とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

「なぜ見られることが怖いのか」(『こころ』シリーズ①)

2017-08-31 09:20:23 | 『こころ』
 夏目漱石の『こころ』を考えるシリーズを始めます。最初に石原千秋氏の「『こころ』で読み直す漱石文学」を読みながら、感じたことを書き残しておきます。

 第1章は「なぜ見られることが怖いのか」というタイトルがつけられています。筆者は「先生」は他人の眼差しを気にする人間であることを指摘します。次に人に見られているという意識は、自分を「外側から見られている自分」と「それを内側から意識している自分」とに分裂させると説明します。ところが自我の意識が強くなった近代人である「先生」は外側の自分と内側の自分とは一致しているべきだと考えていることを指摘します。だから「他人の眼差し」は自分自身であり、その結果他人の眼差しを気にせざるを得なくなると筆者は説明するのです。

 ではKはどうだったのか。Kは近代人ではありながら、自己の内面にこもり外部を遮断しています。「道」以外を見ない精神的世界の中で生きてました。だから他人の眼差しを気にする必要はなかったのです。だから、「先生」はKのことをうらやみ、尊敬していました。ところがKが恋をしてしまった。Kは恋によって他人の眼差しを気にせざるを得ない世界に生きなければならなくなり、それまでの自分と分裂することになります。その矛盾の中で苦しむことになるわけです。「先生」にとってみれば、畏敬する存在であったKが、普通の人になってしまったのです。だからこそ憎しみが増します。「先生」はKの苦しみを知りながら助けてやろうとはしなかった。それがKの自殺の原因だった、これが筆者の見解です。

 非常におもしろい意見だと思います。現代に生きる人間は他人の目を気にします。気にしすぎるのです。そしてそれがまじめなに人間にとっては死活問題にもなってしまうのです。近代以前は運命には逆らわない生き方をしており、自我の意識が相対的に低いものと考えられます。それに対して近代以降は自分なりの生き方をしなければなりません。自分は何者かを見極め、自分なりの生き方を強要させられます。それで各自が勝手に生きていけれるならばまだ苦しみはないのですが、他者からの視点と同一にならなければいけないと考えてしまったら、それは苦しいものとなるでしょう。

 ただし、ひとつ考えられるのは他者からの視点を気にするというのは、前近代的な村社会意識が根強く無意識の中に残っているからというのが、普通の考え方なのではないかということです。このあたりを宿題としておきます。
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