけなので、記述式の問題に比べ非常に楽なのです。解答を作り上げるという労力がないわけですし、選択肢がヒントになっていることもあります。漢字の間違いを気にする必要もなく、多くのストレスからも解消されます。私自身、センター試験の前身である、共通一次試験を受けたのですが、国語の問題がゲーム感覚でできるので、非常に楽にできるような気がしました。

 このような状態ですので、大昔の記述式の現代文で扱われていた文章でセンター試験型の問題を作った場合、簡単になりすぎるという結果になってしまったのです。

 私はセンター試験の国語の平均点がいくら高かろうが、別に構わないと思うのですが、大学側としては(あるいは大学入試センターとしては)、あまりに平均点が高いと、その人の力をはかることができないと考えたのだと思います。本当に力のある人も、そこまで力がない人も同じように満点近くの点数をとるので、本当に国語力のある人がわからなくなってしまうのです。(わたしはそれでもいいと思うのですが、それは別の議論となってしまいますので、ここではこれ以上追求しないでおきます。)

[センター試験を難しくするためにどうしたのか]
 現代文の試験を難しくするのはかなり大変だと思います。センター試験の現代文の平均点をさげるために問題製作者が考えたことはおそらく次の二つだと思います。

  • 選択肢を難しくする。
  • 問題文を長く、難しいものする。

 ①は選択肢を長くして、大部分は正解でありながらごく一部だけ本文の内容と合致しない部分をつくることによって、受験生を惑わせようとすることです。実際のセンター試験でも、かなり意地悪な選択肢もありますが、模擬試験の問題の中には、そこまでやるかというような選択肢をよく見かけます。いくらなんでも行き過ぎです。

 ②についてが、この文章の取り上げるテーマなのですが、最近の国語の現代文の試験で扱っている文章が、現代思想、あるいは現代哲学の文章のような、大学というよりも、大学院で、しかも思想的な勉強を専門に扱う人が読むようなものになっているのです。はっきり言ってしまえば、高校生や大学生が読むべき文章のはるか上の文章なのです。

 おそらく極端な場合、受験生はほとんど内容を理解できないまま読み進みます。しかし、選択肢を選べばいいだけなので、内容がわからなくても解答ができるのです。選択肢の間違い探しをしているような状況で試験が行われているのです。もちろん、これは極端な言い方をしているだけで、それなりに理解できる箇所もあるのですが、しかし、文章の本質的な部分は理解できないまま読み進めているのは間違いありません。

 センター試験がこれだけ難しくなってくると、当然「現代文」の教科書に載る文章も難しくならざるを得ません。センター試験に対応することが国語の授業の大きな使命になってくるからです。

 お断りしておきますが、そこまで難解ではない文章の年もあります。しかし、そういう難解な文章が出された年は印象に残ります。過去問を解いていてこんな問題出たらどうしようと思ってしまえば、そういう対策をしなければならない、それが受験です。教師たちは難解な文章を求めます。こうして国語の教科書にたくさんの難しい文章が出現したのです。


[難しい文章とは]
 それでは現代思想的な難しい文章とはどういうものなのでしょうか。これは今私たちの常識となっていることを疑うものです。つまり、「当たり前」を疑うものです。では私たちの「当たり前」というのは何なのでしょうか。「近代」です。

 日本は明治維新の後それまでの江戸時代までの常識を一変させます。日本は古い。西洋の考え方を取り入れるべきだ。西洋の考え方とは「近代思想」と呼ばれるものです。日本のそれまでの武家社会の常識が古いものと考えるようになり、西洋の「近代思想」を常識にしはじめるわけです。

 西洋の「近代思想」とは、合理的で科学的な思想です。科学の力によって人間に大きな恩恵をあたえてくれます。経済的に豊かになり、人々に大きな「幸せ」が訪れるというものです。この思想が日本人の常識となります。

 確かにある面では「近代思想」は正しい面もあります。しかしその「近代思想」的なものの見方に対して異を唱えるような考え方が出てきます。巨視的に見れば「近代思想」は一面的にしか見ていないのではないか、という考え方が出てくるのです。

 いくつか上げてみます。

[言語論]
 私たちは普通、何かモノがあるからそこに言葉が与えられると考えます。それが「近代の常識」です。私たちはそれを「当たり前」と考えます。しかし、20世紀の言語学者はそれに異を唱え始めます。「言葉」のあるから、人間はものを認識できるのだと言うのです。
 そんなばかなと思うかもしれませんが、よく考えてみるとそれも1つの考え方であるとわかります。

[お金]
 私たちはモノがあるからそれに値段がつくと考えます。だから良いものは高く、悪いものは安いのが普通だと考えます。しかし本当にそうでしょうか。「お金」のほうが偉くなって、高いから良いものだと考えるようになります。「お金」と「もの」が逆になってしまうのです。

[科学]
 私たちは科学の発展は絶対に正しいものだと思います。科学の発展が人類にもたらした恩恵はものすごいからです。しかし科学の発展が人類に脅威を与え始めたのも事実です。原子爆弾などの人類を脅かす兵器、環境を破壊するような科学技術、クローンなどのような生命倫理の問題など、科学の発展に危惧するような事態が生じています。科学崇拝てきな「近代」の考え方がこのままでいいのかという視点の考え方が出てきます。
 最近はやりのSDG`sというのはその一つです。

[身体]
 「近代」の常識は精神の肉体への優位性です。それは頭がいい人間が一番偉いという思想です。現在でもそれは多くの人が感じています。しかし人間の頭の良さがそんなにいいことなのかという意見が多くみられるようになります。そもそも人間が頭と体と分けられるのかという思想が生まれてきます。身体こそが人間である。そういう思想が生まれてきます。

[子ども]
 近代以前から、大人は労働力として価値のある存在ですが、子どもは体力がなく知識がたりないので労働力としては価値がないので、子どもは一人前の人格とは認められませんでした。しかしすべての人はそれぞれの人格をもっているのだからそれはおかしいというのが、現代の思想です。子どもも人格があり、その子どもの尊厳を守らなければいけないという考え方が近年高まっています。
 さらに、近代的な教育は子どもの自由な発想の芽を摘んでしまっているのではないかという発想まで出てきています。

[女性]
 同じような発想で、女性も考えることができます。近代以前は男は労働力として計算できるので男性上位の考え方が存在していました。そのために女性蔑視の社会が厳然として存在するようになってしまいました。その見直しが少しずつ始まっています。
 同じような考え方が少数派の人々にも向けられています。障がい者や、LBGTなどに向けた視点も近代への批判から生まれてきたものです。

[グローバル]
 「グローバル」も近代的な国家観の押し付けのような思想です。未開社会の国は近代化しなければいけないという発想です。しかし未開社会を無視やり近代化しなければならないのでしょうか。そもそも「グローバル」というのは、大国が自分の市場拡大のための方策ではなかったのかという疑念も生まれてきています。
 本当に英語力がそんなに必要なのでしょうか。

[ネット社会]
 「ネット社会」は近代の常識を現実的にどんどんぶち壊しています。情報をどのように扱うかを考えることは、現代的な大きなテーマとなっています。

[無意識]
 私たちの意識の下にははるかに巨大な無意識があることがわかってきました。同時に実は人間の行動は大部分は無意識に支配されていることもわかってきました。人間は意識で行動しているつもりでも、実は無意識に行動している。そのつじつま合わせを意識が行っているという考え方も生まれてきました。だとしたら、私たちの勉強ってなんの役にたつのでしょうか。

[現代をどう考えるか]
 以上のように現代文の評論文は「近代」に対する批判的な文章が多くあり、それが大学入試の「常識」となっているのです。そのことを頭にいれて、問題演習をしていると少しずつ速く文章がよめます。

 ただし、試験問題は思い込みで読むと間違ってしまいます。丁寧に読むことが一番大切です。しかしわからない文章がおそらくこういうことを書いているのだろうなという推測をするときに以上のことをヒントにしてください。
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GoToと新型コロナの感染を別物扱いしたいというのは危険だ

2020-12-13 13:17:31 | 政治
 田崎史郎氏と辛坊治郎氏が「GoToキャンペーン」と新型コロナウイルスの感染は関係がないという意見を言ったという。こういうことをテレビに出る人が軽々しく言うべきではない。

 確かに新型コロナウイルスと「GoToキャンペーン」が関係しているという確かな証拠はまだ出てきていない。しかし、新型コロナウイルスは無症状者も多く、そのため感染の正確な実態がつかめていない。だから人々の接触をできるだけ避けたほうがいいというのが科学者の共通した意見であり、その意見は十分納得できるものである。 

 さらに「GoToトラベル」を利用している人は新型コロナへの感染リスクが高いとする調査結果を、東京大学などの研究チームが発表したという。確かにこの研究チームの発表もまだ確かな証拠はないようであるが、急激に広まったウイルスの対応については可能性が高いほうを無視することはできない。

 感染拡大に関係がないかもしれないという可能性にすがって「GoToキャンペーン」をおし進めるのは、あまりに無理な意見である。もし政府が本当にそう思っているのならば、本当に無能である。ちょうど交差点を飛び出してもどうせ事故にはあわないと思って飛び出してしまう、暴走自転車高校生と同じだ。

 今政府は学術会議を悪者扱いし、科学的な知見を無視し、自分の都合だけの論理を組み立て政策を実行しようとしている。この暴走政府の犠牲になるのだけはご免である。

 田崎史郎氏と辛坊治郎氏を許しておいていいのか。マスコミも政府と一緒にゴミになってしまった。
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