とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

夏目漱石の『草枕』を読む。3

2024-03-26 09:02:28 | 夏目漱石
 画工は宿につく。内部の構造が迷路のような宿である。那古井という土地自体も山の中の閉ざされた場所であり、しかもこの宿も迷路のようであり、異空間に幽閉されているような感覚をおこさせる。

 通された部屋は普段使っている部屋だという。客がないので他の部屋は掃除をしていない。突然の客であったために普段使っている部屋に通されたのだ。食事をとって風呂に入る。そして寝る。夢を見る。

 長良の乙女が振袖を着て、青馬に乗って、峠を越すと、いきなり、ささだ男と、ささべ男が飛び出して両方から引っ張る。女が急にオフェリヤになって、柳の枝へ上って、河の中を流れながら、うつくしい声で歌をうたう。救ってやろうと思って、長い竿を持って、向島を追懸けて行く。女は苦しい様子もなく、笑いながら、うたいながら、行末も知らず流れを下る。余は竿をかついで、おおいおおいと呼ぶ。
 
 この夢は「薤露行」との関連をうかがわせる。女は舟にのって流れていく。しかも歌を歌っているのである。この夢の舞台では「薤露行」でのシャロットの女とエレーンが同じ女が演じているころになる。さらにふたりの異性に好かれながら青馬に乗って峠を越すというのはランスロットを思わせる。しかも遠くでは戦争がおきている。この夢は「薤露行」の世界を日本に移したものなのだ。そしてこの夢をなぞるように「草枕」が展開していく。

 画工が眼を醒ますと夢と同じように、歌を歌っている女がいる。画工はそのときまだ那美と出会っていないので誰だか確定しないのであるが、那美であることは明らかだ。

 画工はここで詩人が自己を客観視する方法を説明する。俳句をつくることである。

 その方便は色々あるが一番手近なのは何でも蚊でも手当り次第十七字にまとめて見るのが一番いい。十七字は詩形としてもっとも軽便であるから、顔を洗う時にも、厠に上った時にも、電車に乗った時にも、容易に出来る。十七字が容易に出来ると云う意味は安直に詩人になれると云う意味であって、詩人になると云うのは一種の悟りであるから軽便だと云って侮蔑する必要はない。軽便であればあるほど功徳になるからかえって尊重すべきものと思う。まあちょっと腹が立つと仮定する。腹が立ったところをすぐ十七字にする。十七字にするときは自分の腹立ちがすでに他人に変じている。腹を立ったり、俳句を作ったり、そう一人が同時に働けるものではない。ちょっと涙をこぼす。この涙を十七字にする。するや否やうれしくなる。涙を十七字に纏めた時には、苦しみの涙は自分から遊離して、おれは泣く事の出来る男だと云う嬉しさだけの自分になる。

 俳句を作ることは異化する作業だというのである。漱石にしてみれば「写生文」というのは異化する作業そのものであったのである。

 夢うつつのなかで俳句を作っていると、部屋に女が入って来る。女は戸棚をあける。何かを取りに来たようだ。眼を醒まし風呂に行く。風呂から上がり、風呂場の戸をあけるとそこに女がいて、背中に着物をかける。女は「後目に余が驚愕と狼狽を心地よげに眺めている」。

 ところがこの女の表情を見ると、余はいずれとも判断に迷った。口は一文字を結んで静である。眼は五分のすきさえ見出すべく動いている。顔は下膨の瓜実形で、豊かに落ちつきを見せているに引き易えて、額は狭苦しくも、こせついて、いわゆる富士額の俗臭を帯びている。のみならず眉は両方から逼って、中間に数滴の薄荷を点じたるごとく、ぴくぴく焦慮ている。鼻ばかりは軽薄に鋭どくもない、遅鈍に丸くもない。画にしたら美しかろう。かように別れ別れの道具が皆一癖あって、乱調にどやどやと余の双眼に飛び込んだのだから迷うのも無理はない。

 どうも那美の顔は描写しづらいようである。この描写だけ見てみると、不細工な顔のように見える。しかし那美の美しさは小説の中ではっきりと表されている。なぜこのような描写になったのか。
 
 この女の顔に統一の感じのないのは、心に統一のない証拠で、心に統一がないのは、この女の世界に統一がなかったのだろう。不幸に圧しつけられながら、その不幸に打ち勝とうとしている顔だ。不仕合な女に違ない。

 那美には統一がないからなのだ。那美は何かに押し付けられている。それが圧力となり心を乱しているのである。これは閉鎖的な村社会の集団的な圧力のせいであろう。出戻りの那美は代々の気違いの血をうけついでいるという那古井の住民の集団的思い込みが那美に対して圧力をかけているのである。那美自身がそれを明確に意識していたのかはわからない。しかしその圧力から逃れる方法を外部から来た画工に感じたのだ。だから画工に対してさまざまな方法で絡んでいく。役者として絡んでいくのである。
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