とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

21世紀枠

2017-01-27 21:16:19 | 社会
 いつも思うのだが21世紀枠ってなんなのだろう。

 基準もあいまいだし、なんのためあるのか考えると誰も説明がつかない。

 そもそも名称の「21世紀枠」の意味がわからない。

 こんな意味不明の選抜をするのならば、初めから東北に3枠与えるべきだ。
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センター試験がダメなのは誰のせいでもないのだけれども

2017-01-26 14:16:24 | 高校国語改革
 このブログの「国語教育改革」の中で、センター試験を初めとする大学入試のあり方に批判をしています。ただし誤解のないように申し上げますが、これはだれが悪いというわけではないのです。

 そもそものセンター試験、そしてその前身の共通一次試験の役割は、入試問題ならびにその採点の適正化です。共通一次試験前の大学入試問題は、はっきり言ってしまえば出題者の好き勝手な問題だったのです。趣味的な文学史の問題、答えがどうとでも書けるような問題、出題の意図が読み取れないような問題など、だれも知らないような知識問題など、悪問だらけだったといっていいと思います。その当時の採点結果を今のように開示していたら、多くの大学は訴えられていたものと思われます。だから入学試験を適正にしたという意味で共通一次やセンター試験は必要だったのです。

 しかし、どのような制度でもそうですが、一度できてしまった制度はそれを守る形で固定化していきます。これは当然のことです。古い制度の中で努力してきた人にとっては、新しい制度は簡単には受け入れられません。古い制度を大きく変えてまで新しい制度を誕生させようとすれば、新しい制度が絶対にいいものになっていなければなりません。悪い言い方をすれば「抵抗勢力」がどうしても生まれてしまうのです。センター試験の弊害はだれもが気づき始めました。しかし、これまではセンター試験を改革するだけの力はだれにもなかったのです。

 人間の社会というのは、このような形で形骸化していきます。誰のせいでもない。しかし事態は悪くなっていく。いつの時代のどの政治も、このようなジレンマとの向き合いか方が問われているような気がします。

 そしてその戦いは自分自身の中にも必ずあります。古い自分を変えたい。しかし、変えられない。だから私たちは苦しみます。ここで注意しておきたいのは古い自分は悪い自分ではないということです。古い自分をよく見つめながら、古い自分と相談し、新しい自分にチャレンジする、そんな生き方ができたらと考えています。

 話はずれてしまいました。もとに戻します。

 この停滞した流れに大きな変化のきっかけが出現しました。大学入試改革です。大学入試改革が全面に出てきた今、変化の大きなチャンスです。この変化のチャンスにどう対応するか。今こそ教育界の英知の結集が必要です。
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劇評『足跡姫』(1月23日 野田地図公演・東京芸術劇場)

2017-01-25 05:56:32 | 演劇
 作・演出 野田秀樹
 出演   宮沢りえ 妻夫木聡 古田新太 佐藤隆太 鈴木杏 池谷のぶえ 中村扇雀 野田秀樹 他

 すばらしい舞台でした。「中村勘三郎へのオマージュ」とうたっての公演ですが、勘三郎さんへの思いが伝わると同時に、演劇の素晴らしさを伝える美しい舞台でした。

 私が野田秀樹の芝居を初めて見たのは、野田さんが岸田戯曲賞を受賞してすぐの「野獣降臨」の再演の時でした。もちろん「夢の遊眠社」時代。今調べてみたら1984年でした。本多劇場です。当時は「チケットぴあ」ではなく、プレイガイドでチケットを買う時代でいた。(「チケットぴあ」は存在はしていました。)神田の書泉グランデで買ったような記憶があります。発売日でもなかったのですが、前から3列目でした。そこで見た舞台は私を興奮させました。「演劇って自由なんだ。」と感じたのです。

 演劇は舞台があるので、その舞台で演じなければならないという「制約」があると感じていました。しかし、野田さんの舞台は、観客の想像力を刺激し、舞台上がどこにでもなります。時間も空間も自由に行き交う。さらに同じ役者が何役にもなります。誰にでもなることができ、どこにでも行ける。舞台の上には自由があったのです。これは映画にはできないことです。小説にもできない。それまで古い表現ジャンルだと思っていた演劇が、一番刺激的な新しい表現方法だと感じました。

 今回の『足跡姫』はそのころの感動を思い出させるような内容の話でした。舞台の上に穴を掘り、そこから地球の裏側にまで行くことができる。どこにでも時空を超えて行くことができる。実は実際にはそこまで穴を掘ることができない。しかしそこにはそこにみんなの思いがあれば、みんなの想像力があれば、世界はどこにでもつながっている。演劇の可能性を感じさてくれました。

 中村勘三郎さんの追悼公演でもあります。勘三郎さんの演劇界に残した足跡が決して消えることがない。いや時空を超えてきっと永遠に広がる、そんな思いが伝わる舞台でした。
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天下り?

2017-01-23 21:03:13 | 社会
 文部科学省が天下りを斡旋した今回の事件は本当に腹立たしい。しかし一方では問題の本質がどこにあるのかわからないという気もする。単なる手続きだけの問題のようにも思えるからだ。

 高齢者社会となり、文科省を退職したあとどういう職を得られるかはその人にとって死活問題である。現役時代にその準備ができなければ誰だって不安に感じてしまう。もし老後の心配があるのならば誰も国家公務員になんかなるはずがない。

 官僚の天下りは常に話題になる。だから今回の事件に腹が立つ。なんで分かっていながら、こういう問題が教育に携わる官庁から生まれるのだ。だから教育はよくならないのだ、という気持ちは、教員である私も同じように感じる。この腹立ちは一般の人よりも強い。

 しかし、本当に教育のことを考えている人が手続きに関する勘違いだけをしていて、このような問題をおこしたのようにも感じるのである。だとしたら、これをどうとらえるべきかわからなくなる。

 冷静な検証、冷静な議論、そして官僚制度の改革、そしてそれが真の教育改革につながることを期待する。
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センター試験が教育をゆがめている

2017-01-22 09:16:53 | 高校国語改革
 私は高校生時代は理系で数学や物理が大好きでした。物理学ではアインシュタインがすごいらしいということで、「相対性理論」って何なのか好奇心がわきます。そこで「相対性理論入門」を読んでみるのですが何を言っているのかよくわからない。結局はよくわからないまま高校は卒業しました。その後少しずつ理解できる部分が増え、今でもちゃんとは理解できているわけではないのですが、なんとなくならばわかるところもあるようになりました。だから今ならば今回のセンター試験のような難解な「科学論」でもある程度読みこなすことができます。しかし、高校生が今回のセンター世間のような「科学論」を理解することができるのでしょうか。理解する必要があるのでしょうか。

 教育は発達段階に応じて行われるべきです。小学生に微分積分を教えてもなんの意味もありません。同様に高校生に今回のセンター試験のような難解な「科学論」を出題しても何の意味もないのです。

 現在のようなセンター試験のあり方は高校教育をゆがめていくだけです。このゆがみは日本の伝統的な教育が原因になっているわけでも、グローバルゼーションのために起こっているのでもありません。ただ単に、「センター試験」の対応による国語の授業の形骸化というここ数十年だけの偶然的要素によって起こっているのです。さすがにこの現状はひどすぎます。

 ただちに改革が必要なのです。

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